優しい嘘などありはしない
優しい嘘なら許されますか。いいえきっと許されないのでしょう、例えどんな理由があろうと嘘は嘘。貴方が一番嫌いとするもの。
この世界に落とされてからというもの私の周りには常に声が付き纏っている。
「君はこの世界では異物でしかないのさ」
「そうやって我が物顔で異界を闊歩するのか」
「お前に安寧は似合わないよ」
これは誰の声。知らない人の声がいつも聞こえる。余りにも鬱陶しいので刃物を振り回してこれの主を刺していく。確かに刺したはずなのに感触はない。刺さっていないのだ。声は絶えない。
「……ぱい!……先輩!」
「!……誰?」
誰かの声で正気に戻る。はて。元から正気なのに、正気に戻る、だなんておかしな話。
「■■です」
「……■■君?」
「はいそうです。さっきから刃物なんて振り回してどうしたんですか」
「刃物?」
「はい。それはもう、見えない誰かを刺しているようでしたよ」
「そっか……もう大丈夫!」
どうやらそいつらを消すことが出来たみたい。■■君は私の同級生だったっけ。それとも後輩だっけ。分からないけど彼は鬱陶しくないので大丈夫だ。これは嘘ではない。本当に大丈夫だから。自分に言い聞かせるようにもう一度。
それでも震えるこの手が柄を手放すことはない。これは自衛なのだ。あの声から逃れるための。
「先輩、顔色が悪いですよ。気分が悪いのなら保健室に……」
『お前、顔色が悪いぞ。気分が優れないのなら保健室へ……』
彼の手が私の頬に触れた瞬間、脳裏に浮かんだのは愛おしいあの人。目の前の人とは似ても似つかない黒い髪と黒い瞳。思わず彼の手を弾いた。
「大丈夫だから……触らないで!」
「っ、すみません……」
少しも大丈夫なんかじゃない。気分は最悪だし吐き気もする。でも大丈夫だと言わないとまたあの声がやってくる。
自分を守るための優しい嘘で塗り固めた今の私を見たら、きっと貴方は私を叱るのでしょうね。嘘は貴方が一番嫌いなものだから。嗚呼、もう一目でいいから会いたい。
でももう思い出せないの。貴方が誰だったのか、私が何者だったのか。
このぬるま湯のような感覚をもう少しだけ。お願いだから、もう少しだけ。