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透徹の青空  作者: 海底
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 夕食後しばらくしてエイラは忘れていた仕事を思い出し、ひとり調理場の横にある保管庫へ入る。セルマはもう一日の仕事を終えて部屋に戻っているころだろう。

 明日、配達人が持ってくる荷物に備えて食料保管庫の棚整理と、次に配達を頼む食材や必要な日用品の覚書を作る。いつもはセルマがしてくれているけれど、ルディの留守でここ最近はセルマの仕事が増えて忙しかったから、エイラ自ら志願した仕事だった。いずれ待っているかもしれない極貧生活の訓練として、生活にはなにが必要なのかを覚えるのに在庫管理は勉強になる。

 昼間するはずだったのに、菜園での野菜収穫に夢中になってしまってすっかり忘れていた。真っ暗な保管庫内を、手持ち角灯のあかりだけを頼りに隅から隅まで調べて書き連ねる。


「いたっ」


 棚のうえを見あげようとうしろ向きにさがっていったら壁に頭を勢いよくぶつけてしまった。そのはずみに壁に打ってあった釘のフックがまとめた髪に突き刺さり、ひっかかってしまったらしい。頭を動かしてみてもどうやって絡まっているのかが見えないし、髪が引きつられるだけで痛みが走る。片手だけうしろに回していじっても、髪は複雑に絡まっているようだった。手に持った角灯が邪魔でどこかに置きたくても、頭が固定されている状況では床にも棚にも腕が届かない。火を床に放り投げるわけにもいかず、完全に片手の自由は封じられていた。

 釘の形状を手探りで調べていると、クリスが保管庫の戸口からひょいと顔をのぞかせた。相変わらず彼は予期せずふらりとあらわれる。髪が、と言うとすぐにエイラの状況を理解した彼は目の前に立ち、釘から髪を外す手伝いをしてくれた。背の高い彼はエイラの頭ごしに背後をのぞき込んでいる。エイラの視界には彼の胸元のボタンしか映っていないからどうなっているかはわからないけれど、髪をいじられている感触はすれどなかなか釘からは開放されない。

 昼の光があればそんなに難しくはないだろうけど、頼れる光源がない倉庫内では仕方ない。編み込んだ部分が絡まっているだけで、そんなに真剣にならなくても髪をほどけばいいだけだから、とクリスを止める。


「まってまって、もうちょっとだから」


 あわてて懇願する声は、まるでおもちゃを取りあげられそうになって駄々をこねる子どものよう。意地になっているのか、さらににじりよるクリスの体と壁に挟まれて、エイラは身動きが取れなくなっていた。エイラがいまできることといえば角灯を高く持ちあげて、クリスの手元を照らしてあげるだけだ。

 じりじりと詰め寄られて、いくら男女間の垣根が低い王都民だとしても、一応はまだ既婚者である女性に対してこの距離感はどうかと思う。女性慣れしているクリスからしたらこの距離は気にならない間隔なのか、それとも夢中でこの状況に気づいていないのか、クリスの行動には正直困らされる。


「取れた」


 角灯を高くあげつづけて腕がふるふると震えてきたころ、クリスの得意げな声が後頭部から聞こえた。頭が壁から離れてようやく自由になる。


「いじりすぎて結局髪形はめちゃめちゃになってしまいました。痛くありませんでしたか?」

「まったく痛くなかったですよ。ありがとうございました」

「すみません。僕、絡まったものをほどくのが好きなので、つい夢中になってしまいました」


 やはり夢中になっていただけかと、他意はなかったことに安堵する。

 振り返って釘を見ると、引っ掛けたものがすべり落ちないよう丸められていたうえに返しがついて、どうりで簡単に外れなかったわけだと納得の形状をしていた。これでは無理をして引っ張ってもかなり髪を犠牲にしていただろうから、クリスはそれを丁寧にほどいてくれたのだ。

 なぜこんなところにいるのだろうかと、偶然クリスがあらわれた理由が頭にぱっと思い浮かぶ。


「もしかして、お腹空いていますか?」

「じつは」


 恥ずかしそうに腹部を押さえるクリスを見て、エイラは棚から丸いパンを取り出した。ルディも体格に比例してよく食べるから、簡単にかじれるものを常に用意してある。湯の準備をしてから、腸詰肉も同時に火で炙る。皮がぱちりとはじけて肉汁が出てきたら、軽くあたためたパンに切れ込みを入れ、酢漬けの野菜とあわせて挟む。


