静かなる亀裂
湖畔での生活が、一週間ほど過ぎた頃だった。
俺、北山、芦田の三人は、原始的ながらもなんとか生き抜くためのリズムを作り上げていた。水と食料の確保、拠点の維持、そして交代での見張り。夜空に輝く見慣れぬ星座の下、いつ襲われるか分からない恐怖と戦いながらも、互いを支え合うことで、かろうじて正気を保っていた。
俺は日中、単独で森の探索範囲を広げることを日課としていた。より多くの食料、より安全な場所、そして何よりも、この世界のことを少しでも知るための情報を求めて。それは、俺の魔法の力が他の二人よりも格段に大きいこと、そして、この得体の知れない力への探求心が、俺を突き動かしていたからだ。
その日も、俺はいつもより少し遠くまで足を延ばしていた。新たな食料源になるかもしれない木の実の群生地を見つけ、地図代わりに使っている木の皮に印をつけた、その時だった。
森の奥、木々の密集した方角から、微かに獣の呻き声のような、そして何かが激しく争うような物音が聞こえた気がした。一瞬、緊張が走る。
(……なんだ? 獣同士の縄張り争いか……それとも……)
この森では、常に最悪を想定しなければならない。俺は息を潜め、音のした方へ慎重に近づいていった。
茂みの影からそっと様子を窺うと、信じられないものが目に飛び込んできた。
数匹の、見たこともない猪のような獣が、地面に倒れ伏している。そして、その傍らで、ボロボロになった制服姿の男が、肩で大きく息をしながら、震える手で木の枝を握りしめている。
その顔には見覚えがあった。まさか、とは思ったが、間違いない。
「……藤牧……!?」
俺の声に、その男――藤牧孝浩――が、ビクッと体を震わせて振り返った。その顔は泥と汗で汚れ、恐怖と疲労がありありと浮かんでいる。
「か、川崎……!? なんで……お前が、ここに……?」
藤牧は、まるで幽霊でも見たかのように目を丸くし、言葉を失っている。俺だって同じだ。まさか、こんな場所で、クラスメイト――それも、藤牧のような奴と再会するなんて、夢にも思わなかった。
「それはこっちのセリフだ!お前こそ、なんでこんなところにいるんだ!その怪我……一体何があった!?」
俺が駆け寄ると、藤牧は緊張の糸が切れたようにその場にへたり込み、荒い息を繰り返した。
「……化け物だ……。森の中で、いきなり……訳の分からない化け物に襲われて……。一緒にいた奴らは……みんな……」
そこまで言うと、藤牧は言葉を詰まらせ、顔を歪めた。その目には、確かに恐怖の色が宿っている。
「他の奴らもいたのか?お前のグループは?」
「ああ……いたんだ。でも……もう……。俺一人だけなんだ、逃げられたのは……。あいつら、角が生えてて、爪がナイフみたいに鋭くて……人間じゃなかった……」
藤牧が語るその化け物の姿は、俺たちが遭遇した人型コガネムシとはまた違うようだが、この森が危険な存在で満ちていることを改めて思い知らされる。
「……そうか。とにかく、立てるか?俺たちの拠点まで来い。手当が必要だ」
俺が手を差し伸べると、藤牧は一瞬ためらうような素振りを見せたが、やがて力なく頷き、俺の腕を掴んだ。思ったよりも体重が軽く、そしてひどく震えているのが伝わってきた。
拠点に戻り、藤牧の姿を見た北山と芦田の反応は、俺とほぼ同じだった。驚き、戸惑い、そしてどこか釈然としない表情。特に芦田は、藤牧の顔を見た途端、あからさまに顔を顰めたが、彼の惨状を前にしては、さすがに何も言えなかった。
俺たち三人は、藤牧に対して決して良い感情を抱いていたわけではない。むしろ、クラスでは浮いた存在で、俺個人としては「若干嫌い」という部類に入る。だが、同じ状況に放り出されたクラスメイトだ。しかも、今は満身創痍で助けを求めている。見捨てるという選択肢は、やはり俺たちの中にはなかった。
芦田が黙って藤牧の傷の手当てをし(幸い、大きな怪我はなかったようだ)、北山が貴重な水を分け与える。その間、藤牧は、自分たちがどこかの洞窟を拠点に数人で行動していたこと、食料を探している最中に正体不明の化け物の群れに襲われ、必死で逃げてきたが、気づけば一人になっていたのだと、途切れ途切れに語った。その話の端々から、彼が相当な恐怖を味わってきたことが窺える。
「……川崎たちがいてくれて、本当に良かった……。もうダメかと思ったよ……」
