第五話 激怒
後ろから、急いで駆け寄ってくる音が聞こえる。
「どうした!?」
兄ちゃんが僕の左隣でそう言う。
無意識に座り込んでいたのか、僕の低い視線に合わせるように兄ちゃんも片膝をつき、こちらの顔を心配そうに覗き込んでくる。恐らく、僕に何かあったと思ったのだろう。だが違う、僕じゃない。
僕は、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっているであろう顔を兄ちゃんに向ける。差し込む月光のわずわかな光に照らされて、兄ちゃんの表情が見える。兄ちゃんの目が僕の顔を見ていることを確認し、それを誘導するように、ゆっくりと前を向く。そして、正確な位置を示すべく、右手で鳥かごを指差す。
隣で息を呑む音が聞こえる。
「……なん、……だ、これ。」
動揺からなのか、言葉が途切れ途切れにしか発声できていない。兄ちゃんは鳥かごを数秒見た後、ゆっくりと立ち上がる。兄ちゃんの顔を照らしていた月光は、立ち上がったため、取り残される。そのせいで、兄ちゃんの表情は窺い知れない。三人に体を向け、ゆっくりと歩き出す。何をする気なのかと、目で追ってしまう。
「……か?」
兄ちゃんの口が、かすかに動いたと同時に声が聞こえる。しかし、その声は小さく、全ては聞き取れない。それは兄ちゃんもわかっているのか、もう一度声を出す。
「……が……のか?」
やはり、聞こえない。それでも肩が小刻みに揺れているところを見るに、どうやら怒っているようだ。それはそうだ。兄ちゃんだってこの子を大切に育ててきた。少しぶっきらぼうではあるが、この子を見るときは、僕を見る時と同じ目をしていたのを覚えている。
三人には兄ちゃんの声は届いていないのか、微かな笑い声と共に肩を軽く叩いてみたり、抑えきれなくなった笑い声が口から溢れたりしている。そんな三人の態度も怒る要因になっていることだろう。
もう一度声を出そうとする兄ちゃん。今度は聞こえる。そう確信を持てるほど深く息を吸い、
「お前らがやったのか!?」
やはり、というべきだろう。三度目の声は三人にも聞こえるほどの声量となって、体内から体外へと放出される。そこには怒り、悲しみ、敵意と、さまざまなものが混在しているように聞こえる。これには三人も面食らったのか、先ほどまでの嘲笑のような笑い声は鳴りを潜め、動揺に近い空気があたりに漂う。
「は、はっ! だったら何だよ!」
いつもなら、こちらを馬鹿にする意思が込められているはずの声。しかしその声は震え、少し上擦っている。誰が聞いても、その声には動揺や、怯えなどの感情しか存在していない。
兄ちゃんの足は止まらない。ズンズンと音が鳴りそうなほどに力強く、距離を縮めていく。それと同時にザリッと、誰かが後ずさる音が立て続けに鳴る。もちろんそれは、考えるまでもなく三人のものだ。それでも兄ちゃんの歩く速さには敵わず、距離は縮まっていく一方だ。矢面に立っているリチャードは後ろの二人のせいで後ろに下がることが難しそうだ。
手の届きそうな距離になったと同時に、兄ちゃんは拳を勢いよく振り上げ、慣性の力と体重を使い、何の躊躇いもなく一番前の男の子の顔面に叩きつける。あまりにも綺麗な動作だったため、その場にいた皆が見入ってしまっていた。
ただ一人を除いて。
「いっ!?でぇえぇぇえっ!!!」
勢いよく倒れ、両手で鼻を押さえ、喚き散らかす男の子。小屋の外で倒れ込んでいるため、月明かりでその醜態がよく見える。目には涙が滲み、両手の間からは血が出ている。
自分たちを守る盾がなくなり不安になったのか、リチャードのところに急いで駆け寄り、大丈夫? や、血が出てるぞ! などと、心配するような言葉ををかけ、騒ぎだす。
三人がかなり大きな声で叫んだため、孤児院の方から一人、灯りを持ちながらこちらへと歩いてくる。すらっとした長身で、白い服を見に纏い、少し薄い青色をした髪をオールバックにし、顔には灯の光が反射している、細長いメガネをつけた男。園長先生だ。
この状況を見られるのはまずい。涙が止まった目で辺りを確認し、冷静になった頭で客観的に見る。小屋の中にいる僕。小屋を背に立っている兄ちゃん。そして、兄ちゃんの前で喚いている三人。四人とも園長先生が近づいていることに気づいていない。早く兄ちゃんに伝えないと、そう思い、駆け出す。小屋の外に出て兄ちゃんに声をかける。
「兄ちゃん! 園ーー!」
園長先生が来る!と続けるつもりだったが、それを遮られる。
「そこで何をしているのですか?」
その声を聞いた瞬間、焦りは頂点に達する。冷静さを取り戻したと思ったが、再び脳が機能しなくなる。冷や汗が出る。冷たい風に吹かれ、身体が震えだす。
この場にいる全員が園長先生へと注目を集める。ただし、そこに乗せられている感情は三人と僕達では違うことだろう。
倒れ込んでいるリチャードを見る園長先生。その有様に少しだけ眉が動いた気がした。
「何があったのですか?」
体勢を低くし、手に持っていたランプを置き、三人に事情を問う園長先生。僕たちのことは見えていないかのような態度だ。その姿を見て、再認識してしまう。この人は、僕たちの敵なのだと。
怪我をしていない二人が勢いよく事情を説明する。
「あいつらが、急に殴ってきて!」
「僕たち何もしてないのに!」
息をするように嘘をつく二人。このままだとまずい。反論しないと僕たちが悪いと思われる。
