三、月野さん
初対面の女性のそばで、気まずいとは違うような、むず痒いとも言えないような、面倒くさいわけでもないような、そんな気持ちで電車を待っていた。
リュックの彼女は月野と名乗った。やはり同じ高校出身だった。
「もうすぐ入学式ですね」
月野さんは、ホームから見える線路沿いの桜を指差す。
「桜、入学式までもつかもしれないですね」
ぽつんと佇むその桜は雨に濡れて、ピンク色が少ししょげて見える。
今年は咲くのが遅いとか早いとか、そういえば朝のテレビで騒いでいた。でも、僕は桜なんて好きじゃなかった。
「なんでバスに乗っていたんですか? 学校が始まるのは4月1日からなのに」
不意に月野さんが訊ねてきた。
「登校の練習です。バスの時間とかよくわからないんで。あと学校の周りを少し散策しました。バイトをどうするかとか、考えないといけないんで」
「真面目ですね」
月野さんが無表情のまま吐き出した。
「月野さんは? どうしてバスに乗っていたんですか? 自分の通う大学でもないのに」
「……私は」
リュックの彼女、月野さんは口の中をモゴモゴさせてから黙り込む。黙秘らしい。
電車の到着を知らせるメロディが流れ、それを合図に僕も黙った。遠くで踏切がカンカンと鳴っている。
(どこまでが嘘なのかな)
月野という名前は本当なのだろうか。
確かめるすべもなく電車はやって来た。車内は部活帰りの高校生でうるさかった。僕らは引き続き、誰も喋らず、もとの見知らぬ他人のように振る舞う。
月野さんはドアのそばのつり革につかまる。僕は月野さんのつり革から二人分離れたところにつかまった。
それからは、ずっと窓の外を眺めていた。田園を抜け、川を越え、駅が近づくとふいに建物が増え始め、到着すればドアを開け、呼吸するみたいに乗客を降ろしてはまた乗せていく。
ところどころで咲く桜にヒリヒリと胸が痛い。今年は桜を見たくなかった。流れていく景色の中にあっても桜は薄桃色に浮き上がって、嫌でも視界に入り込む。
僕の中にある後悔をじんわりと照らし出す。
ふと視線を感じて我に返った。
にぎやかな高校生に隠れて、窓に映る月野さんが僕をじっと見つめていた。
(何でそんなに見るんだ?)
ドギマギしたのはほんの一瞬。冷たい表情から放たれるその視線は好意ではない。さすがに気づいた。
アナウンスの後に電車は駅で停車し、扉は開く。車内を騒がせていたほとんどが下車し、静かになったところで扉は閉まり、再び走り出す。
その間も、月野さんは僕から目をそらさない。目の前の座席が三人分空いても動かない。
「あの、どうしたんですか? 僕、何かしました?」
耐えきれず、僕が訊ねると、月野さんは眉間にシワを寄せた。
「清水くんこそ、どうしたんですか?」
「僕はどうもしないですけど」
「何か苦しそうですよ」
「苦しそう?」
鏡代わりに窓を見る。青ざめた僕の顔が映っている。
「座ります?」
「いえ、大丈夫です。そろそろK駅だし」
「まだ10分はかかります。座りましょ」
突然、月野さんは僕の手を握った。ヒンヤリと冷たい手のひらが、キュッと僕の手を引っ張る。
「一緒に座りましょう」
じっと見つめられ、僕はコクリとうなずく。手を繋いだまま、月野さんが先に座った。その隣にゆっくりと座る。
月野さんの腕が僕の腕に触れていた。手も握ったままだ。
わけが分からず、僕は頭が沸々と煮立ってきそうになっている。
こんなことして。もしかして僕のことが好きなの?
そんな予感に心躍りかけたけれど、それはすぐに終わる。
わずかでも浮かれた自分をグシャグシャにして踏みつけてやりたい。
(そんなはずはない。それに、恋愛をする権利なんて僕にはない)
桜を見ると蘇る。
いや、見なくてもずっと心にあの日が棲みついている。
「ほら」
突然、月野さんが握った手に力を込めた。
「またそんな顔をしている」
こちらを見もせず呟く。
「地獄の受験が終わって、やっと大学生になるんだから、もっと浮かれていればいいのに」
小声でそう吐き捨てた月野さんの横顔の、形のいい、少し小さな鼻のラインを視線でなぞる。
彼女は何者なのだろう。
本当に同じ高校だったのだろうか。
僕を知っている。
でも、僕は彼女を知らない。
手のひらから伝わるのは優しさなのに、僕を見る瞳は、どこか僕を責めていた。