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四、あしひきのやまのしづくに

 僕たちはK駅で乗り換え、K市駅で降りた。

 もう夜の齧りかけみたいな時間になっている。

 そこから本K駅まで歩いていく。すれ違う人たちのおしゃべりが明るく弾んで、ざわめきさえ春めいている。

「天気の割に人が多いですね」

 ふと、月野さんが言う。雨はかろうじて止んでいたが、星も見えない曇り空を見るとこれから晴れていくようにも思えない。

「この辺に花見の名所がいくつかあるらしいですよ」

 僕が答えると、月野さんが「なるほどね」と言った。

「花見にはギリギリの空模様ですね」

 灰色の空を見上げた。雨雲で埋め尽くされてどんよりしている。花見をしたいなんて思えない

「わたしは花見なんてしたことも見かけたこともないです。レジャーシートを敷いて花見とかって本当に存在するんですか?」

 月野さんも空を見ている。今にも降り出しそうな、雲の垂れ込めた空を。

「うちの田舎では花見しましたよ」 

 答える僕に振り返った。

「楽しいものですか?」

「全然です。もう面倒くさくて吐き気がする。楽しむのは酒飲みの大人たちだけだし」

「清水くんはしないんですか?」

 訊ねられ、僕は首を横に振った。

「あんまり興味ないですね」

 我ながらしらけた答えだった。月野さんはつまらなそうに口をとがらせる。

「あ、コンビニだ」

 ふと、月野さんが先に見えてきた看板に目を凝らす。

「ちょっと寄っていいですか? 傘、買ってきます」

 僕は「いいですよ」と答えて、二人でコンビニへ急いだ。


 月野さんは一人でコンビニへ入り、僕は外で待っていた。その間、再び霧雨が降り始めた。

(雨か)

 湿っていく髪と、服と。だんだん体も冷えてきていた。それでも、もう雪ではなく雨で、冬ではなく春だ。もう僕は高校生ではない。

 風に流される小さな雨粒を眺めていると、コンビニから出てきた彼女がこちらに駆け寄ってきた。

「ごめん。待たせました」

 そういってビニール傘を差し出した。僕の分も買ってきてくれたのだ。

「いや、でも」

「送ってくれたお礼だから気にしないでもらって」

「ーーありがとう」

 素直に受け取ると、月野さんは首を少しだけ傾けて笑う。照れたようなその仕草に目を離すことができなかった。わずかに見せた柔らかな表情は、彼女が初めてのぞかせた素の顔なのだと思う。

「あしひきの」

 僕の視線から逃れるように突然ポツリと呟いた。

「えっ?」

 僕は聞き返す。

「あしひきの やまのしづくにいも待つと」

 うつむいた横顔は、湿気でうねった髪が隠れて見えない。

「吾たち濡れぬ やまのしづくに」

 そこまでいって、正解を求めるように僕を見る。

「万葉集?」

 僕は答えた。これでも受験勉強をしてきたから、モヤモヤと覚えていた。

「そう。恋人とこっそり会うために山の中で待っていても来なかった。山のしづくに濡れちまったよっていう歌」

「ほんとに?」

「ちょっと適当」

 月野さんは髪を耳にかけ、僕を見つめた。そして、またスラスラと和歌をよみ上げる。

「我を待つと 君が濡れけむ あしひきの やまのしづくに ならましものを」

「今度は何?」

「さっきの返事。あなたを濡らした山のしづくになりたかったわっていう意味」

「それが、どうしたの?」

 だんだん雨脚が強くなり、傘をたたく雨音がうるさくなってきた。ビニール傘を買い、僕らは並んで歩く。

「雨のしずくに濡れてしまったなぁって思って、思い出しました」

 誰かが、月野さんにこの雨のしずくになりたいなんて返すのだろうか。

 S駅で待つ誰かだろうか。

「月野さん」

 バス停で僕に話しかけたのは偶然なのだろうか。

 そう聞こうとして言葉が続かなかった。怖くてできない。

 月野さんが時々見せる鋭い視線は好意ではない。

「この和歌の二人は結局会えなかったってことですか?」

 僕は聞いてみる。

 瞬間、月野さんの目が僕をとらえた。さっきまでの穏やかな笑顔が消え、電車でみた冷たい表情に戻る。

「さあ」

 うつむいた彼女の髪が、またその横顔を隠した。

「でも、会えなくても、返事があるだけ幸せですよね」

 意味ありげな言葉を吐き出す。

「僕、何か……」

 悪いことを言いましたか?

 僕はそうストレートに言おうとして、慌てて口をつぐむ。月野さんの口元が震えていたのだ。

「この歌を詠んだ男、殺されるんです」 

 殺される。

 僕の視界が暗くなる。

「殺されるんです」

 月野さんは念を押すように繰り返す。胸に刺さったナイフをより深くに押し込めるように。

 痛いほどの沈黙が耳に突き刺さる。

 僕は月野さんに聞かないといけないことがある。

 何故僕の名前を知っているのか。

 もしかしたら、西村のことを知っているのではないか。

 

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