希望が怖い
第1章:希望に満ちた出発
佐々木由美が18歳で故郷の駅のホームに立った日、春の陽光はレールを白く光らせていた。地方の小さな町で育った彼女にとって、東京は眩しいほどの響きを持つ言葉だった。両親からの経済的な援助は望めず、自ら勝ち取った奨学金と、これから始まるアルバイト生活だけが生命線だった。それでも、由美の心は風船のように軽く、未来への期待で膨らんでいた。
「ここから、私の人生が始まるんだ」
大学生活は刺激に満ちていた。特に英語サークルでの活動は、由美の世界を大きく広げた。外国人留学生と片言の英語で笑い合い、いつか海外で働く自分を夢見た。
しかし、大学3年の冬、時代は「就職氷河期」という冷たい名前で呼ばれていた。エントリーシートは吸い込まれるように消え、面接では「女性はねえ」という空気に何度も打ちのめされた。それでも由美は諦めなかった。卒業間際、中小の貿易商社からようやく内定を得た。希望した職種ではなかったが、それでも社会への切符だった。
桜の花びらが舞う卒業式の日、由美は新しいスーツの感触を確かめながら、固く拳を握りしめていた。
第2章:社会人としての奮闘
最初の数ヶ月は、電話の取り方一つにも学びがあった。由美は持ち前の真面目さで、必死に仕事に食らいついた。彼女の英語力は海外の取引先とのメール対応で重宝され、少しずつ自分の居場所を見つけ始めた。
「佐々木さん、君は根性があるな」
上司の言葉が、すり減っていく心を支えていた。同期の木村さんとは唯一の戦友だった。深夜のオフィスでカップスープを分け合い、「私たちなら、きっと大丈夫」と励まし合った。
毎月の奨学金の返済は、鉛のように重かった。贅沢を切り詰め、流行りの服や化粧品はショーウィンドウ越しに眺めるだけ。それでも、自分の足で立っているという実感が、由美を支えていた。
30歳を過ぎる頃には、小さなプロジェクトを任されるようになった。海外出張も経験し、世界は着実に広がっているように見えた。
だが、その頃から会社の歯車は静かに軋み始めていた。リーマンショックの波が、由美の小さな会社を容赦なく飲み込んでいく。
第3章:激動の時代
由美が35歳を迎えた年、会社の業績は底を打った。給与カット、福利厚生の縮小。活気のあったオフィスは、ため息と不安が充満する淀んだ空間に変わった。
そして、40歳を目前にした冬の日、人事部長室に呼ばれた。
「申し訳ないが、佐々木さん……君もリストラの対象だ」
その言葉は、何の温度も持たなかった。15年以上、青春のすべてを捧げた場所から、由美はあっけなく放り出された。最後の出社日、デスクを片付けていると、涙目の木村さんが駆け寄ってきた。
「ごめんね……私だけ残って……」
「謝らないで。木村さんは、私の分まで頑張って」
二人は言葉もなく抱き合った。会社を出ると、冬の空気がナイフのように肌を刺した。これからどうすればいいのか。家賃、生活費、そしてまだ半分以上残っている奨学金の返済。不安が黒い霧のように由美を包み込んだ。
第4章:再起への道
再就職活動は、砕いたガラスの上を歩くような日々だった。「40歳、一般職の経験のみ」という経歴は、どの企業にも響かなかった。
「申し訳ありませんが、もう少し若い方を……」
断られるたびに、自分の価値が否定される感覚。そんな時、図書館で同じように求人情報を探していた中年の男性、田中誠と出会った。
「58歳で再挑戦ですよ。あなたなんて、まだひよっこだ」
彼の屈託のない笑顔に、由美は少しだけ救われた。同じ境遇の者同士、二人は自然と惹かれ合い、情報交換をするうちに恋愛関係へと発展した。由美にとって、それは人生で初めての、心から安らげる時間だった。
「一緒に住まないか。二人で支え合えば、きっと乗り越えられる」
田中からの提案に、由美は最後の希望を託した。
第5章:見えない傷
同居生活は、最初は穏やかだった。しかし、田中の中に潜んでいた闇が姿を現すのに、時間はかからなかった。
始まりは些細な束縛だった。「誰と会っていたんだ」「その服は派手すぎる」。愛情だと信じ込もうとした由美の願いは、彼が初めて手を上げた夜に砕け散った。
床に崩れ落ちた由美の頬を、衝撃と熱が支配した。
「ごめん、由美……。俺、お前を失うのが怖いんだ。愛してるんだ」
暴力の後の、涙ながらの謝罪。由美は信じてしまった。いいや、信じたかったのだ。この希望を失えば、自分にはもう何もない。希望を持つこと自体が、恐怖に変わっていた。
暴力は日常になった。彼の機嫌を損ねないよう、由美は息を潜めて暮らした。友人との連絡も絶ち、世界から孤立していく。鏡に映る青あざの浮かんだ自分の顔は、もはや他人に見えた。
ある日、買い物の帰りが少し遅くなっただけで、田中は激昂した。玄関で引き倒され、意識が遠のいていく中、由美は思った。
(ああ、これで……やっと楽になれる……)
第6章:再生への道のり
次に目を開けた時、由美は病院のベッドにいた。看護師の「警察に通報しますか?」という問いに、彼女は震える声で「はい」と答えた。
田中は逮捕され、由美は女性シェルターに保護された。カウンセラーの中島さんは、ただ静かに由美の話を聞いてくれた。
「あなたは何も悪くありません」
その言葉に、堰を切ったように涙が溢れた。シェルターでは、同じ傷を持つ女性たちと食卓を囲んだ。特別な会話はない。ただ、そこに誰かがいるという事実が、凍りついた由美の心を少しずつ溶かしていった。
数ヶ月後、由美はシェルターを出て、公営住宅で一人暮らしを始めた。まだ夜は怖い。ドアの物音に心臓が跳ねる。それでも、自分の意志で鍵をかけられる部屋がある。それが、由美にとっての新たな一歩だった。
ハローワークで見つけたPCスキル講座に通い始めた。周りは自分よりずっと若い受講生ばかりだったが、もう劣等感はなかった。ただ、必死だった。
講座を終えた日、由美は小さなデザイン事務所の事務員の職を得た。給料は安いが、もう誰にも支配されない。仕事帰りにスーパーで好きな食材を選び、小さなキッチンで料理をする。そんな当たり前の日常が、今は何よりも尊かった。
時々、ふと未来を想像して怖くなることがある。もう恋をすることもないだろう。大きな成功もないかもしれない。でも、それでいい。
「希望は、時として絶望よりも残酷だ」
由美は手帳にそう書き留めた。大きな希望は、もう怖い。でも、明日の夕食の献立を考えるくらいの、ささやかな希望があれば生きていける。由美は湯気の立つマグカップを両手で包み込み、静かに微笑んだ。