6 戦士ドライオ
土塊の裏に回り込むと、ダムルの言った通りそこに開け放たれた鉄の扉があった。
だがその内部は暗くて見えない。
「急に静かになっちまったじゃねえか」
ドライオは不敵な笑みを浮かべて呼びかけた。
「さっきまでの威勢はどうしたんだ、ああ?」
その声が聞こえたかのように、不意に土塊の内部で火が灯った。
「お」
「見るな、ドライオ」
地に伏したままのダムルが叫んだ。
「見たら、魂を掴まれるぞ」
だがドライオは目を逸らさなかった。
「うっ」
そこに、巨大な口があった。
女の口だ、ということはすぐに分かった。炎に照らされた赤い唇が、ぬらぬらと光っていた。
口は土塊の内部ほとんど全てを覆うほどに大きかった。
「なんだ、こりゃあ」
そのとき、口が動いた。
「ドライオ」
舌足らずな女の声で、ドライオは名を呼ばれた。
「ドライオ」
だが、次の声はもう別人だった。
低い、男の声。
その声の主を、ドライオはつい先日葬ったばかりだった。
「……ギッパ」
それは戦友ギッパの声に間違いなかった。
「ドライオ」
また、別人の声になっていた。
それは、老戦士グリムの低くしゃがれた声だった。
「ドライオ」
「ドライオ」
「ドライオ」
巨大な口が発する声には、どれも聞き覚えがあった。
冬の炎に魅せられた戦士フレンの。ともに岩竜のねぐらにもぐった金髪のアデリナの。この手でその命を絶った戦士デルガの。
馴染みの娼婦だったころのメリッサの。遺跡の奥で息を引き取った精霊使いネヴィアの。
まだ生きている人間も、もう死んでしまった人間もいた。彼らの声で名前を呼ばれるたび、ドライオは、自分の人生がそれらの声によってなぞられ、浮き彫りにされていくのを感じた。
「ドライオ」
口がまたドライオの名を呼ぶ。
それは、かつての戦争でともに戦った戦士の声だった。
「ドライオ」
それは、かつて共に生きると誓った女の。
「ドライオ」
それは、顔も知らぬ母の。
「やめろ!」
ドライオは吼えた。
何か呪縛のようなものがドライオの体を覆おうとしていたが、戦士はそれを強靭な生命力ではねのけた。
そのままの勢いで土塊の内部に飛び込むと、戦斧を大きく振り上げる。
だが、口は両端を吊り上げてにいっと笑った。
「つかまえた」
口がそう言うと、恐れを知らぬはずのドライオの背に、ぞぞぞっと無数の虫が這いまわるような感覚があった。
そのまま、膝から崩れ落ちて背中を丸めて泣き叫びたい衝動。
これか。
ドライオは悟る。
山に巣食う小鬼どもを恐れさせ、大挙して南へと奔らせたのは、この力か。
それは今までに感じたことのない恐怖だった。
ドライオは振り上げたままの戦斧を下ろすこともできず、そのままの姿勢でぶるぶると身体を震わせた。
いつの間にか、ドライオは子供の頃の小さな身体に戻っていた。
重さを支えきれなくなった戦斧が、地面に落ちてめり込んだ。
「ほうら、まとっていた虚勢を剥いでみれば」
口が最初の女の声で言った。
あどけない顔をしたドライオの頬を、生ぬるい風が撫でていった。
「こんなにも可愛く無力なお前がいたではないか」
その声に、エベックの低い含み笑いが重なった。
「兵士としては優秀」
エベックの声が言った。
「神と一つになるまでのひと時、お前もここで神殿を守る任務に就くがいい」
「神殿を守る?」
少年のドライオが、澄んだ目で口を見上げた。
「俺が?」
「そうだ、お前が」
エベックの声が答える。
「さらなる力を与える秘法をお前にも施してやろう。お前ならば、さっきの男たちよりもはるかに優れた兵士となれるだろう」
その言葉に答えず、ドライオは地面に目を落とした。
地面に刺さった斧を掴んで持ち上げようとする。だが、少年の身体にはその斧は大きすぎた。力を込めても、びくともしない。
「その身体では無理だ。少し待て。秘法を受ければそんな物、すぐに持てるようになる」
だが少年ドライオはエベックの声など聞こえていないかのように、斧の柄を握りしめて力を込めている。
「無理だと言うのに」
エベックが笑った。
「無邪気なものよ。子供の頃からそんなものを振り回そうとしていたようだな」
「ぐううっ」
ドライオが歯を食いしばって唸った。顔を真っ赤にして、斧を持ち上げようとする。
「だから、無理だと」
エベックの声が途切れた。
ドライオの肩が、奇妙に膨らんでいた。まるで、そこにだけ大人の筋肉がついたかのような。
「ぬぐうっ」
ドライオが力を込めるたび、筋肉が膨れ上がる。肩だけではない。腕が。脚が。背中が。
ぼこり、ぼこり、とまるで別の生き物のように身体が膨れ上がっていく。
「何だ、これは」