「こんなものしか作れませんけど」


 香茶と一緒に調理台のうえに置くと、クリスが礼を言う。棚から蜂蜜酒もひっぱり出すと、目を輝かせた彼は香茶よりさきに手を出した。


「よかったら、すこし話し相手になってもらえませんか」


 そう言って、椅子に座ったクリスから隣の席を勧められる。あとは部屋に戻って本を読みながら、寝くなるのを待つだけだったから誘いを断る理由もなく、クリスに入れた香茶を自分のほうへ引き寄せて隣に座った。座ると同時に嬉しそうな顔を見せてから、クリスはパンにかじりつく。出されたものはなんでもおいしそうに食べて、セルマの作った蜂蜜酒に舌鼓を打つ姿は妙にかわいく見える。


「僕の仕込んだ蜂蜜酒、いつごろ飲めますか」

「状態を見ないとなんとも言えませんけど、だいたい十日から二十日くらい」


 十日かあ、と待ち遠しそうにぼそりと繰り返す。それからクリスは家のことを話しはじめた。大食いで大酒飲みなのは家系らしく、家族のなかではクリスが一番少食なほうらしい。それだけでなく、昔からなにをするにしても三兄弟のなかでは一番最下位だという。兄はとにかく優秀でいかに父親から信頼されているか、弟は反骨精神の塊で兄にも負けない努力家でどれほど母親に溺愛されているか。真ん中のクリスはどちらの性質も持たず、両親から過度に期待されることもない。かといって邪険にされているわけでもなく、家を出てからは顔を見せる程度にしか帰っていなかったという。

 家族仲はいいけれど兄弟は若いうちに身を固め、地に足をつけた生き方をしているということもあって、顔を合わせるたびに親兄弟親戚から結婚をせっつかれ、それが唯一わずらわしかったと言った。クリスには結婚願望がなく、女性からの求愛もいままではのらりくらりとかわしてずっと気ままな暮らしをつづけていたらしい。


「結婚ってそんなにいいものですかね」

「さあ、私に聞かれましても」

「そうでした」


 まともな結婚を経験していない自分にそんな質問をされても答えられるわけがない。穴が開きそうなほど横顔を見ているクリスの視線から逃げるように半身を捻り、棚のなかから砂糖漬けの果実を取り出した。空腹ではなかったけれど、茶請けにと最近作って試食するのをわすれていたものだ。


「三度目の結婚はどんな?」


 間が悪く、果実を口に含んだ瞬間に訊ねられて急いで果肉を噛みくだく。砂糖漬けの果実は浸かりがまだ浅く、強い酸味に目が自然と閉じた。その様子をクリスはじっとながめ、エイラは香茶で酸味を流してから返事をする。


「ふたり目の夫の弟です」

「それはまたずいぶんと身近な相手との再婚で」

「彼が結婚したがった理由は、私が相続した遺産です。彼には多額の借金がありました」


 驚いたクリスの口から酢漬けの野菜が漏れて、あわてて口を押さえている。

 商人夫との結婚生活がたった数日だったとしても、すでに婚姻の契約が済んでいたエイラは遺産の正当な相続人であり、義両親はすでに他界していて子どももいない夫の莫大な財産はすべてエイラのものとなっていた。

 そのせいでエイラは前回以上に疑われて役所に軟禁状態となり、結婚までの経緯とあの夜の出来事を、何人もの役人の前で気が狂いそうになるほど繰り返し話をした。エイラの無実を証言できる人はたくさんいたし、それだけでなく彼が服用していたすべての薬はエイラとの結婚以前に入手していた証拠と、過去にも服用していた事実が明らかになりエイラは解放された。そのときエイラを弁護し、迎えにきてくれたのが元義弟だった。


「それから手続きなどで何度か会っているうちに結婚を申し込まれて、もちろんきっぱりとお断りしました。結婚はこりごりなので」

「それはそうでしょう」


 それでも元義弟は諦めずに足繁くエイラの元に通い詰め、愛をささやいては帰るをしばらく繰り返していた。兄同様にたくさんの贈りものが届けられ、会えない日もまめに手紙を送ってきた。かたくなに首を縦に振らないエイラに業を煮やした弟は、今度は遠くへ移った両親の家まで押しかけて直談判した。


