甘いお酒
「シャーロット様、そろそろ休憩なさってはいかがですか?」
「ありがとう。でももう少しで読んでしまうから」
シャーロットは侍女にお礼を言うと再び読んでいた本に目を向ける。この国の歴史が書かれたものだった。
シャーロットがエリアスのところへ嫁いで三ヶ月が経った。いろいろやっていけるか不安だったが、シャーロットのいた伯爵家と違って、屋敷の人々は皆親切に接してくれた。
現在シャーロットとエリアスは正確に言うと婚約中だ。ふたりとも初婚だったことから、すぐに結婚するより半年間の婚約期間を設けたほうが世間体もいいだろうという話になった。
そのため今は花嫁修業という名目で侯爵邸に住まわせてもらい、教養やマナーを改めて学び、同時に結婚式の準備なども進めていた。
この半年でシャーロットは少しでもエリアスの妻にふさわしい女性になりたいと、可能な限り勉強やマナーを身につけるために時間を費やしていた。
(それでも――)
「シャーロット、行ってくるね」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
シャーロットの頬にキスを落とし、眩しい笑顔でエリアスは仕事に出かけていく。
遠ざかる背中を少し寂しそうにシャーロットは見送った。
格好よくて、完璧で、なんでもできてしまう彼に少しも追いつけそうにない。
◇
(美味しそう…)
ある夜会。エリアスと共に彼の知り合いに一通り挨拶を済ませた後、シャーロットはテーブルに並べられた飲み物に目を止めた。ピンク色でシュワシュワと泡がのぼっていて可愛らしい。
「シャーロットが好きそうな感じだね。飲んでみる?」
エリアスが通りかかった給仕に確認する。
「イチゴの微炭酸カクテルだって。そんなにアルコールも強くないものらしい」
「あっ、でもお酒なんですね」
シャーロットはグラスに伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「飲まないの?」
「そう、ですね…」
伯爵家にいたころ酒を飲む機会はほとんどなく、もうずいぶん飲んでいない。侯爵家へ来てからも、エリアスのパートナーとして何度か夜会や舞踏会に出席したが、粗相をしてはいけないといつも気を張っていて酒を飲む余裕はなかった。
「そういえばシャーロットってお酒は飲めるの?」
「実はあまり飲んだことがないんです。1、2杯なら大丈夫だと思うんですが」
「そうか、なら僕もついてるから少しくらい大丈夫だよ。緊張もほぐれるし、少し飲んでみなよ」
「はい。ありがとうございます」
エリアスの気遣いに感謝し、シャーロットはグラスを手に取った。
ピンク色の可愛い見た目に、一口飲むとシュワシュワと微炭酸がきいてほのかにイチゴの風味がする。
「美味しい」
「よかったね」
その後、美味しくてシャーロットはついつい全部飲み干してしまった。
気分がふわふわして確かに緊張も和らいだ気がする。でも次第に身体が少し火照って頭がぽーっとしてきた。
しばらくして――――
「ん?シャーロット、大丈夫かい?少しふらついてる気が…」
「だいじょーぶれす。えりあすたま」
「!?!?」
呂律が怪しいシャーロットの返答にぎょっとしてエリアスは彼女の顔を見る。
その顔は真っ赤で、目がとろんとして完全に出来上がっていた。
「シャーロット!酔ってるようだ。いったいどれだけ飲んだんだ?」
「酔ってまてん。一杯だけれすよ」
そう言ってシャーロットは上気した頬のままふにゃりと笑った。
「………」
エリアスは思わず、片手で顔を覆った。
まずいことになった。まさかシャーロットがこんなにお酒が弱いとはエリアスも知らなかったのだ。
火照った頬、潤んだ瞳に少し腫れぼったくなった赤い唇。オフショルダーのドレスからのぞく彼女の肩や背中も少し赤く染まっている。
