非日常
日常から急変し非日常が襲う。それぞれの選択が自分の運命に直結する。
20XX年X月X日。
俺、川崎 淳の日常は、今日も昨日と大差ない。
寝癖のついた頭でリビングへ行けば、母親が用意した朝ご飯が食卓に並び、先に起きた母親と妹が既に食べ始めている。父親は少し前に仕事へ向かったらしい。妹の莉緒は最近反抗期なのか、俺と目を合わせようともしない。まあ、どうでもいいが。
自分でも自覚しているほど寝起きの機嫌は最悪だが、遅刻するわけにもいかず、黙々とトーストを胃に詰め込み、さっさと準備を済ませる。
「いってきます」
誰に言うでもなく呟き、家を出る。じっとりとした夏の暑さが肌にまとわりつき、うんざりしながら自転車を漕ぎ出した。
学校にはいつもと変わらない顔ぶれの友達がいて、いつもと変わらない先生がいて、当たり前のように授業のベルが鳴る。
そんなありふれた日常。
一限目の日本史、戦国時代に突入した内容はそれなりに面白かったが、どこか現実感がない。授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、俺は立ち上がり、近くの席の北山に声をかけた。他のクラスメイトも思い思いに席を立ち、教室が少し騒がしくなる。
「北山、さっきの授業、いつもよりマシだったな。内容的に」
俺が近づいたのに気づいた北山が、人の悪い笑みを浮かべて振り向いた。
「だよな。これからどんどん面白くなるぜ。…それよりさ、今日バイトある?」
こいつは本当に脈絡がない。だが、北山はいつものようにすぐに話題に乗ってくる。
「いや、ない。…どうした?放課後、どっか行くか?」
「おれはあるんだよ。…ああ、バイト始めてまだ半年だってのに、もう辞めたくなってきたわ」
バイトの話題になると、自然と互いの愚痴合戦が始まる。これもいつものことだ。
「なに?放課後ジュンたち遊ぶの?」
芦田 香奈がいきなり話しかけてきた。芦田は北山と同じく小学校からの付き合いであるが、いつもはある女子グループで楽しんでいる。そのせいか昔と比べれば疎遠になったが、会えば気を許して話せるだけの仲である。
俺が北山を一瞬みてすぐに芦田にこたえようとしたが、遮られてしまう。声でわかるとおり、藤牧だ。
「え!カナちゃん遊ぶの?…どこ行くの?」
こいつは北山や芦田のような幼馴染ではなく、高校で知り合った友達ともいえないような仲だ。藤牧は特定のグループにとどまらず、色んなところにちょっかいをかけているコウモリみたいなやつでもある。
藤牧はなにかと芦田に関わりをもとうとするので今回もそれだろう。芦田も藤牧に突っかかれて困っていることを愚痴っており、雰囲気でも醸し出しているためいい加減諦めればいいのに一目惚れかなにか知らないが面倒くさいやつである。
北山も面倒くさいと思ったのか、応える気がないようなので俺が答えなければならないようだ。北山の図太さに感心しながらも、藤牧を突き放す意図を含むぶっきらぼうな言い方で芦田にこたえた。
「遊ばないって。バイトの愚痴話してただけ。…授業始まるし、座っとけ。」
芦田に関係ないとわかった藤牧は一気に興味をなくしたような顔をしてすぐに戻っていった。芦田は少し物足りないような顔をするが、チャイムがなったために席に座った。
(はぁーー……めんどいな)
休み時間は北山と芦田と話し、気の合う高校時代からの友達ともたまに話すというルーティンがあった。だが、藤牧という存在のせいでペースが乱され、いつも肩に重荷があるようなストレスを感じる。なぜ高校生になっても人間関係に気を煩わせなければならないのか。
気を揉みながら二限目の教師が教室に来るのを待っていると、クラス全体が不意にざわつき始めた。いつものように教師が遅れているのかと思ったが、どうやら様子が違う。
「あれなに?」「だよね!見えるよね!?」「え、どれどれ?」「黒い……ボール?」「なになになに?なに?」「やばくね」「いや、なんか変だよ……」
クラスメイトたちの囁き声。顔を上げてみると、教卓の上に、先程まで確かに何もなかったはずの場所に、バスケットボールくらいの大きさの漆黒の球体が、まるで空間に固定されたかのように静止していた。それは光を一切反射せず、ただそこにあるというだけで異様な圧迫感を放っている。球体の周囲の空間が、陽炎のように微かに歪んで見えた。
(……なんだ、あれは)
クラス全体も、最初の好奇の視線から、徐々にその黒い球体が放つ得体の知れない恐怖に満たされはじめた。
「ねぇ、川崎君。なにあれ……?」
隣の席の野田さんが、さすがにいつものマイペースさは消え、不安げな声で話しかけてきた。
「うーん。イタズラじゃないと思うけどね……」
野田さんと話すとペースが乱されるが、俺の中にも先ほどまでは好奇心が勝っていたが、今は明確な恐怖を感じ始めていた。
皆が思い思いに囁き合い、その黒い球体に注目する中、一人の男子生徒――クラスでもお調子者で通っているやつだ――が、その球体に近づき始めた。クラスメイトたちが口々に「危ないよ!」「やめとけって!」と引き留めるが、その生徒はニヤニヤしながら何かを呟き、近くにあった椅子に乗り、黒い球体にゆっくりと手を伸ばした。