「兄のかわりに私の生涯の責任を持ちたいとか、はじめて会ったときに一目惚れしていたとか。彼も商人ですからね、言葉巧みに両親を丸め込み、家の名を落としつづける娘をどうにか片付けたい親も手放しに喜んで、本人不在のまま婚姻契約が成立してしまったんです」

「傍から見れば、尊敬する兄と添い遂げられなかった悲劇の妻に、救いの手を差し伸べる人徳者、ってとこですかね」

「そうですね、周囲からの評判は弟のほうがよかったくらいです」


 さすがに抗議したけれど両親から泣かれてしまっては強く出れず、最後の結婚として諦めて受け入れたのだった。大々的な婚儀は行わず、婚姻許可証と証人ひとりを立てただけで済ませ、ふたりの生活は静かにはじまる。またしても好きになれた人とではなかったけれど、今度こそ平穏に過ごせる、そう思っていたのに男はその日から悪い賭博にのめり込んでいった。


「金銭関係で口論になり揉み合いになった挙げ句、刺されて死にました」

「あっさり言いますね」

「犯人はその場で捕まっています」


 そのとき邸にいたエイラは今度こそ夫の死から遠い場所にいて、結婚をした日から会っていないし、明るみに出た借金についても関与していない。ところが三度の結婚で全員が早々に死んだとなれば、魔女の呪いは本当にあるといううわさがより一層強まってしまった。その日から、誰からともなく言い出したのが「吸魂の魔女」という不名誉な異名だ。

 今回は犯人が捕まって動機も明らかにされたのにもかかわらず、兄につづき弟までもということでエイラに対する扱いはさらに酷いものになった。

 その後、しばらくして明るみに出た事実だが、子を授かるための薬を欲していたのは兄でも、効力不明な代物や人には使えない家畜用の強力な薬まで、各地から取り寄せていたのは弟のほうだった。そこに因果関係が存在するのか、面白がって邪推する物好きもいた。弟は賭博で作った借金の返済に追われていて、たったひとりの肉親である兄がいなくなれば遺産はすべて手に入るはずだったのに、突然あらわれたエイラに根こそぎ奪われてさぞかし焦っただろうと。すべては憶測だけれど、真実からはそれほど遠くないのではないかと思っている。しかし当事者がいなくなってしまったいま、いくら議論を重ねても憶測の域から出ることはない。

 積りに積もっていた彼の負債は相当な額で、押し寄せた借金取りによって相続したものは根こそぎ取られてしまったけれど、もともと自分のものではなかったからどうでもよかった。それよりも彼が正直に金が目的だと話してくれていたら、婚姻などという面倒なこともせずに前夫からの遺産はすべて彼に譲ったのに、クリスが言ったとおり人徳者としての周囲の評判も維持しておきたかったのだろう。そのおかげでエイラに残ったものは、とんでもない悪評と積み重なった不運な離婚歴だけだった。

 敬虔な国教信者だらけのこの町の人々はエイラを腫物扱いするけれど、信仰心の薄い王都民からすればそれほど気にならない話ではないかと思う。クリスは結婚に興味がないと豪語しているけれど、彼ならじっとしていても良縁を持ちかけられる可能性が高い。それなのにこんな不幸話を聞かせてしまって結婚への気持ちを余計に萎えさせてしまったらと、いまさら心配になって彼を盗み見た。話を聞きながらゆっくりパンを食していたクリスは、前に見たときのように上の空という表情のまま、ちょうど最後の一口を口に入れるところだった。


「寝かしつけに聞かせる話としては、過激な内容でしたね」


 愛想笑いを浮かべて冗談を言い、調理台に手をついて立ち上がると、クリスがぱっとその手首を掴んだ。驚いてとっさに手を引いたけど、手首はがっちりと掴まれていて外す意思を感じられない。長い指がぐるりと巻きついた自分の手首と、クリスの顔を交互に見やる。


「なにか?」

「四人目は? 四度目の結婚は?」


 その顔は暇つぶしに人の不幸話を聞きたいという様子には見えなかった。ほかの三人の話のときもふざけて聞いていたわけではないけれど、いつもはこちらの話を一方的に聞くだけだったから、いままでにない迫力に気圧されて言葉が詰まってしまった。エイラは中腰のまま訥々と答える。