エベックの声に初めて戸惑ったような響きが混じった。
「やめろ。お前、いったい何をしている」
「これを抜くんだ」
ドライオは幼い声で答えた。
「俺の力で」
「だから、それは無理だと言っているではないか」
だが、ドライオの身体がさらに膨れ上がっていく。筋肉の膨張とともに、背丈も伸びていく。
「神の力が、剥がれ始めている」
エベックが呻いた。
「なぜだ」
「ぬうんっ」
土を撒き散らして、ついに斧が地面から抜けた。
それを肩に担ぐときには、もうドライオはここに来たときと変わらぬ強靭な戦士の姿に戻っていた。
「ばかな。あり得ない」
エベックの声が震えた。
「神の力をはねのけるなど、人間業ではない」
「この斧を振るうために鍛えた身体そのものが、俺という存在だ」
ドライオは言った。
「お前には、分からねえよ」
巨大な口が動いた。
「ドライオ」
「ドライオ」
「ドライオ」
「ドライオ」
老若男女、あらゆる声が戦士の名を呼んだが、ドライオはもう眉一つ動かさなかった。
「そうだ、よく覚えておけ。俺の名はドライオ」
ドライオは言った。
「戦士ドライオだ」
両手で斧を大きく振りかぶる。
「よせ!!」
エベックの絶叫。ドライオは口を歪めて笑った。
「よすかよ」
ど真ん中から、縦に。
口を真っ二つに切り裂くと、噴水のように真っ赤な血が噴き上がった。
「貴様ああ!!」
エベックの声だけが土塊の中に響いた。
「エベック、出てこい。それともお前はもう姿を失っちまったのか」
ドライオは笑った。
「憐れな野郎だ」
「何ということをしてくれた」
エベックは絶叫していた。
「取り返しのつかないことを。この山に眠る古き神を、お前は傷つけたのだぞ」
「知らねえよ」
ドライオは答えた。
「取らなきゃならねえ責任があるなら、お前が取れ」
「ドライオ、許さんぞ、ドライオ!」
だがエベックの声は途切れた。突然、地の底から響くような大きな揺れが起きたからだ。
土塊の内部にぱらぱらと砂がこぼれ落ちる。
「お許しを!」
エベックが叫ぶ。
「ちっ」
崩れる。
ドライオは身を翻すと、外に飛び出した。
揺れは止むどころかさらに激しさを増していく。
土塊の神殿を含むこの崖一帯が、全て崩れようとしていた。
「ダムル、脱出だ」
「させるか!!」
エベックの絶叫。
それと同時に、ドライオの背中に巨大な手が迫る。土塊の神殿自体が一つの手となって、ドライオを掴もうとしていた。
だが、五本の指はドライオの背をかすめて空を切った。
伸ばした腕に跨るようにして、血塗れの戦士が折れた蛮刀を突き立てていたからだ。
ダムルだった。
「エルザ! イオス!」
妻と子の名を叫びながら、蛮刀を何度も何度も突き立てた。まるでその迫力に圧されたかのように、土の手は力を失っていく。
「ダムル、もういい。こっちへ来い!」
崖が崩壊しつつあった。ドライオはダムルに手を伸ばしたが、ダムルは彼を一瞥すらしなかった。
「エルザ!! イオス!!」
ただ、妻と子の名を連呼し、蛮刀を土の腕に突き入れ続けた。
「よく見ておけ、ドライオ。この戦士ダムルの力が、今は亡き妻と子のためにこそ振るわれるところをな」
ドライオはダムルの言葉を思い出す。
そうか。戦士ダムル。これは、お前の最後の戦いか。
ドライオは彼の名を呼ぶことをやめた。
ついに崖は崩れた。土塊の神殿はダムルもろとも遥か谷底へと落下していった。
やがて山全体を揺らすような轟音が響き渡り、それから辺りは嘘のように静かになった。
*****
戦士の集まる酒場の隅の席で、老戦士グリムは、そのどこにいても目立つ巨漢を見付けた。
「戻ってたのか」
「ああ」
ドライオは頷く。
「昨日な」
「また傷が増えたんじゃねえのか」
「あんたほどじゃねえよ」
ドライオは酒を呷る。
「戦えば傷が増える。動きゃ腹が減るのと同じ理屈だ」
「ふん」
グリムはドライオの隣に腰を下ろすと、からかうように言った。
「北では大活躍だったそうじゃねえか。依頼も受けねえで戦って、死にかけたって聞いたぜ」
「相手が気に入らねえ野郎だったんでな。こっちも多少むきになった」
ドライオは答えた。
「だが、懐かしい気持ちも思い出せた。面白かったぜ」
その答えに、グリムは苦笑した。
「死にかけて面白かった、か。お前はどこまでいっても戦士だな。次はどこへ行く気だ」
それに答えず、ドライオは太い腕を上げて、通りかかった店員に指を三本立てる。
「まだそんなに飲むのか」
呆れた顔をするグリムに、ドライオは真面目くさった顔で言った。
「飲むだけ飲んだら、次の場所に行くさ。俺の斧が必要とされてるところにな」