3
今日は丈短めの喪服に前掛けをして外に出る。この邸はあまりに不便な立地にあるため買い取り手がなく、エイラが譲り受けるまで長いあいだ無人だった。もともと頑丈な作りではあるけれど、それに加えてルディの一族がずっと手入れをしてきてくれたおかげで、これまで大きな修繕が必要になったことはない。これからも邸を良い状態に保つため、建物の見回りは欠かさない。
嵐で荒れてしまった邸のまわりを掃除したり、畑の手入れだけで半日ほど費やす。折れた枝を片付けて、雨水の捌けを確認したり、いつもはルディが徹底的に管理してくれていることを今日はエイラがする。道が塞がれていないか、深い水溜りができていないか、敷地内の建物に被害がないか点検がおわったら、調理場の外で野菜を洗っているセルマを横切り、敷地奥の作業小屋へと向かう。
木造の大きな小屋、鍵のつけていない重い扉をあけて背の高いいつもの椅子に腰掛けた。そこから見える窓の外の景色をぼうっと眺めながら、嵐のまえに収穫しておいた香草を花と葉と茎に分け、それぞれを籠に放り投げる。部位ごとに料理に使ったり茶葉にしたり、種や根は薬に、花は蒸留して精油に、余すとこなく使い切る。手元は見ずにちまちまとやっているから作業は大して進まないけれど、小屋のなかは匂いが充満していて深く呼吸をすると心が安らぐ。
窓に切り抜かれた雲ひとつない青空を見ていると小屋の扉が開き、振り返るとにこりとほほ笑むクリスがいた。今日は自分の服をちゃんと着ている。乱れた髪にひとまわり大きな服を着崩している姿もなかなか似合っていたけれど、髪を整え身頃がぴたりと合った服でいるのも様になると、エイラは感心した。
クリスははじめて入った作業小屋のなかを物珍しそうに見回して、貯蔵してある薬草や蒸留器などの道具を手当たり次第物色している。勝手に大人しい人だと思い込んでいたけれど、邸に滞在することになって、自由にしていいと言ったそばから本当に邸内を隅から隅まで探索していた。
ひととおり見おわったのか、隣の椅子に飛び乗ってエイラの手元をじっと見つめている。
「すごくいい香りですね……あれ? これどこかで嗅いだことあるな、どこでだろう」
彼はエイラの手を掴み、持っていた花に顔を近づけて何度も匂いを嗅ぐ。寄り分けた花の蕾を籠から拾って嗅げばいいのに思いついたらすぐ行動に移してしまう人なのか、気配りと行儀作法のできる青年というのは表面上だけで、実際は好奇心旺盛で案外ずぶとい神経の持ち主らしい。
王都民はこういう距離の近い男女の交流も日常的だと聞いたことがあるから、大都市育ちの彼からするとなにげない普通の行為なのだろう。田舎育ちのエイラにとっては免疫のない行為だけれど、仮にも四度の結婚を繰り返した吸魂の魔女たるもの、手がすこし触れ合ったくらいで乙女のように過剰反応するわけにはいかない。むず痒い気持ちをおさえ、必死に平常心を保つ。
「足の具合はどうですか」
「おかげさまで、痛みはひいてます」
「お医者さまを呼ぶ必要はなさそうですね」
歩き回らないほうがはやく治るのに、暇で話し相手がほしいのか、じっとしていられない性分なのかもしれない。彼はエイラの手元を見やり、香草を摘みあげて見よう見まねで花をちぎり分ける。捻ってちぎり切ればいいだけだけど、彼は力の入れどころを間違えて茎ごとつぶしてしまう。
「簡単そうに見えたけど結構難しい」
「慣れですよ」
クリスは諦めず蕾をちぎり取るのに格闘していた。いじり倒して花びらが綻んでしまったが形が崩れても問題はなく、ただ一枚一枚拾うのが面倒になるだけだ。引き出しから鋏を取り出して渡すと、彼は素直に受け取り花を切り分ける。
「この邸にはずっと住んでいらっしゃるんですか?」
「ここは十五の誕生日に祖母から譲り受けたものです。本来は母が受け取るものでしたが売却しようとしても立地の悪さから売れなくて、私は外観も内装も気に入っていたので権利を譲られました。実際に住みはじめたのは、最初の結婚が駄目になってから」
「駄目に」
なげやりなエイラの言葉じりをまねするように繰り返すクリス。エイラは小屋に立ち込める香草の匂いを吸い込んでから話す。
「最初の結婚は十七のとき、親同士が決めた相手とです。祝宴中に飲みすぎた彼は階段で足を滑らせて、落ちて打ちどころが悪くそのまま帰らぬ人に」
「完全に事故ですね。相手の方とは昔からの知り合いで?」
「祝宴の際にはじめて顔を合わせました。心ないことを言いますが、悲しみに浸れるほどの思い出がありません」