指先が球体に触れた、まさにその瞬間。
「えっ!?」
声にならない悲鳴と共に、男子生徒の姿が忽然と消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
「え!?なに!」「どこいった!?」「消えた!?」「やばいよ!おかしいよ!」
教室は一瞬にして大パニックに陥った。生徒たちは悲鳴を上げながら席を立ち、我先にと教室から出ようとドアへ殺到する。俺も本能的に叫びながら立ち上がり、その流れに乗ってともに出ようとした。
だが、教室の前のドアを開けた女子生徒が突如叫んだ。
「え!まって!?……なんかない!あぶない!」
意味不明な言葉を聞いた周りのクラスメイトがドアの外をみに行き、俺もみると外には何もない。ただの真っ白で、全てが光に包まれているかのような空間が広がっているだけだった。教室の後ろのドアも同じ状況のようだ。
「どうすんだよ!これどうすんだよ!」「わかんないって!」「先生呼んできてよ!」「どうやって呼ぶんだよ!?アホか」
全員が黒い球体から距離を取り、教室の隅に固まり始めた。そして、思い思いに恐怖や混乱の感情を吐き出し始めた。
俺は友人を探そうと周囲を見渡し、すぐに北山と芦田を見つけ合流できた。二人も俺を探していたようだ。
「おい、なんだよ。この状況」北山が青い顔で言う。
「知るわけないだろ。ただやばいってことはわかる」
「やばいやばいやばいやばい……」芦田は小刻みに震えている。
「カナ、うるさい。慌ててもどうにでもならないだろ」
「いや、あんたも慌てんだろ。私だけじゃないし」
「二人とも喧嘩すんな。落ち着こう」
三人寄れば文殊の知恵とは言うが、今の俺たちにはただ思ったことを口にするだけで、何の解決策も浮かばなかった。
何も起こらないまま一時間ほど経ち、一部を除いてクラス全体で秩序を取り戻しつつあった。クラスメイト達が自主的に意見を出し合い、どうするべきかを話している。俺たち三人もある程度落ち着きを取り戻し、クラスの集まりに参加した。
学級委員の男子、田中が持ち前の調整力で話をまとめ、中心的な役割を果たしている。女子の学級委員はまだ混乱しているのか、隅で座り込んで頭を抱えたままだ。
話し合いの中では、この教室から脱出することが目的とされた。方法として、あの男子生徒が消えたように黒い球体に触れる、ドアの外の何もない空間に出る、教室にこのまま留まる、という三つの案が出ている。ただ、ドアから出るのはどうなるか全く分からず危険だとして、反対する人が多かった。
結局、黒い球体に触れるか、教室に留まるかという二つの案の割合は半々であり、意見が対立したまま議論は進むことなく、田中は「後は個人の意見次第だ」として話し合いを終えた。
「……で、どうするよ?」
再びいつもの三人グループに戻り、俺は切り出した。
「「……」」
「なんか言えよ」
「このまま何もしないってのがいけないのは分かるよ。だって、2時間以上経ってるけど何も変化ないし……ジュンはどうよ?」芦田が不安げに俺を見る。
「やっぱり、あの黒いボールしかないんじゃないか。こういう場合、何か行動しないと始まらないと思うし」
「ジュンは変なとこで大胆だよな。おれはまだ決めらんないわ。怖いし、みんなが行ったら行くわ」北山は相変わらずだ。
「お前日本人かよ」
「日本人だわ」
「じゃあ、あの黒いボールに触るでいいんだね。……いつ行動するかは保留で。いいね?」
「「OKです」」
変化があったのは、それからすぐだった。
田中が、幼馴染だという女子生徒と手をつないだまま黒い球体に近づき始め、クラス全体に呼びかけた。
「みんな!……ぼくは、この黒い球体に触って脱出することにしたよ。じゃ、また会えたらそのときはよろしくね」
驚き騒ぎ始めたクラスメイトたちを気にすることなく、二人は躊躇なく黒い球体にそっと触れた。そして、最初に消えた男子生徒と同じように、まるで闇に吸い込まれるようにして、二人の姿は消え失せた。
「やっぱカッコいいな、田中……。行くか?」北山が俺たちの顔を見る。
「行こう」「よし」
覚悟を決めた俺たちは、荷物をまとめ、黒い球体に近づき始めた。俺たちだけでなく、他にも十数人のクラスメイトたちが、同じように球体に触れる決心をしたようだ。
「どうするの?もう触れる?」芦田が俺の腕を掴む。
「いや、二番か三番目に行こう」
「えー、優柔不断」
数人のクラスメイトたちが黒い球体に順番に触れ、次々と消えていく。そして、とうとう俺たちの番が来た。三人で手をつなぎ、黒い球体の前に立つ。
「せーのでいこう……せーの」
同時に黒い球体に触れた。
何かを掴んだという感触は、ない。ただ、視界が真っ暗になり、まるで底なしの闇に引きずり込まれるような感覚。そして、次の瞬間には強烈な白い光が全てを覆い尽くし、全身を襲う激しい痛みと共に、俺の意識は急速に遠のいていった。
残ったクラスメイト達は10人くらい。全体の4分の1。