「この邸に配達にきていた青年です。いつも相談に乗ってくれて、話をしているうちに仲良くなって」

「彼はどれくらいここに住んでいたんですか?」

「ほんのすこしの期間だけ」

「どんな方だったんですか。結婚に懲りていたのに、彼と一緒になろうと思ったのはなぜ?」


 矢継ぎ早な質問にしどろもどろになっていると、クリスはやおら立ち上がる。


「エイラさん」


 戸惑っているところに名前を呼ばれたせいでびくりと体が震えた。距離を置きたくても、一向に手を離してくれる気配がない。長いまつ毛の本数を数えられるほどに顔が近づいて、不思議そうにのぞき込むクリスの瞬きは、異様にゆっくりして見えた。

 しびれるような感覚が掴まれた手首から伝わり、心臓を突き抜け頭の芯まで駆けのぼっていったとき、思わず情けない声が漏れそうになった。不快ではなのに、いてもたってもいられず逃げ出したい衝動に駆られる。


「あの、もう、疲れたので、部屋に戻ります。おやすみなさい」


 全身を駆け抜けた謎のしびれに呂律まで影響を受けたのか、舌がうまく回らなかったけれどクリスには理解できたらしく、掴んだ手から力が抜ける。その瞬間に勢いをつけて腕を引き離し調理場から逃げ出した。

 廊下に出てから、あんなに露骨な引き剥がし方をしたら不愉快かもしれないと、態度の悪さをすこし反省した。


 急いで調理場を出てきたから角灯は置いてきてしまった。月灯りの強い夜だけれど仮に暗くても、慣れ親しんだ邸くらい灯りがなくても難なく歩ける。

 誰もいない廊下に響く自分の足音を聞きながら思う。クリスがこの邸に居着いてからいろいろと話をした。エイラは、昔から人と話をするのが不得手なうえに、長い引きこもり生活のせいで完全に社交性を忘れてしまっている。一方クリスは、聞き上手で会話をつなぐのも巧みだから、違和感なく自然と会話がつづけられる。話しやすいクリスには、教えるべきではないことまでうっかり話してしまう。言いすぎたと思っても、それを悪用するような人には思えないからすこしの罪悪感も感じない。いまの彼はエイラのことならなんでも知っているだろう。けれども、エイラはクリスについてはほとんど知らないと、いまさら気づいた。 

 彼自身について探られることを警戒しているようには見えないけれど、いま思えばクリスが自ら話したこと以外に知り得た情報がなにひとつなかった。改めて考えなければ気づけないほど、いつも自然と話の手綱を握っている。のんきな放蕩次男を演じているが、エイラの話術がへたすぎるという大きな欠点を差し引いても、言動の端々から感じる彼の明敏さは隠しきれていない。

 腑に落ちない思いで自室に向かっていると、自分のものではない足音がもうひとつ増えた。うしろにいるのはクリスだとわかっている。いつもは足音や物音を立てず突然姿をあらわす人なのに、うしろをついてきているのは自分だと、わざとわからせるように音を立てて近づくことを知らせてくれている。彼が使っている客間はエイラの部屋とは反対側にあるから、まだエイラに物申すつもりで追ってきているのだろう。

 無視をして部屋に逃げ込もうと思っていたのに、大きすぎる歩幅の差であっさりと追いつかれ、回り込まれて行く手を遮られる。灯りも持たない彼の顔は月明かりに青白く照らされていて、何度も見た表情なのに落ちた陰影に底の知れないなにかを感じた。


「もし怖がらせたのなら謝ります」

「……すこし驚いただけです」


 恐怖とは異なる感覚だとはわかっているけれど、あれを言い表す適切な言葉が思い浮かばず、曖昧に言葉をすり替えて顔をそらす。自ら前夫の話を切り出したくらいだから、そんなことで傷ついたりはしない。驚いたのは確かだが、怖かったわけでも傷ついたわけでもなく、ただ全身が内側からしびれるような、自分でもよく知らない感覚に困惑してしまっただけだ。

 それで納得してくれるかと思ったのに、彼はその場を一歩も動かずふたたび口を開く。


「すみませんでした。性分みたいなもので、つい」


 つい、好奇心が疼いて、魔女の呪いが実在するか気になったのだろうか。クリスも町の人と同じように、エイラが四人目の夫を取り殺して食べたとか、悪魔召喚の生贄にしたと疑うようになったのかもしれない。そう思ったら勝手に口がついて出た。


「彼は真面目な仕事人間でしたよ」


 四人目の夫とはこの邸に住みはじめたころからの付き合いで、これまでのことで疎遠になってしまった両親のことや、魔女と呼ばれていることに同情し、いつも味方になってくれていた。彼は借金があるわけでもなく、町で評判の働き者の青年だった。


