九、二人だけの夜
K市駅に着いた。
電車が到着すると雨で濡れたに風が吹いて肌寒い。
帰宅ラッシュに巻き込まれながら、僕らは手を離さなかった。
僕が降りる駅が近づく頃にはだいぶ人も減り、二人並んで座っていた。
「次で降りる」
僕が言うと月野さんは「うん」と言った。
そろそろ月野さんともお別れなのだ。僕を殴ろうとした月野さん。万葉集を突然詠んだりする月野さん。
僕は月野さんがどこに住んでいるのか知らない。
連絡先も。本名かどうかさえも。
西村の元カノということだけだ。
電車は川を越えていく。
「つれてって」
鉄橋を渡る轟音に紛れて、月野さんは言った。そして、アナウンスがまもなくの到着を告げると、ますます僕の手を強く握りしめる。
「いいよね?」
その揺るぎない声に僕はうなずいていた。
まだ段ボールだらけ部屋へ彼女を連れてきた。
彼女は玄関の前に突っ立っている。
女の子を部屋まで連れてきて、きっと、もっとドキドキするべきなのだろうか。
もちろんソワソワはしていると思う。
でも、そんなんじゃないこともわかっている。
二人の間は、まだ、僕を殴るためのとんかちが存在しているのだから。この時、彼女がリュックに武器を護身用に忍ばせてきた理由がなんとなく理解できた。
「部屋には上がらない。靴下ベチャベチャだから」
そう言いながら月野さんは手を離さない。
「タオルくらい、持ってくるよ」
「いいからここにいて。話をきいて」
月野さんは迷い一つなく、まっすぐに僕を見つめる。
「今日だけ、あなたを許す」
思いがけない言葉に僕は声もなく笑ってしまった。
「ついさっき許さないって言っていたのに」
「うん。許さない。でもーー今日だけ。今だけ、ここでだけ。誰にも秘密にしてほしい。だから……」
月野さんは大きく深呼吸して、胸に手を当てる。何かを自分に言い聞かせているように。
「清水くん、よくきいて」
そして、意を決して僕を見上げると、静かに言った。
「あなたは悪くない」
僕は目を見開いた。
月野さんの言葉は心臓を射抜いた。一直線に真ん中を。でも、それは許されないと、決して自分で言わないようにすべき言葉だった。
「さっき言ってほしいって言ったでしょ?」
僕はどうしょうもなく狼狽えていた。
「でも、僕は友だちを殴った。もちろん理由はちゃんとある。でも、だからといって殴ってはいけないのに、殴った」
「うん。きっとアウトだろうね。だから今日だけ。ここだけ。二人だけ」
月野さんは笑う。
「今だけ、自分を許して」
「そんなことしてはだめだ」
「大丈夫」
「なんでそんなこと言えるんだよ」
「だって。見てられないから。清水くん、すごく苦しそう」
月野さんが僕の腰に手を回した。抱きしめられて、ゆっくりと彼女の柔らかな温もりが伝わる。
「あなたは悪くない」
僕は胸の奥の方で何かが崩れるのを聞いた。そして、そこから溢れ出るものを、止めることができなかった。
「あなたは悪くない」
その声は優しく肌に染み込んでいく。僕の頬に涙が伝い、彼女の髪に落ちるのをみた。
涙に潜んでいるのは後悔と罪悪感と、怒りと悲しみとーー
「西村のこと、一番の友だちだと思っていたんだ」
僕はそう言うと、声をあげて泣いていた。