表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透徹の青空  作者: 海底
6/8

6

 肌が引き締まる寒さが張り詰める晴天の朝、いつも通りに身支度を済ませてなおエイラは部屋から出られずにいた。朝食はとっくに準備できている時間、セルマはおそらく自分の到着を食堂でいまかと待ってくれているはず。扉の把手に手をかけてそのまま部屋の中央へと戻っていくこと十数往復、扉が外側から叩かれて宙に浮くほど驚いた。よわよわしく返事をすると、返ってきたのは両親の声よりも聴いたセルマの朗らかな声。

 鍵を外して扉を開くと、鍵がかかっていたことと見るからに寝不足顔をしたエイラに、目を丸くしているセルマがまだ湯気の立つ朝食を持って立っていた。


「今朝はこちらで召し上がりますか?」

「そうね、そうしようかな」


 ゆっくり寝過ごした日などは部屋で朝食を取ることもあるから、気を利かせて持ってきてくれたのだ。彼女は承知したとうなずいてから、半円形の張り出し窓のそばに置かれたテーブルに手際良く朝食を広げてくれる。

 席についてのろのろと食べても大した時間かせぎにもならないし、いつまでも部屋に引きこもっているわけにもいかない。クリスはもう朝食を食べ終えただろうかと考えていると、セルマが部屋を出る前に、ああ、と言って思い出したように言った。


「クリス様、配達の荷馬車に便乗して、本日お帰りになるそうです」


 ごふっ、と音を立てて食べ物が気管に詰まり、盛大にむせ込む。咳を繰り返しながらセルマを見ると、彼女は真顔で目だけを細めてこちらを見ていた。それは行儀の悪さに対してか、なにかに勘づいているのか。いずれにせよ彼女がそういう視線を向けてくるときは、あまりいい意味でないと過去の事例からも言える。それからセルマは物言いたげな視線を残しながらも、やはりなにも言わずに部屋を出て行った。

 町から邸までは遠いけれどいつも来ている中年の配達人は早朝から配達仕事をはじめるから、道中に問題がなければ昼前には到着する。クリスがここにいるのはそれまでということだ。

 配達人は商会でも有名な情報屋で、エイラのうわさはすべて知っているし、クリスがこの邸に滞在したと知れば真っ先に町中に広めるだろう。しかし、クリスのことだからすぐに状況を理解して、なにかしらうまい言い訳を考えて彼を丸め込むのではないだろうか。それができる人だと他人ながらに自信を持って言える。エイラがなにか言えば余計に騒ぎは大きくなるだけだから、黙ってあとは彼に任せておいたほうがいい。

 誰もが嫌がる配達を彼が引き受けてくれているのはあくまでも情報収集と金のため。通常よりも多く支払いをしているから契約が成り立っているけれど、これ以上値段があがるとなるとつづけられなくなる。

 朝食を食べ終わってしばらく外の木立をぼうっと眺めているとき、回収用の空き木箱を外に出し忘れていたことを思い出す。顔を見せたら怖がるから、配達人が来る前に出しておかなければと、エイラはようやく重い腰をあげた。

 魔女は月光で力を蓄え朝日で弱体し、昼前でなおかつ邸内に入らなければ呪いを受けることはない。といううわさを鵜呑みにしている配達人は、荷物をすべて調理場の通用口手前に置いていく。荷物の搬入はいつもルディがしてくれているけれど、今日はエイラたちだけで片付けることになる。

 ゆっくりと部屋から顔を出し、廊下を左右見渡すもクリスの姿はない。安心したような、すこし拍子抜けしたような不思議な気持ちになる。なぜ自分の邸で他人の姿に怯えなければいけないのかと思い直し、咳払いで気持ちを切り替えて姿勢よく調理場まで向かう。

 保管庫に積み上げておいた木箱をいつもの場所に出して、次の注文書と支払いを状箱に入れてそばに置いておく。

 ものがなくなってすっきりしている保管庫の棚を拭いて回っていると、荷馬車の音が近づいてくるのが聞こえた。保管庫も調理場の勝手口も扉を開きっぱなしにしているから音は届くけれど、お互いの姿が見えることはない。エイラは箱のうえに乗り、はめ殺しの細い窓に手をかけて爪先立ちをして外をのぞく。さっそく荷下ろしをはじめた配達人は仕事でずっと日にさらされているから肌は褐色によく焼けて、刻まれた皺は深い。顔つきだけ見るとかなり年配に見えるけれど、荷下ろしをする動きに体力の衰えはない。背が低くがっちりした体型で機敏に動き、重そうな荷箱を急ぎ気味におろしているのは、可能な限りここに長居をしたくないという気持ちのあらわれだろう。

 そこへやはり物陰からひょいと姿をあらわしたのは、日に焼けることもなくのうのうと生きてきたであろう肌の白い次男殿。予期せずあらわれた人影に配達人は慌てふためいていたけれど、クリスの顔を見たとたん大袈裟に安堵の声をあげて胸をなでおろした。


