八、正体
「西村が今どうしているか、清水くんは知ってるの?」
しゃがみこんだまま月野さんが訊ねたので、僕は首をふった。
すでに誰とも連絡を取らなくなっていた。高校に大学合格を知らせたくらいで。
僕は月野さんに歩み寄り、傘を広げた。雨は少し弱まったものの、ビニール傘に雨粒は落ち、柔らかな音を立てた。柄を持つ僕の手は小刻みに震えている。
「清水くん、西村は絶対に生きていると思っていた?」
月野さんは静かに立ち上がる。
「殴られて、倒れて、放置されて。死んでしまうかもしれないと思わなかったの?」
それはずっと考えていたことだった。
僕は何も言い返せずに月野さんを見つめていた。
あの日から僕は、怖くて、殴った後の西村がどうなったか確かめることができなかった。
あのまま雪に埋もれて冷たくなっていく西村が脳裏によぎり、眠れない日が続いている。
青ざめるしかできない僕に、月野さんは大きなため息をついた。
「生きてるよ」
ポツンと呟く。
「西村は生きているよ。安心しなよ」
月野さんの言葉が僕の肩をポンと叩き、全身の力が抜けていった。安堵に包まれていく。目の奥が熱くなって、瞼を閉じる。
「月野さんは何をどこまで知っているの?」
月野さんは首をふる。
「何も知らない」
「でも、生きてるって知っているし、西村の敵討ちって。西村に頼まれたの?」
「違う」
月野さんはとんかちをじっと見つめた。
「西村に頼まれたわけじゃない。とんかちで叩けなんて言うわけないじゃない。これはほとんど護身用」
月野さんが僕を見上げる。
「あの日。あいつは私を呼んだの。助けてくれって」
潤んだ黒い瞳と目が合い、すぐにそらされる。
「別れるって言ったの西村なのに。勝手だよね。やり直せるのかと期待しちゃった。行ってみたら、本当にただ助けてほしいだけ。しかも、誰にやられたか言わないし、今カノに言えない理由も教えてくれないし、それなのに誰にもこのことを言うなっていうんだよ?」
「どうして」
「知らない。だから、どうせ清水っていういつも遊んでたやつと喧嘩したんでしょって言ったら黙り込んで泣き出しちゃった。嘘がつけない馬鹿だから」
月野さんは小さく息を吐き出す。
「あいつはあなたを庇ったの」
淡々と静かに唇から言葉を落としていくけれど、僕を睨みつける月野さんは泣き出しそうな顔をしていた。
「それで。友だちの友だちだった清水くんのもと彼女さんから清水くんの進学先を聞き出して、大学付近まで探しに行ったわけです」
「すごい執念」
「怖くてけっこうです」
月野さんの声は震えている。
知りたかっただろうか。彼氏には新しい彼女がいたこと。
しかも、彼氏は清水とかいう男を庇う。
西村の心に月野さんが入り込む隙間はもうないのに、都合良く呼び出され、言われるがまま助けた。
寄りを戻せるかもしれないという仄かな期待を踏みにじられたというのに。
月野さんはとんかちをリュックにしまい、僕の手を握った。
「清水くん」
僕を見上げる真っ直ぐな瞳は行き場のない悲しみで溢れている。
「桜が観たい」
「ーー桜?」
「観に行こう」
あまりに突然過ぎて棒立ちになった僕を、月野さんは強引に引っ張って歩き出す。僕も観念して彼女が濡れないように傘を差し出しながらついていく。
細い裏道から神社の正面に来ると、雨だというのにまだ人が何人も集まっていた。ただ、身を寄せ合って傘を差したり、軒下に避難しているようだ。
そんな人たちの頭上には桜が咲いていた。まだ満開とは言えないけれど、ピンク色の雲を広げたようだった。提灯の仄かな明かりと混じり合って、優しい色を滲ませている。
「花見って本当に存在したんだね」
月野さんは辺りを物珍しそうに見回して言った。飴にも関わらず出見世も出ていた。
僕らは境内も参道も通り抜けていく。
「清水くんは知らないと思うけど、一度高校で話したことあるんだよ?」
「えっ!」
「教室に行って、西村いますかって聞いた。清水くん、呼んでくれたよ。私、普通科じゃないから滅多に会わないし、忘れるよね」
西村に彼女がいることも知らなかったけれど、一度会っていたなんて知らなかった。
「だから、清水くんのこと知ってたの。西村の仲が良すぎてすごい嫉妬したことある。あの公園でいつも会っていることも知ってた」
そんなヤキモチの存在に気づいたことはない。僕は彼女のことを話していたから、西村が秘密にしていたことが寂しくなった。
「西村のことすごく好きだった」
月野さんはさらりと言った。
その西村を殴った僕と手をつないだまま。西村を奪った彼女の元彼の僕の隣で。
「月野さんは、殴るためにずっと僕の跡をつけていたの?」
「うん。大学行きのバスから。だから、知っているよ。あなたは構内の森を行ったり来たり、ぼんやり電車を眺めたり、まるで幽霊みたいだった」
月野さんが握った手に力を込める。
「あんな弱々な男を殴っても、私が悪者になるだけ」
「逃げたくてしかたなかったんだよ」
今度は僕が手を握り返した。
「西村を殴って、そのまま見捨ててしまったことから」
あの日、次第に強くなる雪の中を走った。気づいたら駅にいて、いつもの通り改札を通り抜けていた。振り返って戻る機会はあったのに、僕は帰ってしまったのだ。
「何もかも忘れたかった。裏切られたことも、あんな風に衝動的に友だちを殴ってしまったことも、認めたくなかった」
正面の鳥居を抜ける頃、ビニール傘に花びらが張り付いた。
「ここの桜、散ってるね」
月野さんが僕の傘から抜け出して舞い散る桜に手を差し伸べた。僕はその背中のリュックにも花びらが落ちていくのを見つめる。
「この辺だけすごい咲いている。日当たりの関係なのかもしれない」
ふいに強い風が吹いた。桜の花びらを散らしながら、月野さんの髪を揺らしていく。
僕は、いつの間に彼女の髪についた花びらを取った。
彼女が驚いて振り返った。ふわりと立ち込めた冷たい風の匂いは、居残る冬の面影を呼び起こす。
あの日の雪の匂いを。
「清水くんも花びらがついている」
背伸びをした月野さんの手が僕の前髪に触れ、花びらを取る。
「……わたしは許せない」
そう呟きながら。
「西村が許しても。殴ったことも、見捨てたことも。もしかしたら死んでしまうかもしれないのに。しかも西村が何も言わないのをいいことに、謝罪もしないで逃げ隠れている。なんの咎も受けずに大学生になろうとしている」
「うん」
心の中を見透かされ、僕はうなずくしかなかった。
「僕は逃げて、隠れて、そのくせ誰かに、お前は悪くないって、言ってほしかったのかもしれない。西村だって悪いんだって、言い訳を肯定してほしかったのかもしれない。最低だね」
もはや自分を嘲って笑うこともできなかった。
「西村が死んだかもしれないと思って、本当に怖かった。怖くて確かめることも出来なかったーーだから、教えてくれてありがとう」
「お礼はやめて。わたしがあなたを追いかけたのは、そこまで純粋な動機じゃない」
「そんなことないよ。西村のために僕に会いに来たんだから」
「違う」
月野さんが僕の手をもう一度握った。
「ただの嫉妬と八つ当たりだから」
そういうと、再び僕の手を引いて歩いていく。
「どこへいくの?」
月野さんは振り返った。
「一緒に帰ろう」