正直すぐにでも帰った方がいい。こんな扇情的な姿を誰にも見せたくない。
しかし、今日エリアスは父である侯爵の代理として夜会に出席していた。今後重要な取引先になるかもしれない相手に挨拶する必要があった。さきほど会場をまわったときにその相手はまだ来てないようだった。
(仕方ない。また後日にと言付けを頼もう――)
「エリアス様。ロールフッド様が参られました。話をしたいそうです」
ところがタイミング悪くその相手が来場し、声をかけられてしまった。
しかしこんな無防備な状態のシャーロットをひとりになんてできないし、なるべく他の男の目に触れさせたくない。どうしたものかと思っているところにエリアスの友人ケヴィンがやってきた。
「ケヴィン!頼みがある」
「おお、エリアス。そんな慌ててどうかしたのか?」
「取引相手と話したいことがあるんだが、シャーロットが酒に酔ってしまったようで。すぐに終わらせてくるから少しの間だけ彼女を見ていてくれないか?」
「ああ、別にいいけど」
快く了承したケヴィンがシャーロットに視線を移す。
「あっ、ケヴィンたまですね。えへへ」
「うわっシャーロット嬢、めちゃくちゃ酔ってるな」
エリアスはケヴィンの肩をガシッと掴むと念を押すように言った。
「ケヴィン、お前のことは信用している。だからどんなにシャーロットが魅力的でも絶対に手を出すなよ。絶対に」
「…信用している奴のセリフじゃないだろ。心配しなくても親友がべた溺れしてる婚約者に手を出すわけないだろ」
ケヴィンはふらつくシャーロットを支え、取引相手のもとへ急ぐエリアスを見送った。
ちらりとシャーロットの着ているドレスを見る。今夜の彼女はライトグリーンの爽やかなドレスを着ている。エリアスの瞳に似た色だ。
エリアスがシャーロットを溺愛しているのは社交界で有名になりつつある。ふたりが婚約した当初は、遊び人のシャーロットが真面目なエリアスを誑かし婚約者になったなどと陰口を叩かれることが多かった。
しかし、夜会や舞踏会に出席するたびエリアスはシャーロットに自分の色のドレスだったり豪華な装飾品を必ず身に付けさせ、できる限り寄り添っている。この前の舞踏会なんか、シャーロットにダンスを申し込もうとした令息を無言の圧力で諦めさせていた。もちろん彼女はそんなこと気づいていないだろう。
最近ではエリアスの愛で遊び人のシャーロットが改心したと話す者さえいる。実際遊んでいたのは彼女に変装した姉だったのだが、伯爵家もエリアスもその事実を表沙汰にするつもりはないようだ。
ケヴィンは使用人にエリアスへの言付けを頼むとシャーロットを控室へ連れて行った。
「シャーロット嬢、水は飲めそうかい?」
「ん?……えりあすたまは?」
シャーロットがキョロキョロとエリアスの姿を探す。
「エリアスは取引先と少し話があって席を外している。すぐ戻ってくるよ」
「うえーん、えりあすたまー」
ケヴィンの話をよく聞かずシャーロットは突然べそべそと泣き出した。
「シャーロット嬢、ちょっと落ち着いて」
「この!えりあすたまをどこへやった!」
「あっ」
急にドンッとシャーロットがケヴィンを押した。その拍子にシャーロットも体勢を崩し、ふたりで倒れこんでしまう。
自然と床に倒れこんだケヴィンの上にシャーロットが乗っかる形になってしまった。酔ったシャーロットはそれを気にせず、「えりあすたまーどこー?」とべそをかきながらケヴィンの胸元を弱い力でポカポカ殴っている。
痛くも痒くもないがこの体勢はよろしくない。エリアスが来る前にどいてもらわなければ。
「もしかして私、えりあすたまに置いていかれたの?」
「そんなわけないよ」
「えーん。私がだめだめだから、えりあすたまに愛想を尽かされたんだ。やっぱり私じゃだめだったんだ」
「シャーロット嬢…エリアスが君に愛想を尽かすことはないよ」
エリアスはシャーロットに心底惚れている。