「はああ、驚いて死ぬかと思った。勘弁してくださいよ、お役人さん」


 その言葉にクリスは首をかしげながら胸に手を当てて、謝罪の身振りをしてせた。配達人が安心しきった表情で話をつづけているあいだ、クリスはなにかを探すようにあたりを見回し、保管庫の細窓からのぞき見しているエイラをあっさりと見つけだす。お互いの視線は確かに交差しあっているが、クリスは特に慌てる様子をみせなかった。見つめ合っているあいだ、横で配達人は帽子を取り、かなり年下であるクリスに何度もお辞儀をしながらへつらっている。

 彼の動向を見つめつづけるのにも飽きたエイラは窓枠から手を離し、足元を見ながらそろりと箱からおりる。保管庫には扉がふたつあり、ひとつは調理場へ、もうひとつは廊下へと直接でられる。いまさらこそこそしたところで意味はないのに、抜き足差し足で廊下側の扉へ近づき、体がすり抜けできる分だけ開いて保管庫から出た。まずはセルマに会いに洗濯室へ向かい、それからエイラは行きたい場所へ向かう。




 自分の呼吸しか聞こえないほどに外界から遮断され、まぶたを開いても閉じても大差ないほどの暗所は黙想がはかどる。いつもなら黙々と考えにふけっていられるのに、体の異常が思考を邪魔して落ち着くことができない。周りの布で体がやわらかく包まれていて、このまま昼寝ができるほどに居心地はいいはずなのに、蒸し風呂から出たてのように内側から発せられる全身のほてりがずっとおさまらない。

 クリスは偶然この邸に訪れたのではなく、失踪した夫と相次いだ前夫たちの死亡についてエイラを調査するために、王都から派遣されてきた役人だろう。とうとう領主が魔女討伐の依頼でも送ったのか、四人目夫の家族が訴えて町の役人が呼び寄せたのか、素性をあいまいにしていたのは秘密捜査だったからだと納得がいく。それなのに、関係のないことまでべらべらと喋ったり、昨夜の戯言に胸を躍らせて寝付けなかった自分を思い出し、頭を抱えてもだえる。一瞬でもクリスとの未来を妄想するなど、四度も結婚に失敗しておきながら、いったいどれだけ厚かましいのか。奇妙な話を怯えずに聞いてくれたのもすべて最初から知っていて裏取りのためだったのに、やさしくされてうかれたり褒め言葉を真に受けたり、変な反応を見せてしまっていたらと思うと恥ずかしさで死ねそうだった。

 行き場のない積もる羞恥心に身もだえしていると、木枠がきしむ音とともに蓋が開かれ、すきまから差し込んできた強すぎる光に慌てて両手で顔を覆う。

 おお、と芝居がかったクリスの声がする。


「棺に横たわる美女というのもなかなか趣きが」

「セルマを尋問して私の居場所を吐かせたのですか」

「まさか。さっき普通に訊ねたら、棺に隠れているって教えてもらいました。冗談かと思ったら本当にいた」


 あはは、と軽い笑い声が聞こえる。どんなときでも自分の味方でいてくれるはずの彼女が裏切るなんて、とエイラはひどく落ち込んだ。

 ぎっ、と強く木枠が音を立てる。指の隙間からこっそり様子をうかがうと、棺が置かれている台座の縁にクリスが腰掛けていた。さきほどよりも名前を呼ぶ声が近くから聞こえる。


「クリスさんはいったい何者ですか」

「法執行局の捜査官です。町の人の度重なる死亡と行方不明が魔女の仕業であると、再三にわたり調査要求が届いていたので僕が送られました」


 町の小役人が王なら法執行局の者は神に等しく、その気になれば彼らなら黒を白に、白を黒に染めることもできる。ちいさな犯罪などに出てくることはなく、彼らが調査と称して訪れると町ひとつ機能しなくなると大袈裟に恐れられている。クリスは迷い猫なんてかわいらしいものではなく、狙った獲物は狩り取るまで追い詰める獰猛な獅子だった。


「うそつき」

「隠していた部分はいろいろあったけど、僕から話したことはおおむね真実ですよ」

「どこが放蕩息子、立派な仕事をされているのに」

「この仕事に就く前は本当に遊び歩いていたし、家族にとっては理解し難い職業であることも事実です。いまだに転職と結婚を懇願されています」


 宮仕えと一言で言っても羨望を受けるものから忌避されるものもあり、法執行局は一般的に人から憧れられる職業でもない。確かに裕福で家柄のいい息子が、凶悪な犯罪者を追いかけまわして締めあげている姿は、親からしたらお茶会の話題に出せるような自慢話ではないのだろう。

