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屋根瓦を叩きつける雨音、窓を打ち響かせる暴風、自然の合唱を聞きながら邸の主人はなにも書かれていない用箋の前で腕を組みひたすら考え込む。
古い邸だからこそ基礎は強固でちょっとやそっとの嵐くらいではびくともしない。邸の周りには樹木が生い茂り、それも邸が受ける風や雪の被害を最小限にしてくれる。樹木に囲まれ、壁に蔦の這うこの邸には主人と使用人が二人、ときどき配達人が荷物を届けにくるくらいだ。不用心に思えるが、傍から見れば不気味な古邸、そこに住む主人も地域一帯から気味悪がられているから誰も近寄ってはこない。
邸自体は大きく立派なのに主人の行動範囲は狭すぎて、どの部屋になにがあるか本人は把握していない。ほとんどの部屋は扉すら開かれず、以前の主人が置いていた家具や調度品は埃除けの布がかぶされたまま放置されている。客もこず使う必要がないから空き部屋状態のままだ。
暖炉の熱で部屋は十分に温められているけれど、窓際に近づくと体が収縮するほど今日は冷え込む。厚手のストールを肩にかけ直してからペンを握る。家族へ出す手紙なのに言葉が見つからず悩みに悩み抜き、定型のあいさつ文だけを書き込んで、いざ本文に移ろうと思ってもペンがまったく走らない。
雨音に合わせてペンを指揮棒のように宙で振っているところで、金属同士が打ち合う、この夜にそぐわない音が鳴り響いた。耳をすましていると、玄関の扉の叩き金がふたたび激しく音を立てる。どうやら風のせいでも気のせいでもなく、誰かが意志を持って扉を叩いているらしい。しばらくして侍女のセルマが対応している声が聞こえてきた。
部屋の戸口から頭だけ出して話を聞こうとしたけれど、さすがに一番奥の部屋から玄関広間までは距離があり、内容までは聞き取れない。人が訪ねてくるような時間ではないから、セルマも扉越しに話をしている。部屋を出てそろそろと廊下を歩くと、角灯を掲げたセルマが廊下を小走りにやってきた。早寝の彼女はすでに寝床に入っていたのだろう、あわててまとったらしいお仕着せは、いつもきっちりしているセルマにしては珍しく着崩れていた。
「ああエイラ様、男性の来訪者です。道に迷ってこの嵐で立ち往生しているそうで、一晩雨をしのがせてほしいと」
「困ったわね、今はルディがいないから」
この邸で働く唯一の男手であるルディは祖母の家系の使用人で、彼の一族が代々この邸の家守りをしてきた。エイラが住みはじめてからもずっと邸の手入れをしてくれていて、いまは遠くに住んでいる祖父の元へ帰省している最中だった。まわりには頼れそうな民家もなく、いまこの邸にはセルマとエイラのふたりしかいない。
「納屋を使ってもいいかと聞かれたのですけれど、びしょ濡れで震えていらして。それに落馬して馬を逃してしまったらしく、身動きが取れないみたいですね」
彼女は十歳ほど年上だけれど、付き合いは子どものころからと長く気心が知れている。やさしいセルマは何度も玄関を見やり、助けてあげたいという気持ちが顔に書いてあるようだった。このやさしさが仇になっているようなものなのに、とエイラは思いながらセルマを見てうなずく。
「広間に通してあげましょう。セルマは暖炉と湯の用意を」
笑顔になったセルマは飛ぶように廊下を走っていき、エイラは予備の毛布を戸棚から引っ張り出し、小脇に抱えて玄関へ向かう。セルマの勘は鋭いから彼女が心配してあげるくらいの人なら大丈夫かもしれない、しかしもしその勘が外れて粗暴な人だったら、と不安に揺れながら扉をすこしだけ開いたときに目に飛び込んできたその人は、見上げるほど背が高く、とても人好きのする顔立ちをしていた。