「相手のことを深く知らなかったのは、ある意味幸いでしたね」
エイラの家のほうが家格が高かったから、夫側は格を望み、エイラの家は融資を求めた。野心家の彼にとって結婚は、さらに成り上がるためだけの踏み台でしかなく、妻はあくまでも付属で人の形をしていれば誰でもよくて、最初から興味などなかったらしい。そんな結婚はよくあることだからと特に気にしてはいなかったし、結婚してから夫婦の絆を深めていけばいい話だと思っていた。
しかし死んだとなると周りは妻の反応を求める。夫となるべき人が遠方に住む親戚よりも見たことがなければ、感情など微塵もゆさぶられるわけがないから涙など出ない。そういうわけで夫の死に悲しまず涙を流さない新妻は、周囲からあまりよい印象を持たれなかった。
当時、浴びせられた非情な言葉に驚いたものだが、自分も情がないのは同じだったといまさらながら思い当たり、つい乾いた笑いが漏れた。それがすこしひねくれたような笑い方になって面白かったのか、クリスも一緒になって笑ってくれた。そして彼は話のつづきを待つ子どものように、期待に目を輝かせて何度もエイラを見ている。
「こんな話、面白いですか?」
「不謹慎ですみません」
「かまいませんよ。私だってこんな珍妙な話、笑ってもらえたほうが気が楽です」
この町は古い風習を守り伝統を愛する者が多い。たとえ事故でも人生に何度かしかない幸福の絶頂である吉日に夫が死ぬなど、いわくつきの花嫁の名は瞬く間に広まっていった。出戻ろうにもまだ妹たちが結婚を控えているから不幸を持ち帰るわけにもいかず、この邸にセルマだけ連れて引きこもることにした。
要領を掴めてきたのかクリスの鋏捌きはよくなって、ぱちぱちと切り落とす軽快な音が小屋のなかに響く。小屋のなかの温度はぬるく、分厚い壁が外界の音を遮断しているから風のざわめきすらも届かない。木造の骨組みが立てる音と鋏の音、花と切った茎の部分から広がる新鮮な青草の香りだけが小屋を満たしている。
無言になってしまったけれど、場をつなぐためになにか話さなければ、と焦る気持ちにはならなかった。
「エイラさんの秘密を聞かせてもらったので、代わりに僕のなさけない話を」
静かな空間を邪魔しない、おだやかな声が耳に届く。
「僕は、これまで親元で毎日楽しく暮らしていたんです。親からはよく助言をされていましたが、兄と弟が優秀なおかげで機嫌は悪くなかったし、兄弟の家族とも仲良くやっていたけど、やっぱり僕の行く末が心配だったのでしょうね。兄弟からもまともな仕事につけと延々諭されるようになって、仕方がないので家を出ました」
自由気ままな次男、セルマの言ったとおりだと心のなかでほくそ笑む。クリスはいいように解釈しているようだが第三者からしてみると、自分よりも妻子にちやほやされている地に足つかない次男を程よく厄介払いした感が否めない。しかしクリスの言葉は軽妙で、まるで人ごとのようにどこ吹く風といった様子だから逆境にもへこたれない人なのだろう。
エイラの家族もみんな同情はしてくれているけれど、深く関わりたくはないと思っているはずだ。ひとつ下の妹の結婚を機に両親ともども遠くへ移ってしまい、いまとなっては家族との交流は手紙のみ。それでもまったく寂しさを感じないのは、セルマとルディがいてくれるおかげだ。
クリスにはそんな心の支えになってくれる人がいるのだろうかと、すこしだけ気になった。初対面でも不思議と警戒心が働かない。人の懐に入り込むのが得意なようだから、必死にならなくてもきっと周りが放っておかないだろう。小首をかしげてその長いまつげを瞬かせたら、女性の心を掴むのは容易なのかもしれない。
話を聞いたあとなんの返事もしなかったエイラの顔をのぞきこみ、クリスがつけたすように言う。
「僕の話は面白いところがありませんでしたね。それで、ふたり目の結婚相手は?」
「父より年上のおじさまでした」
さすがに驚いて振り向いたクリスだったが、話した内容は彼をさらに驚かせた。
いわくつきの娘をもらってくれる者などいないだろうと思っていたが、事故のすぐあとだというのにあっさりとエイラへの新しい結婚の申し込みが舞い込んだ。その男は容色に恵まれていたエイラのことを気に入って、継妻にもらいたいとエイラに直接交渉をしてきた。こんな僻地の古邸に引きこもっている娘にも男は丁寧に接してくれて、山のような贈りものに困ったほどだ。