 隠していた事実を淡々と語るクリスの話し方は、これまでエイラと話をしてきたときと変わらない。いままでエイラに取り入ろうと演技をしていたわけではなく、真実を知る前もいまもクリスの態度は同じだ。


「それで、私は投獄ですか、火炙りですか」

「それはありません。三人の死亡にあなたは関係していないという証拠も証人も十分なので、いまさら覆ることはないし、魔女なんて馬鹿馬鹿しい超常の力を信じているのはこの土地の者だけです」


 台座のうえを滑るような音がしてクリスの声がさらに近づき、顔を覆う手を指で何度か突かれた。いい加減に手をおろせという合図だと思うが、エイラはかまわず無視を決め込んだ。

 ちいさなため息とともにクリスはつづける。


「四人目は行方不明というか、本人の意思で失踪したのだと思っています。エイラさんとの結婚はおそらく目眩し。町での聞き込みとあなたの話、彼の荷物のなかから手掛かりになりそうなものは見つけました」


 いったいなにを見つけたのか、彼の荷物なら何度も確認して調べられて困るようなものはなかったはずだ。そもそも彼がここに持ち込んだものなんて、ほぼ空に近いちいさな荷箱ひとつだけだった。


「もしかして、エイラさんも利用されていることをわかっ……」

「無実と」クリスの言葉に被せるように声を張りあげる。「わかってもらえたならよかったです。お手をわずらわせました、さようなら」


 クリスが家中を探索していたのは四人目の痕跡探しのため、監禁されていないか、あるいは死体がないか、証拠探しにそこらじゅうを歩き回っていたのか。そうだったとしても、それは彼がしなければいけない仕事なのだから仕方がない。

 静かな倉庫にエイラの別れのあいさつが吸い込まれていき、クリスからの返事はまだない。その代わりに顔を覆っている手を剥がそうと両手首を掴まれて、エイラは渾身の力を込めて抵抗する。クリスが本気を出せばエイラの抵抗など無に等しいはずなのに、クリスは無理やり引き剥がそうとはしなかった。


「エイラさん、僕を見て」


 ふたたび手首を揺すられるも、エイラは顔を覆ったまま外さないでいる。腹を立てているわけでもないし、不貞腐れているわけでもない。ただクリスの顔を見たらいつもどおりではいられない気がして、外したくても外せない。

 ようやくクリスの手が離れたと思ったら、今度は腹の両脇を軽く掴まれた。


「見てくれないなら、思いっ切りくすぐりますよ。弱点らしいですね」


 わざと低い声を出して脅すような口ぶりに、しぶしぶ手をずりおろし、目だけを出す。昔からくすぐられるのが苦手だということも、セルマは教えてしまったのだろうか。裏切り者、と心のなかでつぶやく。

 ずっと目をつむっていたから視界はうっすらぼやけているけれど、それでも表情がわかるくらい間近にクリスの顔があった。


「よかった、泣いていたらどうしようかと思った」

「これまでのどこに泣く要素が──」


 かわいくないのは承知で本音を吐き捨てると、彼はなぜか困ったように眉をさげて笑う。困っているのはこちらだと目を細めて睨むと、彼は目を合わせたまま顔を寄せ、エイラの指ごしに唇を落とす。注がれる眼差しはやさしく、指に押し当てられるやわらかい感触は、これは昨夜のような単なるいたずらではないと、繰り返し伝えているように思えた。

 クリスがはじめてこの邸に来たとき抱きつかれてなにもできなかったように、人は心底驚くと、叫び声など上げられないし指一本動かせなくなる。唯一できることは、目の前のものをただ見つづけるだけ。いま目に映っているのはクリス以外にない。

 もしも、この手を外したら唇まで届くだろうか、そんなことをいつまでも迷っているうちにクリスの体は離れていく。離れ際に、クリスがなにかをつぶやいた。確かに口元を動かしてなにかをつぶやいていたけれど、声を発していなかったからなにを言ったのかはわからない。

 祖母は唇の動きで会話をある程度理解できる人だったから、幼いころは遊び感覚でまねしていたけれど、真面目に習っておけばよかったと、こんなときに無意味な後悔が頭をよぎる。

 頭のなかが混乱で埋め尽くされているあいだ、クリスは唇を添えた指先を拭うようになぞり、息を大きく吸い込んで口をきつく結ぶ。そして、なにかを断ち切るかようにかぶりを振って立ちあがり、そのまま振り返らず視界から消えていった。

 引き止めるための言葉をたくさん考えたけれど、なにを言っても彼を困らせるだけだと思ったら、歩き去るクリスの足音が聞こえなくなるまで、エイラはただその場に横たわり天井を見つめることしかできなかった。

 たった数瞬の出来事だったのに、これほど強く心に残る瞬間は今後一生ないかもしれない。昼食の時間になってセルマが呼びにくるまで、しばらく余韻にひたることにした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