透明な男の犯罪
第1章:演じられる日常
小林雅人(48歳)の朝は、完璧なルーティンから始まる。
午前6時半に起床。丁寧に髭を剃り、少し襟の擦り切れたワイシャツに袖を通す。15年前に買ったスーツは、体型が変わらないおかげでまだ着られた。革靴を磨き、薄っぺらなビジネスバッグを持つ。
「行ってきます」
誰もいない6畳のアパートに向かって呟き、ドアを開ける。 アパートの廊下で隣の住人とすれ違うと、雅人は愛想よく会釈をした。
「小林さん、早いですね。行ってらっしゃい」 「ええ、今日は会議なもので」
嘘だった。雅人には、行くべき会社などない。 3ヶ月前、長年勤めた物流倉庫の契約を切られた。次の職は見つからず、貯金は底をついた。家賃は2ヶ月滞納している。
それでも、雅人は「サラリーマン」を演じ続けていた。近所の目、そして何より自分自身のプライドを守るために。彼は毎朝、電車に乗って都心へ向かい、図書館や公園で時間を潰し、夕方になると「帰宅」する生活を続けていた。
第2章:透明化する存在
図書館の開館と同時に席を確保し、持参した水筒の水道水を飲む。読みたくもない経済雑誌を広げ、周囲に「調べ物をしているビジネスマン」だと思わせるよう振る舞う。それが彼の日課だった。
昼時、周囲のサラリーマンたちがランチに出かけていく。雅人は空腹を紛らわすためにトイレに立ち、水道水を腹に流し込む。昨日の食事は、公園のパンくずを鳩と争うように拾ったものだけだ。
「俺は、まだ大丈夫だ」
心の中で繰り返す。就職氷河期を生き抜いてきた自負があった。どんな理不尽な扱いにも耐えてきた。だから、今回もなんとかなるはずだ。生活保護? まさか。それは「負け」を認めることだ。五体満足な自分が税金の世話になるなんて、プライドが許さない。
しかし、社会は雅人を透明人間のように扱った。ハローワークに行っても、48歳、特別なスキルなし、職歴は派遣のみの男に紹介される仕事は皆無だった。
「選ばなければありますよ、介護とか建設とか……」 窓口の担当者は事務的に言ったが、腰を痛めている雅人には無理な相談だった。
社会から必要とされていない。誰の視界にも入っていない。 雅人は、自分が徐々に透き通って消えていくような感覚に襲われていた。
第3章:境界線
Xデーは突然訪れた。 アパートの大家から「今月末までに出て行ってほしい」と通告されたのだ。財布の中身は、150円。明日生きていく金もない。
その日の夜、雅人は公園のベンチに座り、目の前のコンビニエンスストアを見つめていた。 煌々と輝く光。ガラス越しに見える、おにぎりや弁当の山。 今の雅人にとって、そこは手の届かない宝石箱だった。
(死ぬか……)
ふと、そんな考えがよぎる。しかし、死ぬのは怖い。生きたい。腹が減った。温かいものが食べたい。屋根のある場所で眠りたい。
彼の脳裏に、かつてニュースで見た特集が浮かんだ。 『高齢者や貧困者が、衣食住を求めて刑務所に入りたがる』
雅人は嘲笑したはずだった。そんな馬鹿な、と。 だが今、凍えるような寒さと飢えの中で、その選択肢だけが、唯一残された「希望」のように輝き始めた。
「……堕ちるところまで、堕ちたな」
雅人は立ち上がった。足が震える。これは犯罪だ。逮捕されれば、もう二度とまともな社会復帰はできないかもしれない。 だが、今の「透明な生活」と、塀の中の「人間らしい生活」。どちらが地獄か、雅人にはもう判断がつかなかった。
第4章:安息の地
自動ドアが開く音が、やけに大きく響いた。 店員は、レジ奥でスマホをいじっている。雅人は震える手で、棚から100円のおにぎりを一つ手に取った。 鮭のおにぎり。かつて、残業中の夜食で毎日のように食べていたものだ。
レジには向かわなかった。 その場でパッケージを破り、おにぎりを口に運んだ。
「あ……」
米の甘みが口いっぱいに広がる。具の塩気が舌を刺す。涙が出るほど美味かった。 二口、三口。夢中で咀嚼する。
「ちょっと! お客さん!」
店員が飛んできた。雅人は逃げなかった。ただ、最後の一口を飲み込み、ゆっくりと店員の方を向いた。
「警察を、呼んでください。金は、ありません」
その声は、不思議なくらい落ち着いていた。
第5章:皮肉な救済
パトカーの後部座席から見た街の景色は、いつもと変わらなかった。だが、雅人の心は奇妙なほど凪いでいた。
留置場での取り調べ。警察官が差し出したカツ丼はドラマの中の話だったが、支給された冷たい弁当は、雅人にとって数ヶ月ぶりの「まともな食事」だった。
「どうして、こんなことを」 若い刑事に問われ、雅人は力なく笑った。
「疲れました。生きることに、疲れ果ててしまったんです」
就職活動、派遣切り、将来への不安、孤独、空腹。 それら全ての重圧から、手錠をかけられた瞬間に解放された気がした。 皮肉なことに、犯罪者となった今、彼は初めて「行政の手」によって守られることになったのだ。
狭い独房の天井を見上げながら、雅人は思う。 ここには屋根がある。食事も出る。誰かが自分の存在を監視(認識)してくれる。
「ここは……暖かいな」
その夜、雅人は久しぶりに泥のように眠った。 自由と引き換えに手に入れた安息。それは、就職氷河期世代の彼が、社会の底で見つけたあまりにも悲しいセーフティネットだった。




