樹海の探索行
夜明けと共に見慣れた(と言ってもまだ数日だが)湖畔の拠点を後にし、俺は一人、森の奥深くへと足を踏み入れていた。目指すは昨日、魔法による探知で捉えたあの複数の「気配」。最初は人間かとも思ったが、そのどこか冷たく、生命感が希薄な印象は、期待よりも不安を掻き立てる。だが、確かめないわけにはいかない。情報が、あまりにも少なすぎるのだ、この世界は。
一歩足を踏み入れるごとに、森はその様相を変えていく。もはや単なる「森林」ではない。これは「樹海」と呼ぶべきだろう。天を突くようにそびえ立つ巨木群は、その枝葉を複雑に絡み合わせ、空を覆い隠している。陽の光はかろうじて木々の隙間から差し込む程度で、昼間だというのに全体的に薄暗く、湿った土と腐葉土の匂いが鼻をついた。
(……武器らしい武器、持ってきてないな……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。腰には、木の枝を削って作った粗末な槍があるだけだ。魚を捕るのには役立ったが、本格的な戦闘になった場合、これがどれほどの助けになるというのか。拠点にいる間、もっとマシなものを作っておくべきだった。例えば、硬い木を削り出した棍棒とか、石を打ち付けて刃物のようなものを作るとか。自分の魔法の力にどこか驕りがあったのかもしれない。この樹海では、いつ何が襲ってくるか分からないというのに。後悔先に立たず、とはこのことだ。
見たこともない形状の植物が足元を覆い、時折、不気味な色のキノコが木の根元に群生しているのが見える。鳥の声はほとんど聞こえず、代わりに、どこからともなく響いてくる甲高い虫の鳴き声や、何かが擦れるような乾いた音が、静寂を一層深くしていた。
(……空から、か……)
以前、コガネムシの群れから逃げる時に使った飛行魔法。あれを使えば、もっと広範囲を素早く探索できるかもしれない、と一瞬考えがよぎる。俺の魔力量なら、おそらくかなりの時間飛んでいられるだろうという妙な自信もある。だが、すぐにその考えを打ち消した。
この樹海だ。見渡す限り、どこまでも続く木々の天蓋。空から見たところで、見えるのは緑の絨毯だけで、地上の様子――食料になる木の実や、隠れているかもしれない危険な獣の姿、そして何より、俺が追っているあの微かな「気配」の正確な位置――を把握するのは不可能に近いだろう。
それに、空を飛ぶということは、格好の的になるということだ。この世界にどんな生物がいるのか、まだ何も分かっていない。空を縄張りとする強力な捕食者がいないとも限らないし、地上にいるかもしれない知的な敵対者に、こちらの存在を大々的に知らせてしまうことにもなりかねない。ステルス性は皆無だ。
多少時間がかかっても、危険が多くても、地上を慎重に進む方が、今のところは得策のはずだ。
未知への好奇心がないわけではない。だがそれ以上に、五感を絶えず刺激するこの異様な雰囲気は、じわじわと恐怖心を煽ってくる。一歩進むごとに、何が潜んでいるか分からない暗がりへと自ら進んでいくような感覚。昨日の藤牧の話にあった「化け物」や、あの人型コガネムシの悪夢が脳裏をよぎり、自然と粗末な槍を握る手に力が入る。
この世界に来てから、俺は無意識のうちに、あの「気配を探る」魔法を常に発動させているようだった。目を閉じずとも、意識を集中すれば、自分の周囲に常に薄い膜のような感覚野を広げ、周囲の微かな生命の息遣いや、魔力と呼ぶべきか、特有のエネルギーの流れのようなものを感じ取れるようになっていた。
ただ、この「常時発動」には代償があるのか、時折、体内の何かがじんわりと外へ漏れ出していくような、微かな疲労感にも似た感覚があった。これが、芦田が感じていた魔力の消耗というものに近いのだろうか。だとしたら、俺の「タンク」は相当大きいか、あるいは回復が異常に早いのかもしれない。
そんなことを考えながら進んでいると、ふと、茂みの奥で何かが動く気配を捉えた。
身を潜め、息を殺してそちらを窺うと、現れたのはリスに似た小動物だった。だが、よく見るとその体毛は不気味な紫色で、目が異様に大きく、そして何よりも、背中からカマキリの鎌のような鋭い突起が二本、逆立つように生えている。