シャーロットの耳に光る小ぶりのピンクダイヤモンドのイヤリング。
これはエリアスが贈ったものだ。ピンクのハートの下にしずくのような形の透明なダイヤモンドがついている。彼女が好きなケロンソウという花に似たイヤリングをエリアスがわざわざつくらせたのだった。これをつくるため、腕のいい職人を探していたエリアスにケヴィンが評判の職人を紹介したのだ。
グスグス
「…シャーロット嬢、すまないがそろそろどいてくれな――」
ガチャリ
取引先との挨拶を終え、急ぎ戻ってきたエリアスの目に入ったのは仰向けのケヴィンの上で泣いているシャーロットだった。
「ケヴィン!お前というやつは!」
瞬時にどす黒い空気を纏ったエリアスがケヴィンに迫る。
「違う誤解だエリアス!よく見てくれ、俺はどちらかというと押し倒された方だ」
「………確かに…そのようだ。ケヴィンすまない、世話になった。シャーロット、持ち上げるよ」
エリアスは急いで泣いているシャーロットを持ち上げるとケヴィンと引き離した。
「あ!えりあすたま!会いたかったれす」
「シャーロット、待たせたな。すぐ帰ろう」
エリアスはシャーロットの髪を優しく撫でた。
その手をシャーロットはなぜか掴むと自分の頬によせた。
「ふふ。えりあすたまの手、つめたくてきもちいい」
「!」
シャーロットはうっとりと気持ちよさそうにエリアスの手に頬擦りする。
普段恥ずかしがりやの彼女はこんな風に甘えてくることはほとんどなかった。
エリアスは顔を真っ赤にし、もう片方の手で口元を覆う。
その時、ポカンとふたりの様子を見ているケヴィンと目が合った。
「み、見るな!」
「はい、はい」
少し呆れたようにケヴィンは視線を逸らした。
その後、結局眠ってしまったシャーロットを抱えて馬車に乗り込むエリアスにケヴィンが声をかける。
「エリアス」
「なんだ?」
「彼女、ちょっと溜め込んでいるみたいだぞ。話を聞いてやれ」
――――
―――――――
ゴトゴトゴトゴト
「エリアス…さま」
帰りの馬車の中、それまで眠っていたシャーロットがパチリと目を開けた。
「ん?シャーロット、起きたのか?屋敷までまだ時間がかかるからもう少し寝てるといい」
「……私、毎日幸せなんです」
「?それは、よかった」
「でも幸せすぎて怖くなるんです」
「怖い?」
「………」
「シャーロット、なぜ怖くなるの?」
エリアスが優しくもう一度聞き返す。
「私…マナーも教養もまだまだで、完璧で格好いいエリアス様とは全然釣り合いません。こんな私じゃ、いつかエリアス様の気持ちが離れてしまうんじゃないかって。
エリアス様は以前私を一生幸せにすると言ってくださいました。とても嬉しかったです。でもエリアス様は幸せですか?」
「シャーロット。僕は――」
スースー
気がつくとシャーロットはエリアスの肩にもたれて再び眠っていた。頬には一筋の涙。エリアスはそれを指で優しく拭った。
◇
翌朝――
(やってしまった…)
ベッドの上で目を覚ましたシャーロットはサーッと顔を青くした。
コンコン
「シャーロット?起きた?」
「あっ、エリアス様」
扉から顔を覗かせたエリアスがそのままシャーロットのいるベッドへと近づく。
「大丈夫?頭痛くない?」
「はい、大丈夫です。あの、昨晩はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
シャーロットは昨夜の夜会、イチゴのカクテルを飲んで酔った後のことを断片的だが覚えていた。途中介抱してくれたケヴィンにもかなり迷惑をかけてしまった気がする。
「気にしないで。お酒を飲むように勧めたのは僕だし。でもシャーロット、しばらくは屋敷の外では飲酒してはだめだよ。屋敷の中でもなるべく僕がいるときにしてね」
「はい、気を付けます」
しゅんとしてシャーロットは頷く。
