希望の種 〜45歳、泥まみれのプログラミング〜
第1章:路上という現実
中村翔太(45歳)の住所は、一ヶ月前から「公園のベンチ」になっていた。就職氷河期に社会に出て以来、非正規の職を転々とし、コロナ禍で完全に仕事を失った。家賃が払えなくなり、路上生活へ。かつて抱いていた夢や希望は、空腹と寒さの前では何の役にも立たなかった。
「生きているだけで、まし」
それが、自分に言い聞かせる唯一の言葉だった。ある朝、翔太は『ビッグイシュー』の販売員に声をかけられ、自らも販売者として立つようになった。一冊の雑誌を売ることで得られるわずかな現金と、時折かけられる「頑張って」という言葉だけが、彼を社会と繋ぎ止めていた。
第2章:残酷な教室
支援団体の勧めで、翔太は「就職氷河期世代向けITスキル習得プログラム」に参加することになった。 「ITなら、場所を選ばずに働ける。翔太さんならできるよ」 スタッフの言葉に背中を押され、翔太は意気揚々と教室の扉を開けた。しかし、そこで待っていたのは、残酷なまでの「現実」だった。
教室には、30代前半の再就職希望者も多かった。講義が始まると、キーボードを叩く軽快な音が響き渡る。 一方、翔太の指は動かない。 タグ、要素、属性……。講師の口から出る言葉が、まるで宇宙語のように聞こえる。
「えっと、ここをコピーして……」 ショートカットキーすら覚えられない。マウスを持つ手は汗で滑り、画面上のカーソルを見失う。 そして何より、目が見えなかった。細かいコードの羅列を見つめていると、すぐに視界がぼやけ、激しい頭痛が襲ってくる。「老眼」だった。100円ショップで買った老眼鏡をかけ、モニターに顔を近づけて必死に食らいつくが、理解のスピードは若い受講生の半分以下だった。
「すみません、ここ、エラーが出るんですけど……」 何度目かの質問に、若いティーチングアシスタントが苦笑いを浮かべた気がした。 (ああ、俺は迷惑な「おっさん」なんだな) 羞恥心で、耳まで熱くなった。
第3章:錆びついた脳みそ
講義から1ヶ月。翔太は脱落寸前だった。 昨日覚えたはずの関数を、今日は忘れている。若い頃なら一度で覚えられたことが、何度繰り返しても頭に残らない。脳みそが錆びついて、油が切れた機械のように軋んでいる感覚だった。
ある日の演習課題。周りの受講生たちが次々と課題をクリアし、「お疲れ様でしたー」と帰っていく中、翔太だけが残っていた。 画面には、冷酷な赤い文字のエラーメッセージが表示され続けている。どこが間違っているのか、それさえも分からない。
「……くそっ」
翔太は机を拳で叩いた。悔しさと情けなさで、涙が滲んだ。 俺は何をやっているんだ。45歳にもなって、年下の講師に教えを請い、それでもできなくて。公園のベンチの方が、よっぽど気楽だったじゃないか。
「諦めますか?」 背後から声をかけられた。いつの間にか戻ってきていた講師だった。 「……俺には、無理みたいです。頭も固いし、目も悪いし……覚えられない」 翔太は震える声で吐き出した。
講師は静かに言った。 「中村さん。プログラミングは才能じゃありません。どれだけ恥をかいて、どれだけ泥臭くエラーと向き合ったか、それだけです。……帰る場所、あるんですか?」
その言葉に、翔太はハッとした。 帰る場所。それは、あの凍えるような公園のベンチだ。 あそこに戻るのか? また、明日の食事の心配をして、通行人の視線に怯える日々に?
「……嫌だ」 翔太は老眼鏡の位置を直し、再びキーボードに手を置いた。 「嫌です。絶対に、戻りたくない」
第4章:泥臭い執念
それからの翔太は、なりふり構わなかった。 理解力がないなら、回数で補うしかない。彼は講義の内容をすべてノートに手書きで写し取った。「写経」のようなその行為は、デジタルの世界には非効率極まりないやり方だったが、翔太の古い脳にはそれしか方法がなかった。
「すみません、もう一回教えてください」 「馬鹿な質問ですみません」 プライドは捨てた。年下の講師やアシスタントに頭を下げ、何度でも聞いた。 シェアハウスの共有スペースで、深夜までパソコンに向かった。目が痛み、肩が石のように固まっても、手を止めなかった。
エラーの原因が、たった一つの「カンマ」の打ち間違いだと気づくのに3時間かかった夜もあった。 「見つけた……!」 深夜の部屋で、翔太は一人、小さくガッツポーズをした。その瞬間、錆びついた脳の歯車が、ギギギと音を立てて回り始めた気がした。
第5章:小さな、しかし確かな一歩
半年間のプログラムを終え、翔太はなんとか修了証を手にした。成績は下から数えた方が早かったが、最後まで辞めなかったのは、翔太を含めて数人だけだった。
最初の仕事は、知人の紹介で受けた、近所の八百屋のホームページ制作だった。報酬はわずか3万円。 翔太は震える手でコードを書き、画像を配置した。おしゃれなデザインではない。最新の技術も使われていない。しかし、店主の「野菜へのこだわり」だけは、泥臭いほど丁寧に詰め込んだ。
公開されたサイトを見て、店主の老夫婦は手を叩いて喜んでくれた。 「すごいねえ、中村さん。うちの店が、世界中から見られるんだね」
その笑顔を見た瞬間、翔太の目から涙が溢れ出した。 キーボードを叩き続けた指先は荒れ、目は充血し、肩はパンパンだった。スマートな「ITクリエイター」とは程遠い、疲れた中年の姿。 だが、翔太は誇らしかった。
「……はい。最高のお店に見えるように、作りましたから」
第6章:希望の種
数年後。 翔太はフリーランスとして、細々とではあるが生計を立てていた。大きなシステム開発はできない。しかし、地域の中小企業や商店街の、「ITが苦手な人たち」に寄り添う仕事が、彼の強みになっていた。
支援団体のイベントで、翔太はマイクを握っていた。 目の前には、かつての自分と同じように、職を失い、不安に押しつぶされそうな中高年の姿がある。
「正直に言います。40歳を過ぎてからの新しい挑戦は、地獄でした」 会場がざわめく。 「目は見えないし、覚えられないし、若い人には敵わない。毎日、逃げ出したかった」
翔太は一呼吸置き、真っ直ぐに聴衆を見つめた。 「でも、私たちは『氷河期』を生き抜いてきたんです。理不尽に耐え、泥水をすすってでも生きてきた、そのしぶとさがある。……スマートじゃなくていい。泥臭く、這いつくばってでも、前に進むことはできます。私たちが持っているのは、才能じゃない。執念という名の、希望の種です」
拍手は、すぐには起こらなかった。しかし、会場のあちこちで、涙を拭う姿が見えた。 翔太は深く一礼した。その背中は、以前よりも少しだけ大きく、そして確かな自信に満ちていた。