「違う!三人が、僕たちが育てていた小鳥を、殺し、たんだ!」
殺した、という言葉が喉に詰まる。それでも正確に状況を説明するためにはこの言葉を使わざるを得ない。いつもは園長先生に対しては敬語を使っていたが、二人の言葉を急いで訂正しなければ、という思いのせいで、使い忘れてしまった。声も大きく、間違いなく園長先生の耳に届いている。
「ケイン君、ルータス君、リチャード君を連れて医務室へ。」
園長は二人に指示を出す。その指示に従い、リチャードを運んでいく二人。後に残されるのは、園長先生と僕たち。少しの間、三人に目をやっていた園長先生だったが、こちらを向きメガネの位置を正す。
「それで? 何をしたのかは、理解できているのか?」
低く、冷たい声でそう問われる。その質問に答えることができない。
こちらが何も言わないことがわかると、小さなため息を吐く。
「ここは、肉親を失った子供たちが集まり、新しい家族となる場所だ。そして、職員である大人は、親同然となる。」
突然そんなことを言い出す園長先生。脈絡がなく、伝えたいこともよくわからない。そのため、怪訝な表情を返すしかない。何が言いたい、と。
ゆっくりと近づいてくる園長先生。兄ちゃんの右横、僕の正面へ立つ。次の瞬間、衝撃と浮遊感に襲われる。何が起こったのか分からず、混乱する頭。そんな頭では、受け身なんて取れるはずもなく、地面と接触する。数回跳ね、ザザザッと音を立てて土の上を滑る。続けてくるのは、腹部への痛み。鳩尾に入ったのか、胃の中にあったものが上がってくる。それを止められるはずもなく、その場に出してしまう。
「うっ、おぇぇぇ。」
あらかた出し終えた後、静寂が戻ってくる。吐瀉物から温もりと刺激臭が伝わって、不快感が募る。
「な!?」
兄ちゃんの驚いた声、それと同時にザリッという地面を踏んだ時の音がする。それを聞いた瞬間、気持ち悪さや不快感が脳の大半を占めていたが、残りの部分で何が起きたのかを理解した。あの長く、しなやかな脚で、蹴られた。体勢から見て、特に力は入っていないだろう。それでもこの威力。大人と子供の差を、言葉ではなく、力で理解させられた。
兄ちゃんが駆け寄ってくる音が聞こえる。背中に右手を添え、ゆっくりと上下に摩ってくれる。それだけで痛みが幾分か和らいでいく気がする。
「いきなり何すんだ!!」
がなりたてる兄ちゃん。そんな兄ちゃんの問いを無視し再び歩き出す園長先生。
「よくも、私の子供に怪我をさせてくれたな!」
眉間に皺を寄せ、顎が少し上がる。上から睨めつけるような視線が僕たちに向けられる。園長先生が表情を変えて怒るところを初めて見た。普段は怒っていても顔に出ないのに。それだけ、彼らに怪我をさせたことが逆鱗に触れることだったということだ。
僕と兄ちゃんの髪を掴み、小屋へと歩を進める。ズリズリと引きずられていく。頭皮に痛みが走る。髪の毛だけで体を動かしているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。兄ちゃんの口から痛みに耐える声が漏れている。
小屋に入り、鳥かごの前で足を止め、髪から手を離す園長先生。これか、と小さく口にしていることから考えて、やはり、僕の声は届いていたということだ。小鳥の死体を見る園長先生。
「……素晴らしい。」
僕は、予想していなかった反応に、今まで感じていた痛みさえも忘れ、呆気にとられていた。
「え?」
「は?」
僕たちの声が重なる。それもそのはず、小鳥は見るも無惨な姿だ。それを、素晴らしいと表現する人間がこの世にいるとは、今、この瞬間まで、思いもしなかった。
「何か不思議なことでも? 子供の作品を、褒めない親はいないだろう。」
生き物の死体を作品と表現する園長先生。意味がわからない。恐怖、嫌悪感などの感情が溢れ出てくる。気持ち悪い。もちろん、鳩尾を蹴られたからというのもあるが、それ以外にも、園長先生のことが化け物に見えてきたことが大きい。
「っざけんな!!」
兄ちゃんが立ち上がり、園長先生に殴りかかる。それを軽くかわし、髪を掴み、腹に蹴りを入れる。蹴られた衝撃で鳥かごを乗せていた机にぶつかる兄ちゃん。鳥かごが落下し、小鳥の死体も放り出される。腹を抱えて蹲る兄ちゃん。そんな兄ちゃんの肩を蹴り、体制を崩し、顔を殴る。何度も、何度も。
「兄ちゃん!」
見ていられず、そう叫ぶ。すると園長先生の顔がこちらを向き、目が合う。背筋が凍るのを感じる。こちらに近づき、髪を掴み、持ち上げる。そのまま、空いた方の手で鳩尾を殴られる。そのあと兄ちゃんがいる方に投げられる。隣から小さな声が聞こえる。
「なんで……どうして。」
この状況の原因を考えているのか、うわごとのように言う兄ちゃん。
僕と兄ちゃんの間、顔のあたりに小鳥の死体がある。何度見ても酷い殺され方をしている。そんな小鳥にそっと手を添える兄ちゃん。
「なに死んでんだよ。お前が生きてれば、こんなことには……。」
小鳥に話しかける兄ちゃん。しかし、小鳥は何も答えない。兄ちゃんも、返事を期待していたわけではないだろうが、それでも語りかける。
「なんで、なんで!!」
と兄ちゃんが感情的になった瞬間、黒い光が見えた。黒い光。一見、矛盾しているようだが、そう形容するしかない光景だった。
その原因を考える暇はなかった。なぜなら、
「ピ、ピィ。」
死んだはずの小鳥が、鳴き出したからだ。