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朝食を済ませてふたたび広間へ向かう。セルマはおそらくまだ倉庫で杖を発掘中だろう。巨大な倉庫に保管されているのは糸ぐるまや農機具、揺かごから棺まで、価値はまったくないけれど生活に必要な道具ならなんでも揃っている。祖母から譲り受けたこの邸、前の主は収集癖のある人だったらしく、集めたものがそこに全部詰め込まれていて、セルマがなんでも探し出してくれる。ルディがすべて記憶しているけれど、セルマも最近掃除がてら倉庫の物品管理をするようになった。
広間の扉を叩くとすぐになかから返事が聞こえてきた。
「落ち着かれましたか?」
「なにからなにまでありがとうございます」
なかに入ると青年は立っていて、エイラはそのまま席につき、彼にも座るよう促す。彼は椅子の背もたれを支えに、足をすこし庇いながら腰掛けた。明るい場所で見る色素の薄い瞳は、光を受けて金色に輝く。
目の前に姿勢よく座るクリスと名乗った青年は、もとは遠くに住んでいてつい最近この土地にきたばかりだという。セルマの読みどおり育ちはよく、礼をわきまえているけれどかしこまり過ぎず、過度な上品さを押し付けてきたりもしない。本人は放蕩に身を持ち崩したのち一念発起して家を出たと自嘲しているが笑顔は惜しみなく、昨夜エイラが持った印象どおり人好きのする人だった。
周辺を探索しているうちにこの近辺に迷い込み、嵐にあって帰り道もわからなくなってしまったらしい。屈託のない笑顔を向けてくるクリスは越してきたばかりだから、エイラのこともこの邸のことも知らなくて当然だ。変なうわさが立つ前に彼を町へ帰したほうがいい。
しかし、天候はすぐに回復するとしても足を痛めているから歩いて帰るのは無理だろう。怪我をしていなくても、土地勘のない人がここから町まで、ひとりで歩いて帰れる距離でもない。ルディがいてくれたら荷馬車で町まで送り届けてあげられるのに、彼が戻るにはまだかかるし、祖父の見舞いだから場合によっては帰りは長引くかもしれない。定期的にくる配達人も最近きたばかりだから、次の便は当分先だ。
悶々と考え込んでいると、クリスは申し訳なさそうに口を開く。
「知らなかったとはいえ、偲ぶときに無理やり押しかけて申し訳ありません」
なんのことを言っているのか意味を理解できずにいると、クリスは説明を加えるようにエイラの黒い服に一瞬だけ視線を落とした。飾り気のない機能的な黒一色、略式ではあるがエイラがまとっているのは一応喪服である。
「ああ、そうですね。でも最近のことではないので、どうぞお気遣いなく」胸元に手を当てて首を振る。
「近しい方ですか?」
気にしなくていいと言ったのは本心だけど、今度はずいぶんと踏み込んだことまで訊いてくる。喪服を着ている経緯はとても複雑で、率先して聞かせるほど愉快な話でもないから知らない人にまで説明して不用意に怖がらせたくはない。それにこの地域に住むのなら、いずれ嫌でもエイラのよくないうわさは耳にするだろう。
「夫です。六年ほどまえに」
「深く愛されていたのですね」
語弊が多分に含まれているから、かけられた気遣いの言葉にエイラはぎこちない笑顔しか作れず、クリスは不思議そうに首をかしげた。六年も喪服を着ていれば、普通の人はそういう感想を持つだろう。
十七のときにはじめての結婚を経験してから、黒くない服を着ているときのほうが短い。最初のころは体裁を気にして喪服を着込んでいたが、その期間が長すぎていまでは黒い服以外だと落ち着かなくなっている。
最初の結婚は家同士でまとめた見ず知らずな人との縁談だったけれど、幼いころはそれなりに結婚に対して憧れや希望を持っていた。しかし、愛という夫婦のあいだに湧きあがる情が育まれる前に、いつも夫と呼ぶ存在がいなくなってしまう。それを四度も繰り返していれば、愛どころか夫に抱くべきなにかしらの情など消し炭ほども残っていない。
真っすぐに見つめてくるクリスから目を逸らし、窓の外に目をやった。もっといろんな話がしたいのに、長らく普通の人との会話に慣れていないせいで言葉に詰まり、挙動不審に焦りはじめたころ、ようやくセルマが広間に顔を出し、その手には杖が握られていた。
「お使いになりますか」
「助かります。大したことはないのですぐに痛みは引くとおもいますが、歩くのに少々不自由なので」
そういって裾を引っ張って見せた足首は包帯で固定されていた。森のなかを彷徨っているとき、馬が突然の倒木に驚いて立ちあがり落馬してしまったという。
「嵐に怯えてどこかに逃げてしまったのでしょうね」
「人から借りた馬だったので、どうしたものか」
「それほど遠くまでは行っていないでしょう。この辺の人が持ち主のいる馬を盗むことはまずありませんから、見つけたら誰かが町まで連れて行ってくれますよ」
乗馬に慣らしていないが、うちにも馬はいるから貸すことは構わない。エイラからの手紙を持たせて馬ごと町の商会に渡せば、配達人が次の配達のとき、ついでに馬を連れて帰ってくれるだろう。それを提案しようと思いついた矢先、クリスが先に声をあげた。
「ずうずうしいのは承知ですが、ルディさんが戻るまで、ここにいさせてもらえませんか。野良猫程度の扱いで構いません」
その言葉にエイラは目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、クリスは返事を待たずにつづけた。
