第30話 桜色の攻防
魔術術式の教本をめくりつつ、ユスティーナは小さくため息をこぼした。
書かれているのは、初歩的な水魔術の術式だ。
実際にこの術式を展開できたら、どれほど気持ちがいいことだろうか。
(それをするだけの魔力を、わたくしはちゃんと持っているのに)
しかしユスティーナはそんな簡単な魔術すら扱えないでいる。
亡き母が施した魔力封印の禁呪によって。
向かいに座る家庭教師の顔を盗み見た。
国最強の魔術師であるシルヴェステルは、先ほどから異国の本を読みふけっている。
「ユス? さぼっていないで真面目に課題をこなしてください」
ふいに視線を向けられて、ユスティーナはシルヴェステルと見つめ合った。
ユスティーナの封印された魔力を知る者は、このシルヴェステルだけだ。
そしてその封印の扉の鍵を開けられるのも――。
「ねぇ、シルヴェステル」
「駄目です」
テーブル越しに身を乗り出したユスティーナに、すかさず冷たい声が返される。
手をついて胸を教本に乗せたまま、ユスティーナは桜色の唇を尖らせた。
「まだ何も言ってないじゃない」
「どうせ封印の扉を開けろとでも言うのでしょう? 絶対に駄目です」
「どうして? ちょっとくらい魔力を使わせてくれたっていいじゃない。今なら誰も見ていないのだし」
「そういう問題ではありません。先日三日間も寝込んだことをお忘れですか?」
シルヴェステルが言っているのは、魔によって破られそうになった防壁をユスティーナの魔術で見事修復してみせた日のことだ。
その功績はシルヴェステルのものとなってしまったが、ユスティーナは確かに自らの力で魔術を行使することができた。
そのときの高揚感をユスティーナは忘れられないでいる。
「あの時みたいに大きな魔術は使わないもの。ね、ちょこっと。ちょこっとだけでいいから」
「駄目です。さっさと課題の続きを」
そっけなく返されて、ユスティーナの唇がますますとんがった。
「王女の命令よ」
「魔術に関してはユスティーナ様はわたしの弟子です。師匠の言葉には絶対服従するのが魔導院の掟。王女とは言え、黙って従っていただきます」
「なによ、シルヴェステルの強情っぱり! この石頭っ!」
ずいと身を乗り出して、更に顔を近づける。
机の上から至近距離でシルヴェステルを睨みつけた。
「なんですか、そのはしたない真似は」
「そうさせているのはシルヴェステルじゃない」
「また随分と子供じみたことを。ユス、今すぐそのアヒルのような口を引っ込めなさい」
「あ、アヒルってなによっ。子供扱いしないでったら!」
適当にあしらわれ、ユスティーナの頬がかっと上気する。
そんなユスティーナを見て、シルヴェステルからすっと表情が消え去った。
「でしたら言い方を変えましょう。これ以上その姿勢でいるのなら、今すぐユスに口づけますよ」
「なっ」
熱を帯びた真剣な瞳を向けられて、ユスティーナの声が上ずった。
ぼんっと顔を真っ赤にして、ユスティーナは元いた椅子へと瞬時に舞い戻った。
収まらない動悸に、無意識のまま胸に手を当てる。
「聞き分けのいい生徒で助かります。さぁ、課題の続きをどうぞ」
それだけ言うと、普段通りの態度でシルヴェステルは読書を再開した。
その余裕の表情を前に、混乱したユスティーナの頭がいくらか冷えてくる。
(し、し、し、シルヴェステルの馬鹿ぁ……!)
ようやくからかわれたことが分かり、涙目で唇をかみしめるしかできないユスティーナだった。