年齢差の開いている結婚などよくあることで、さらにその男が商人として成功し名高かったことから、誰ひとり反対意見を言える者がいなかった。既婚の経歴がついて修道院に入ることすらできなくなった娘にまさかの貰い手がつき、それも贅沢な一生を約束されたとあれば両親は黙って娘を差し出すのが得策だと考えたのだ。
「どんな男だったんですか?」
「髪が薄いせいで年齢よりも見た目は老けて見えましたね。セルマが言うには、商人は頭をよく使うから毛根が焼け切れるのだと」
クリスは弾けるように笑い出し、長机に突っ伏して肩を震わせていた。毛根が焼けるほど頭の回転がいいというのは、褒め言葉にはならないらしい。おそらくセルマもエイラの嫁ぎ先に納得がいかず、嫌みで言ったのだ。
セルマが気に入らなかった相手の男も、何度か結婚を繰り返していたが子どもには恵まれず、若くて健康に問題のない娘を切望していた。子どもができない理由を妻側になすりつけては数回離縁をしていたけれど、何度も同じことが繰り返されれば子を成せない原因は男側にあると誰かは気づいていたはずだ。しかし誰も彼に諫言することができず、そんなときにエイラの話が男の耳に届いた。男には築きあげた地位があったから、子を産めれば妻は誰でもいいというわけではなかっただろう。それなりの家柄で年若く、男の好みに沿った容姿、そしてなにより引け目があること。すべての条件が揃っているエイラ以上の適任者はいなかった。万が一うまくいかなくてふたたび捨てることになったとしても、エイラの家から文句を言われることなく、思いどおりにできると考えていたからだ。これはあとから知ったことだが、男は事前にエイラが前夫から触れられていないかどうかも調査していたらしい。それも決め手のひとつだったと聞かされた。
商人の男は使い勝手のよさそうな若妻が簡単に手に入ったことで浮かれ、誰よりもあったはずの知性を置き去りにした。夫婦ふたりきりで過ごす最初の夜、他国から取り寄せたありとあらゆる強壮薬を過剰摂取し、薬の飲み合わせが悪かったのか、単に年齢を重ねた体に負担が大きすぎたのか、男は発作を起こしてあっけなく逝ってしまった。
事件のあとは役人に囲まれて連日のように尋問された。子どもをほしがっていたのは男のほうなのに、薬の服用を強要したのではないかと責め立てられて、知らぬ間に犯罪を犯していたのではないかという気になるほど執拗だった。しばらく牢にいたことを話すと、「やりすぎだ」とクリスは眉根を寄せて、同情するようなことを言ってくれた。
町の小役人は権威を笠に着て、まるで王様気取りで偉そうに振る舞うから、彼らのことを好きな人などこの世にいない。クリスの言い方があまりに不快そうだったから、人当たりのいい彼ですらもめた経験があるのだろうかと、ふと考えた。
役人の取り調べが長引いたことも相まって、その日を境に、「彼女と結婚する者には死が訪れる」といううわさが町の範囲を越えて広まったのだが、そこまで教える必要はないかと、言いかけて口をつぐんだ。
クリスを見るとすこし前まで見せていた笑顔はすっかり失せていた。こちらを見てはいるけれど、ぼうっとしていて、視点はエイラをすり抜けて遠くを見ているように感じた。
調子に乗って怖がらせすぎただろうかと、椅子から飛び降りて籠を抱え、あえて明るい声で言う。
「もう十分ですよ。お手伝いありがとうございました」
その声にはっとしたクリスが一点を見つめている。さきほどまですり抜けていた焦点が、徐々にエイラの瞳に定まっていくのがわかった。
「今日の空、エイラさんの瞳と同じ色ですよね」
クリスは背中をまるめ、エイラの瞳をのぞきこむ。明るく振る舞う演技はあからさますぎただろうか、クリスに余計な気をつかわせてしまっていると思い、愛想笑いを乗せて適当に相槌を打つ。
「空がそのまま映り込んでいるみたいに、吸い込まれるような透明な空色だ。きれいだな」
青い目を持つ人などたくさんいるし珍しくもないのに、なぜだか彼の言葉はただの社交辞令には聞こえなかった。遠慮をする様子もなくエイラの瞳に見入っているから、跳ねあがりつづける動悸を悟られないよう平静を装う。
これが遊び人たる腕の見せどころなのか、大都市出身だからか、人を褒めるときも言葉を選んだりはしないらしい。セルマも、エイラがくしゃみをしただけで「妖精のささやき」、あくびをすれば「天使の子守唄」などと言って褒めちぎるから、褒められ慣れていると思ったのに、クリスの言葉には素直に嬉しくなった。思わず緩んでしまった顔をうつむかせ、花でいっぱいになった籠を奥に運び込んで小屋での作業を終えた。