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1946年2月14日、東京
焼け跡の街は、まだ冬の匂いがした。
雪は降っていなかったけれど、空気はひどく冷たくて、夕暮れが近づくにつれて凍えるような寒さになっていく。
坂本誠司は、ポケットに手を突っ込んだまま、ふらふらと街を歩いていた。
21歳。戦争が終わったとはいえ、彼の人生が突然バラ色になるわけじゃない。職はない。家もない。家族もいない。
「生き延びた」 それだけだった。
「おい、そこの若いの」
道端の闇市から声をかけられる。着物姿の男が、ガラクタのような品々を並べながら誠司を見ていた。
「金はねえよ」
誠司は足を止めずに呟いた。
「ふん、誰も金があるとは思っちゃいねえ。ただ、そこの米兵には気をつけな」
男が顎で示した方向を見ると、進駐軍の米兵が数人、談笑しながら歩いていた。見慣れた光景だった。日本人が彼らの影に怯え、あるいは媚びへつらい、彼らの持つ物資に群がる。
俺はどっちにもなれない。
そんなことを考えながら歩いていたその時だった。
「Hey, you!」
不意に背後から英語が飛んできた。
振り向くと、米兵がひとり、にやりと笑いながら手を差し出してくる。
大きな手。その中には、小さな銀色の包みがあった。
「Chocolate. You take.」
チョコレート。
誠司は思わずその銀紙を見つめた。ピカッと光る、まるで宝石みたいな包み。
こんなにきれいなもの、戦争中は一度も見たことがなかった。
一瞬、受け取るのをためらった。誇りなんて、もうとうに捨てたはずなのに。
「Oh, come on. Take it.」
米兵は大げさに肩をすくめ、誠司の手を取ると、強引にチョコを握らせた。
そして、軽く敬礼してそのまま去っていった。
手のひらの中の銀紙が、冷えた指先にじんわりと温かかった。
「お兄さん、チョコもらったんだ?」
ふいに、鈴の音みたいな声がした。
振り向くと、そこにひとりの少女が立っていた。
真っ白なワンピースに、長い黒髪。
ぱっちりとした大きな瞳が、まるで夜空に輝く星みたいにこちらを見上げていた。
「……誰だ?」
「あたし、叶。」
少女はにっこりと微笑んだ。
「チョコ、好き?」
「……食べるのなんて、何年ぶりかな」
「じゃあ、開けてみなよ」
促されるままに、銀紙をそっと剥がす。
中から、黒光りするチョコレートが現れた。
「ほら、チョコっとチョコっと開けて、チョコっとチョコっと見なきゃ。ぜんぜんなんにもわからないでしょ?」
叶は楽しそうに歌うように言った。
誠司は、なんとなくその言葉に従い、小さくかじった。
――甘い。
じわっと舌の上に広がる、なめらかで濃厚な甘さ。
戦争中に食べていた代用甘味料のものとは、比べものにならない。
「……甘いな」
「うん、チョコだからね」
叶はくすくすと笑い、地面にしゃがみ込んで小石を拾った。
「ねえ、お兄さん。叶えたい願いはある?」
「願い?」
「そう。たとえば、王子様になりたいとか、アイドルになりたいとか」
「……そんなもの、ないよ」
叶は「ふーん」と頬に指を当てて、じっと誠司の顔を見つめた。
「じゃあさ、神様になってみる?」
「……は?」
「あなたが神様になって、あなたの神様になって、叶えちゃいなよ!」
そう言って、ぱっと両手を広げた。
まるで、本当に天使みたいだった。
誠司は笑った。
こんな寒い夜に、チョコレートをくれた米兵と、よくわからないことを言う少女。
「変なやつ」
「ふふ、よく言われる!」
そう言って、叶は星屑みたいな笑顔を浮かべた。
その瞬間、誠司はなぜか確信した。
この夜は、一生忘れない。
銀紙のようにきらめく奇跡が、たしかにここにあった。
1946年2月15日、東京
夜が明けると、街はいつもの焼け跡の風景に戻っていた。
昨日の奇跡のような時間は、まるで夢だったかのように、どこにも痕跡を残していない。
だけど、誠司のポケットには、くしゃくしゃになった銀紙がまだ入っていた。
チョコレートの甘さはすでに消えていたけれど、あの一瞬の温もりは確かに残っていた。
「お兄さん、今日はどこへ行くの?」
またあの鈴のような声がした。
振り向くと、叶が昨日と同じ白いワンピースを着て、焼け跡の道に立っていた。
冬の冷たい風が吹いても、彼女はまったく寒そうに見えなかった。
「お前、どこに住んでるんだ?」
「うーん……秘密!」
叶はくるりと回って、地面の小石を蹴った。
「ねえ、お兄さん。今日はどんな願いを叶えたい?」
また、その話か。
「昨日も言っただろ。俺には願いなんてない」
「ほんとに?」
叶は誠司の目をじっと覗き込んだ。
「ほんとに、ほんとに、なにもない?」
「……」
誠司は答えなかった。
願いなんて、とっくに捨てたつもりだった。
戦争が終わるまで、生きることだけが目標だった。
終わってみれば、何も残らなかった。
家族もいない。
夢もない。
愛する人もいない。
「お兄さん、本当は何かを願ってるんじゃない?」
「……」
その時、ふいに、遠くから**「パンッ」**という乾いた音が響いた。
銃声だ。
誠司の体が無意識に反応した。
反射的に身を屈め、周囲を見渡す。
「お兄さん、大丈夫?」
叶が、不思議そうにこちらを見つめていた。
「……お前、怖くないのか?」
「怖くないよ」
「なんでだ?」
「だって、もう知ってるから」
「……何をだよ?」
「お兄さんが、戦場にいた時のこと」
――ゾクリと、背筋が凍った。
「……お前、何者だ?」
「ただの叶だよ」
叶は、にっこりと微笑んだ。
まるで、何も知らない子どもみたいに――
それでいて、すべてを知っているかのように。
誠司は、無意識にポケットの銀紙を握りしめた。
この少女は、一体――?