第17話
暗く湿った洞窟の奥、壁面に浮かぶ魔法陣を背にして――巨大な翼を広げた"ルーンバット"が甲高い声を上げた。その咽頭から響く不気味な音色に、少しだけ気持ち悪さを感じる。
しかし、シドファは怯むことなく一歩前に踏み出し、にやりと笑って杖を構えた。
「おっし、いくッスよ!」
ルーンバットもそれに応じるように、羽ばたきながら空中にふわりと舞い上がった。
「――待ちなさい! あいつ、飛んでるじゃないの!」
しばし見上げたまま、ため息をつく。
「……ねぇ? これじゃあ杖で殴りようがないし、ここは一旦、別の方法を考えましょ?」
「ジャンプしてぶん殴れば問題なしッスよ!」
「はあ!? ふざけんじゃないわよ! 前より運動量増えてるじゃない!」
どれだけ言っても、シドファのやる気は揺るがない。私はがっくりと肩を落とし、ぽつりとつぶやく。
「……まったく、誰よ。コレを討伐しようって言ったの」
「ミレミさんッスよ。ほら、文句は後ッス! 跳べば届く高さッスから! おりゃあっ!」
シドファは膝を沈め、思い切り踏み込んでから、反動をつけて弾けるようにジャンプする。そのまま勢いよく宙を舞い、杖を振り下ろした。――ボゴッ、と軽い衝撃音が響く。
ルーンバットは悲鳴をあげることもなく、少しよろめいた程度だった。
「絶対しんどいやつ……はあ。こんな戦法、またやることになるなんて、誰も予想しないわよ……!」
ぼやきながら、私も杖を握り直す。そして、勢いよく飛び上がり、杖を振り下ろしたものの、ルーンバットにはかすりもしない。そのままバランスを崩し、「ぐぇっ!」と床に派手に転がった。
「……いったぁー……」
じんわりと痛みが広がり、思わず顔をしかめた――が、ふと、背後で別の苦悶の声が聞こえた。
「……く、苦し……もっと、ぐるじめぇ……!」
振り返ると、ラミシーが両手に杖を握ったまま、ふらふらと足をもつれさせている。どうやら彼女もシドファのまねをしてジャンプ攻撃を試みたらしいが……気力も体力も追いついていないようだ。
「あなたのほうがよっぽど苦しそうだけど……?」
ラミシーは顔を歪めながら、跳ぶたびに呻き声を上げている。確かに、あの虚弱そうな見た目から察するに、激しい動きには慣れていないのだろう。半ば泣きそうになりながら、何度も杖を振り下ろそうとするが、ほとんどルーンバットに届いていない。
――これはまずい。このままじゃ、一生クエストが終わらない!
再度、私も何度かジャンプを繰り返していた、そのとき――。
「――あ、やばッ!」
着地と同時に、腰に鋭い電撃のような痛みが走った。
私は思わず杖に寄りかかる。……まさか、こんな時に――。
「あいだだだだっ!! 腰ぃ! 腰やっちゃった! 痛い痛い!」
そう叫びながら、私は激痛をこらえて床を這うように移動し、なんとか壁際までたどり着く。ひどい動きだが仕方ない。脂汗が背中を伝い、視界がじんわりと揺れた。
「ミレミさん! 何やってんスか!」
「しょうがないじゃない! 歳だからたまにやっちゃうの! 言わせんじゃないわよ!」
壁にもたれ、杖を支えに姿勢を保つ。しばらく痛みが治まるまではこのまま安静にした方がよさそうだ。
その時だった。
視線を上げると、宙を舞うルーンバットが大きな口を開き――黒い霧のようなものを散布しはじめた。
「――ッ!? みんな、気を付けて! 毒攻撃が来るわよ!」
「……あれは、吸い込んだらマズいッスね……!」
シドファとラミシーが慌てて鼻や口を手で覆ったが、既に遅かったようだ。二人とも青い顔で軽い咳を繰り返している。明らかに毒状態に陥っていた。
私は腰の痛みに耐えながら、なんとか彼女たちのもとへ駆け寄ろうとするが――。
「あいだっ! ちょっ、腰が!」
軽く動かすだけでも激痛が走り、膝が崩れかける。シドファはそんな私の様子を見て、笑みをつくった。
「大丈夫ッスよ、このくらい! あたしが回復魔法を使うッスから……!」
そう言ってシドファが回復の呪文を唱えようとした――その瞬間。横からラミシーが素早く杖を構える。たった数語の詠唱ののち、明るい紫色の光が二人の体をさらっと包んだ。
「……【毒状態回復魔法】!」
「――えっ?」
あまりに一瞬のことで、私もシドファも言葉を失う。どうやら毒状態は完全に解除されているらしく、青ざめていた二人の顔色がみるみるうちに回復していった。
「は、はっや!? しかも……完璧に治ってるッス!」
その発動までの速さは、"天才ヒーラー"と呼ばれたシドファすら大きく上回るものだった。彼女は回復魔法の中でもバフ系を得意としているが、決して状態異常の回復だって苦手なわけじゃない。
そんな彼女を圧倒するほどに――ラミシーの状態異常回復魔法は、異常だった。
「まさか、あたしが回復速度で負けるとは……ホントに黒魔術士の見習いッスか? 自信、なくすッス……」
その顔には複雑な表情が浮かんでいた。――自分が得意とするはずの回復魔法で、予想外な相手に先を越されてしまったのだ。
だが、ルーンバットはそんな落ち込みも待ってはくれない。攻撃はそれで終わらなかった。
「――シドファ、しゃきっとなさい! 次の攻撃が来るわよ!」
ルーンバットが口を開き、耳障りな高周波を発した。低く蠢くような震動が空間を満たす。直後、シドファとラミシーがぐらりとよろめいた。混乱状態に陥ったのだろう。
「……くっ! やっぱり動けない!」
私も何とか助けに行きたいところだが、腰痛のせいでまともに魔法を打てる状況ではない。焦る気持ちがのどをかきむしるが――再び、あの素早い詠唱が聞こえた。
「……【混乱状態回復魔法】!」
なんと、ラミシーが自分自身を含めた混乱状態を即座に治してしまったのだ。正気に戻ったシドファは、その様子を見て再び絶句する。
「……今の混乱も回復できるッスか? しかもまた……はやすぎるッス……」
――前からその兆しはあった。でも、今ので確信した。
この子……もしかして、状態異常回復魔法に関しては、突出した才能を持ってるんじゃ……?
「っていうか、これじゃ黒魔術士ってより……ヒーラーのほうが、圧倒的に向いてるんじゃないッスか……?」
シドファがあっさりそう口にしたとたん、ラミシーの顔にかすかな動揺が走る。どこか戸惑うような、明らかに複雑な感情を抱えているのがわかった。
――きっと、褒められた嬉しさと、黒魔術への未練。その狭間で気持ちが揺れているのだろう。