「酔った君はなんというか無防備でとても魅惑的で他の誰にも見せたくなかったんだ」
ベッドの上に座るシャーロットの隣に腰を下ろしたエリアスは、シャーロットの頬を指先で撫でながら言った。
「は、はい」
少し熱のこもったエメラルドの瞳にシャーロットはドキリとする。
「ところでシャーロット」
「はい…?」
「昨夜、帰りの馬車の中で話したことは覚えているかい?君は僕が幸せか?って尋ねたんだ」
「はい…で、でも忘れてください。酔っていて変なことを聞いてしまいました」
「いや、僕にちゃんと答えさせてほしい。
シャーロット、僕は君といられてとても幸せなんだ。君が隣にいると僕は心から笑える。君と一緒にいるだけで日常のちょっとしたことでも特別に感じてしまう。君のいない人生など考えられない」
「エリアスさ、ま…」
「ここのところ忙しくてふたりで会う時間が少なくてごめん。会っていても結婚式やこの先のことを決めるための話ばかりになっていただろう?…それでいろいろ考えて結婚を少し延期して1年後にしようかと思っている」
「えっ!?やはり私のせいで…」
シャーロットは顔色を悪くする。
やはり昨晩の夜会で酔って醜態を晒してしまったのが原因だろうか。それともそもそも一緒に暮らしたことでシャーロットの能力不足を感じたのかもしれない。
「違うんだシャーロット、誤解しないでほしい。シャーロットは充分頑張ってくれている。ちょっと頑張りすぎなくらいで、無理をさせているんじゃないかって」
「でも、私は何もかもエリアス様の妻になるには不足していて、もっと頑張らなきゃ…」
エリアスは今にも泣きそうなシャーロットの手を自分の手できゅっと包み込んだ。
「シャーロット、聞いて。もちろんこの先、未来の侯爵夫人として努力してもらうことも出てくると思う。でも今は休憩や睡眠の時間まで削って無理をしてほしいわけではないんだ。それに、婚約期間を伸ばすことで僕は君ともう少し婚約中の恋人関係を楽しみたいと思ったんだ。シャーロットは嫌かい?」
「嫌ではないですが、延期をすることで周りにご迷惑をかけてしまいませんか?」
「まだ結婚式の招待状も出してない段階だから気にすることはない。大丈夫だ。
シャーロット、君は以前恋人同士のシチュエーションに憧れていると言っていただろ?まだやり残したり、行きたい場所とかないの?」
「それは…ありますが…」
エリアスと婚約してからお互い忙しく、本当の恋人同士になれたのにデートのひとつもできていなかった。出来るのなら何の目的もなくエリアスと手を繋いで王都を歩いてみたい。
「そう、よかった!じゃあ今日からさっそくやろう」
「今日からですか?でもエリアス様はお忙しいのでは?」
「とりあえずシャーロットと一緒に過ごしたくて一週間休暇をとることにした」
「いいのですか?」
「もちろんだ。支度できたら、とりあえず一緒に朝食をとろう」
立ち上がるエリアスの服の袖を控えめにシャーロットは掴む。
「あ、あの、エリアス様…」
「なんだい?」
「エリアス様は恋人として私と何かしたいことはありますか?」
シャーロットはエリアスと恋人になれてやってみたいことや行きたい場所がいろいろとあるが、はたしてエリアスにはあるのだろうかと、ふと思ったのだ。
「僕?そうだな…1日最低でも10回はキスしたいかな」
少し恥ずかしそうに尋ねたシャーロットに、爽やかな笑顔でエリアスは言い放った。
「10回!?」
「駄目かな?」
「い、いえ、駄目というわけではないんですけど、キスされるたびにドキドキするので私の心臓がもつか心配になって」
「それじゃあ、はやく慣れるためにも練習しなきゃね」
真っ赤になったシャーロットにエリアスは嬉しそうに言った。
その後すぐに、エリアスに何度も角度を変えてキスされたシャーロットは朝から息も絶え絶えになってしまったのだった。
読んでくださったかたありがとうございました。