「結婚を言い出したのは相手から?」

「そうですね。彼とは本当に、ただなんとなく、話の流れで結婚しただけです。お互いに気の迷いのようなものかもしれません」


 彼は魔女に魂を取り込まれた次の犠牲者だと、当然のごとくうわさは広まって、彼のことを心配する者が絶えることはなかった。そんなことがあっても彼は周囲の目は気にせず黙々と仕事をしていた。行商という仕事柄、毎日一緒に生活するわけではなかったけれど、仕事の区切りには必ず邸に帰ってくる。各地を行き来しているから留守の日が多くても、帰ってきた日はいつも仕事中の出来事や、各地の様子を話してくれて、エイラはそれを楽しみにしていた。そんなまめだった彼もここへ戻って来る日が徐々に減っていき、それならそれでもいいと、顔を見ない日が一年ほど過ぎていまに至る。

 話終わってクリスを見ると、彼はまたいつものように虚空を見つめていた。その顔をじっと見つめていると、なにかを思いついたようにエイラを見やる。


「じゃあ」クリスは一歩近づいて、月を背にほほ笑んでいる。「僕とも結婚してみますか」


 なにがじゃあ、なのか。なにを言っているのか、生まれてはじめて呆れて言葉が出てこない状況を体験した。


「まず、うちは長命家系なので、僕もおそらく長生き。エイラさん家に見合う家格。大金持ちではないけど髪は代々ふさふさ。若くて健康、借金も賭けごとも嫌いです」


 呆然としているエイラをよそにクリスは親指から一本ずつ指を立てながら、すらすらと言葉が滑り出てくる。


「人を度胸試しかなにかと勘違いしていませんか」

「あはは、度胸試し。それもいいですね」


 真面目に言っているのにすこし腹がたって顔をしかめると、クリスはいつになく神妙な面持ちになり身をこごめ、エイラの目線に位置を合わせる。さきほど数えて広がった手先を前後に動かして呼び寄せる動作に、ただならぬ気迫を感じ怖気付く。秘事を知るのは怖い反面、好奇心は頭をもたげる。そんな葛藤に迷いながらエイラは恐る恐る耳をクリスに近づける。その瞬間、頬にやわらかいものが押し当てられ、ついばむ音が耳元で跳ねた。頬を押さえて声にならない悲鳴をあげていると、背をそらせてからりと笑うクリスの声が廊下に響く。


「隙だらけだなあ、もうすこし警戒してくださいよ。そんなだから人につけ入られるんです」

「悪ふざけが過ぎますよ」


 手の甲で頬をこすりながら睨みつけると、クリスはいたずらが成功した子どものように楽しそうに笑いつづけた。笑いの合間におやすみなさいと早口で言って踵を返し、彼は客室へと戻っていった。エイラは急いで部屋に入り鍵をかけ、寝台に頭から飛び込む。いつもなら不快に思う冷え冷えした寝具がいまのエイラには心地よい。心臓の鼓動がうるさく、呼吸も荒すぎてすぐに息苦しくなって顔を外へ出した。頬からの熱が全身に伝導し、ひんやりとした空気ですら激しく脈打つ体を冷やしてくれず、いかに熱があがっているかを教えてくれる。

 明日どんな顔をして会えばいいのか、エイラは何度も寝返りを打つ。冴えてしまった頭を落ち着けようとして、ふとあることを思い出す。金だけが目的ではない者もいる、というのは彼が最初に言った言葉だ。いまさらながら、あの人はなにか目的があってここに来たのではないか、という思いが過ぎる。暴行の機会ならいくらでもあったから、目的はそういった類ではないのだろう。彼は邸中を探索し尽くしているから、金目のものを探している可能性もなくはない。家財道具の一切合切を売り払えばまとまった金額にはなるけれど、そんな努力家な窃盗犯なんて聞いたことがない。それに魔女の家のものだと知れたら、近場では買い手などつかないから遠くまで運ばなければならない。

 では、いったい何者なのか。問い質すべきだと頭は命令を下すのに心が制動をかけるのは、もし彼が何者かを暴いてしまったら、姿を消してしまう気がしたからだ。まるで、昔家に居着いた野良猫に気に入られようと、必死になっておもちゃや餌で気を引いていたあのころを思い出す。

 体は疲れているのに頭は覚醒したまま、エイラは久しぶりに寝付けない長い夜を毛布のなかで過ごした。

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