「こんな立派な邸に女性ふたりだけではさすがに不用心です。自分のことを棚にあげて言うのもなんですが、悪意のある訪問者だったらおふたりとも今ごろ命はないですよ。なかには金目当てじゃない者だっています」
ひさしぶりの、それも同じ年くらいのまともな来客に、エイラはかなり浮かれていたから、冷や水を浴びせられた気分だった。いままで突然の訪問客などなかったから考えもしなかったが、もし昨夜の客が暴漢であれば扉を開いた瞬間にセルマは無事では済まなかっただろうし、エイラも朝を迎えていないかもしれない。それは確かにそうだけれど、やはりこんなに身なりのいい暴漢はいないと思う。
好きなだけ居てくれて構わない、そう言いたい気持ちをぐっと堪える。エイラたちからすれば居座るのが猫だろうが人間だろうが大して変わらないけれど、ここに居ることを周囲に知られてあとあと害をこうむるのは彼のほうだ。エイラはセルマを見あげると、彼女は無言のままうなずいた。
「ありがたいお申し出ですが、屋根をお貸しするのは足が治るまでとさせてください。あくまでも怪我をされているからです。男性を連れ込んでいるとうわさされるとこちらもいろいろと困りますので、ここに留まったことは町に戻られても他言無用でお願いします」
言いたいことをまとめて言ってくれた侍女の横で、なさけない女主人は得意げに何度もうなずく。これではいったいどちらが邸の主人なのかわかったものではない。そんなエイラに彼はほほ笑みを向ける。
「わかりました。助けていただいたうえに、こちらまで配慮いただき感謝します」
クリスの風評を守るためセルマはあえて迷惑なふりをしたのに、彼はその意図をすべて察したようだった。
セルマが大急ぎで客間をひとつ掃除しているあいだ、エイラはクリスに邸のなかを案内する。案内といっても足を痛めている彼を歩かせるわけにもいかず、廊下に立って指を差しながら適当に説明をした。中庭を囲うように建てられた建物で、クリスの使う客間はエイラの部屋の反対側。ぐるりと回廊に囲われた中庭は本来であれば庭師などを雇って手入れをするべき場所のはずだが、客などこない邸、花など愛でない主人の意向により、庭木や花はすべて取り払われて菜園と化している。邸の奥に納屋や倉庫、厩に窯もあることを口頭で教えた。
どの部屋も鍵はかけていないし入ってもかまわないけれど、使っていないから掃除はしていないし面白いものはなにもないと伝える。エイラ自身もなにがどこにあるかわからないから質問されても答えられないので、なにかあればセルマに訊くようにと加えた。
説明がおわるとクリスがだぶついている服を引っ張ったり腕を広げて大きさを測ろうとしている。
「ルディさん大きな方なんですね」
クリスも平均よりは上背があるようだけれど、ルディは幅も厚みもあって同じ人間とは思えないほど大きく、エイラたちを両脇に軽く抱えられるくらいの怪力自慢だ。考えてみるといままで彼がいたからこの邸の平穏は守られていたのかもしれない。
クリスが体を動かすたびに襟のすきまからはだけた首筋が見えて、妙な色気にあわてて目を逸らす。セルマが洗ってくれたクリスの服が乾くにはまだ時間がかかりそうだ。
「すみません、男物はルディのものしかなくて」
そこまで言ってしまって口をつぐむ。喪服を着て故人を悼んでいるはずなのに、夫のものが一切ないというのはおかしく感じるかもしれない。話せば話すほどちぐはぐになっていくことになる。変にひた隠すのも余計に怪しいし、彼なら感情的にならずに物事を聞いてくれる気がした。
喪服を翻しクリスを見あげ、両手を広げて見せる。
「怖がらせるつもりはないのですが、私は事情がいろいろと複雑でして、数回の結婚と永訣による離縁を繰り返しております。喪服は、着慣れてしまってこれが普段着になっているだけです」
「そうでしたか。お若いのに辛い経験をされたのですね、思い出させてしまって申し訳ない」
「とくに気にはしていないので本当にご心配なく」
たかが二十と数年生きた程度の女からそんな突拍子もない話を聞かされたら疑心を抱きそうなものだが、クリスは疑うでも困惑するでもなく、深く同情するような表情を見せただけだった。
結婚した相手が死ねばそれなりに驚くが、悲しみに打ちひしがれるほど夫たちと関わりを持ってはいなかったから、葬儀のあとは自分でも薄情なのではないかと呆れるほど平然としていた。不幸に見舞われた若き未亡人に対する周囲の同情も、さすがに三回立てつづけとなると薄れをとおり越して警戒されるようになっていたから、純粋すぎるクリスの反応は新鮮だった。
夫たちの死の現場にはかならず目撃者がいてエイラが疑われることはなかったけれど、一度ならず三度までも、さらに四人目は行方知れずとなれば周辺からの不信感が増していくのは当然で、あれこれとうわさされたのち吸魂の魔女という異名をつけられた。言うことを聞かない子どもの寝かしつけにもってこいである魔女が、いま目の前にいる娘だと知ったらクリスはさぞ驚くことだろう。
セルマの呼ぶ声がして彼を部屋へ連れていくと、暖炉にはすでに火が入れてあって室内は暖かくなっていた。上着を着ていなかったせいでもあるが、昨夜の嵐のあと急激に気温が下がったから、案内しているあいだずっと寒くて仕方がなかった。できる侍女を持つ主人は鼻高々に部屋を案内する。
そのできる侍女はクリスに向き合って、主人がしていない説明を付け足していく。食事の時間や薪の場所、風呂や寝具の交換についてなどあらかた話す。クリス本人の希望どおり、客扱いやおもてなしはなし、必要なものがあればセルマが対応をするということで話はおわった。