(……やっぱり、まともな生き物はいないのか、この世界は)
その「リスもどき」は、俺の存在には気づいていないのか、地面に落ちた木の実のようなものを忙しなく口に運んでいた。弱そうだ。食料になるだろうか。一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、あの禍々しい鎌を見て、すぐにその考えを打ち消した。下手に手を出して、毒でも持っていたら目も当てられない。
しばらく観察していると、リスもどきは木の実を食べ終え、素早い動きで木の幹を駆け上り、樹海の闇へと消えていった。
その後も、何度かそういった「地球の動物に似ているが、どこか異形な」弱いモンスターに遭遇した。蛇のように長い舌を持つウサギや、羽ではなく薄い皮膜で空を滑空するネズミなど。どれもこれも、こちらの世界の生物とはかけ離れた姿をしており、この世界の「弱肉強食」という言葉の重みを改めて感じさせられる。彼らは一様に俺の気配を察すると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
だが、奇妙なことに、あれだけの広大な樹海を進んでいるというのに、大型の獣や、それこそコガネムシのような、明らかに「強い」と感じさせるモンスターの気配には、まるっきり遭遇しなかった。
最初は運がいいだけかと思っていたが、半日近く歩き続けてもその状況が変わらないとなると、さすがに不自然さを感じる。これだけの森だ、もっと大きな、縄張りを主張するような捕食者がいてもおかしくないはずだ。
俺の探知魔法は、確かに広範囲の気配を捉えている。時折、遠くの方で、明らかに強大で禍々しいエネルギーの塊のようなものを感じることもあった。だが、そういう気配に限って、俺がそちらへ意識を向けたり、少しでも近づこうとしたりすると、まるで警戒するかのようにスーッと後退したり、あるいは最初から一定の距離を保って動かなくなったりするのだ。
(……もしかして、避けられてるのか? 俺が……)
だとしたら、なぜだ? 俺が放つ魔力、あるいはこの常時発動している探知魔法が、彼らにとっては何らかの「危険信号」として認識されているのだろうか。俺自身、自分の力の全容を把握できていない。無意識のうちに、彼らを威嚇するような何かを撒き散らしているのかもしれない。
そう考えると、少しだけ心強いような、それでいて、自分の力がますます得体の知れないものに感じられて、薄ら寒いような、複雑な気分だった。
しかし、いくら探知魔法を使っているとはいえ、この樹海はあまりにも広大で、そして単調すぎた。似たような太さの巨木、同じような下草、方向感覚を狂わせる薄暗さ。太陽はほとんど見えず、頼りになるのは自分の感覚だけ。
(……まずいな。どっちに進んでるんだ、俺は……?)
しばらく進んだところで、俺はついに自分が道に迷っていることを認めざるを得なかった。探知魔法は周囲の「気配」は教えてくれるが、地図のように方角を示してくれるわけではない。目印になるような特徴的な地形も見当たらず、自分が今どこにいて、目的地がどの方角にあるのか、全く分からなくなってしまった。
焦りがじわじわと胸を侵食してくる。好奇心は、いつの間にか未知への恐怖へと姿を変え始めていた。
日が傾き始め、樹海の中はさらに暗さを増していく。
(……これ以上進むのは危険か……)
目的の気配には、まだ到底たどり着けそうにない。それどころか、無事に拠点へ帰れるかどうかも怪しくなってきた。
俺は、比較的開けた場所を見つけ、そこで野宿の準備を始めた。魔法で火を起こし、周囲の木の枝を組んで風除けを作る。食料は、探索中に見つけた木の実と、拠点から持ってきた干し魚が少しだけ。
一人きりの夜は、想像以上に心細い。焚き火の明かりが届かない闇の向こうから、いつ何が飛び出してくるか分からない。探知魔法は常に発動させているが、それがどれだけ当てになるのか。
樹海は、俺という小さな存在を、まるで嘲笑うかのように静まり返っていた。
俺は、粗末な槍を抱きしめるようにして、焚き火のそばで体を丸めた。
早く夜が明けてほしい。そして、無事にあの二人のもとへ帰らなければ。
そんなことばかりを考えながら、俺は浅い眠りへと引きずり込まれていった。