藤牧は、心底安堵したようにそう呟いた。その弱々しい姿は、俺たちの知る、あの人を食ったような態度の藤牧とはまるで別人だった。
藤牧が俺たちのグループに加わってから、数日が過ぎた。
彼は、怪我が癒えるまではと、拠点の雑用などを手伝いつつも、比較的おとなしく過ごしていた。驚いたのは、時折見せる彼の身体能力の高さだった。例えば、俺たちが三人でようやく運べるような丸太を、藤牧は一人で軽々と担ぎ上げたり、森の中で素早い動きで小動物を捕らえてきたりする。
「お前、なんか力強くねえか?魔法でも使えるようになったのか?」
北山が尋ねると、藤牧は「いや、俺にもよく分かんないんだよ。なんか、襲われてから、火事場の馬鹿力ってやつかな?体が軽くなったっていうか……」と首を傾げた。
俺も芦田も、そしておそらく藤牧自身も、それがこの世界に来て発現した何らかの魔法の力の一種なのだろうと、漠然と考えていた。戦闘において、その力が役立つ可能性は否定できない。
そして、もう一つ、小さな変化があった。
あれほど芦田に執拗に絡んでいたはずの藤牧が、拠点に来てからは、彼女に対して露骨なちょっかいを出すことが一切なくなったのだ。それどころか、以前のしつこさが嘘のように、ごく普通のクラスメイトとして接している。
芦田自身は、その変化に明らかにホッとしているようだったし、北山も特に気にしていない様子だった。俺も、最初は少しだけ「あいつがねぇ……」と疑問に思った程度で、すぐに過酷な状況がそうさせたのだろうと納得した。今は仲間同士、助け合わなければならない。そう考えるのが自然だった。
そんなある日の夕暮れ時。俺は拠点の見張りをしながら、一人で魔法の感覚を研ぎ澄ませていた。
目を閉じ、意識を集中させる。体内の、あのざわめきのようなエネルギーの流れを感じる。それを少しずつ体の外へ、まるで霧のように広げていくイメージ。
すると、どうだ。
最初は何も感じなかったが、徐々に、本当に徐々にだが、周囲の「気配」のようなものが、ぼんやりとだが頭の中に流れ込んでくるような感覚があった。森の木々が発する微かなざわめき、地面を這う小さな虫の動き、風が運んでくる遠くの匂い……。それは、五感で直接捉えている情報とは明らかに違う、もっと曖昧で、しかし確かな「何か」だった。
(……これが、魔法の探知……なのか? それとも、ただの思い込みか……?)
無意識のうちに、俺は新たな魔法の扉を開こうとしているのかもしれない。
さらに意識を集中させ、その「気配」の霧を遠くへ遠くへと広げていく。湖の対岸、その先の森の奥……。
その時、不意に、今まで感じたことのない、明確な「何か」が、その霧の向こうで反応した。それは複数。そして、獣とは違う動きをしているように感じられた。
(……人間……か? まさか、他のクラスメイトの生き残りか? それとも、この世界の住人か……?)
希望とも不安ともつかない感情が胸をよぎる。もし人間なら、助けになるかもしれないし、新たな脅威になるかもしれない。ただ、その気配は、どことなく冷たい印象も受けるが……今は、どんな情報でも欲しい。
俺は、その気配の正体を確かめるため、明日、単独で長距離の探索に出ることを決意した。
拠点に戻った俺は、北山と芦田、そして藤牧にそのことを告げた。
「……というわけで、明日、少し遠出をしてくる。人間の気配を感じたんだ。何か新しい情報が得られるかもしれない」
「おいおい、ジュン、一人で行く気か?危ないって!」北山がいつものように心配する。
「大丈夫だ。何かあっても、魔法で逃げることはできる。それより、俺がいない間、ここの守りを頼む。藤牧もいるから、三人でなら問題ないだろ」
俺の言葉に、芦田が不安げな表情を浮かべた。
「……でも……」
「芦田、心配するな。必ず戻ってくる。それに、これは俺たち全員のために必要なことなんだ」
俺はそう言って二人を説得した。藤牧は、黙って俺たちの会話を聞いていたが、俺が出発すると言うと、「……そうか。川崎なら大丈夫だよな。気をつけて行ってこいよ」と、ごく自然な調子で言った。
翌早朝、俺は三人に見送られ、一人で拠点を出発した。
森の奥深く、あの気配がした場所を目指して。
背後の拠点では、いつもと変わらない朝の空気が流れているはずだ。
俺は、ただ前だけを見て、歩みを進めた。