安堵の息をついた矢先、扉の隙間を体で押し開くように男が入り込んできた。侵入してきたと思ったらいきなり抱きつかれ、あまりの驚きに叫び声をあげる余裕もない。襲いかかってきたのかと思ったが男の体には力が入っていないのか、抱きつくというよりもたれかかるような感じだった。意識も朦朧としているのか体重が徐々に重くのしかかり、把手にかけていたエイラの手は持ち堪えられず、ずるずると崩れるようにうしろへ倒れ込んだ。幸い抱えていた毛布が緩衝の役割を果たしたが、それでも肘だけはしたたかに打ちつけた。
あまりの痛さに腕を押さえてのたうちまわりたかったが、体を封じられていては身動きすらとれない。男はあやつり糸が切れてしまった人形のようにのしかかり、声をかけても反応がなく体温も感じない。男の頭はエイラの首にうずまっていて表情すら見えず、また死んでしまった、とエイラの全身から血の気が引いていった。男を抱えたまま硬直していると、セルマが戻ってきて鳥のような短い悲鳴をあげた。その声で我に返り、あわてて男の首に指を当てる。
「あ、よかった、生きてる」
しっかりとした脈を確認し、ほっとして四肢から力を抜いた。気が抜けると、男の体重に押しつぶされて余計に肺から息が抜けていく。
「……病気、じゃないですよね」
「やめてよ」
「安心して力尽きてしまったのでしょうか。エイラ様に寄りかかるとは不届きな」
体温を感じないと思ったのは冷雨にさらされて全身が冷えきっているからだった。男の下敷きになっているエイラの服にも雨水が浸透してきて、どれほど体が冷えているのかが伝わってくる。下から抜け出そうと男の体を押しあげてみたがびくともせず、代わりに深く息を吸い込む音が耳元で聞こえた。確かに生きていることを再確認し、助けを求めてセルマに手を伸ばす。彼女に引っ張ってもらいながら男を必死に押しのけて、ようやく体の自由が戻る。
セルマが容赦なく毛ばたきで床に突っ伏している男の頭をはたいてみるも、やはり反応はない。この人をこのまま玄関に放置するには忍びなく、かといって雨水を大量に含んだ衣服で重さも増している完全に脱力した男は、ふたりの力をもってしても運ぶのは無理がある。こんなときルディがいれば、並の男ならその姿を見ただけで逃げ出すほどの大男で、いつもその力を余すことなく発揮している彼なら、軽々と担いでくれただろう。
エイラは毛布のことを思い出し、引っ張っていくことにした。男の横に毛布を敷き、セルマとふたり力を合わせ、掛け声とともに男の体をそのうえに転がす。男を乗せた毛布ごとずるずると床のうえを滑らせて広間まで連れていく。火を入れたばかりの暖炉の前に連れて行き、セルマとふたり、男の顔をのぞきこんで鳩首する。
「顔色がよくないわ。濡れた服のままじゃ、まずいわよね」
「でも、男性の服を脱がすのは、ちょっと……」
「私だって嫌よ。でも放っておいて大丈夫かしら」
したたるほど雨水が染み込んだ上着の裾を指で摘みあげて離すと、べしゃりと音を立てて落ちる。しばしの無言で見つめたあと、嫌がるセルマを説き伏せて、男の上衣や靴を脱がし、下衣は体に毛布をかけて覆い、薄目で見ながらなんとか脱がした。ぜいぜいと息を切らすふたりはあらためて男の顔をのぞきこむ。
追加で薪をくべた暖炉のおかげで部屋はぐんぐんと温まって、水気を拭き取っただけのやわらかく素直な髪はあっというまに乾いた。揺れる暖炉の火に照らされて、健康そうな髪が光を弾いている。
「悪い人だったらどうしよう。手足縛っておいたほうがいい? うちに盗めるものなんてないけど」
「物騒ですが妙案ですね。でもこんなに指先がきれいで、磨いた靴を履いたごろつきないていないですよ。服もそれなりに質のよいものですし、それにこの顔。この顔はいいものだけ食べてぬくぬく育った者の顔です」
なるほど、とエイラはうなずく。セルマに言われて脱がした服をよく見ると、飾り気が一切なく質素なのに、生地も仕立ても良さそうだった。彼女は扉の隙間から服装、手や靴などを一瞬のうちに見て、危険性は低いと判断したらしい。
髪を整えるように撫でつけてみると、きれいに切り揃えられているのもわかった。いまは冷えて青白いが、触れてみると肌は滑らかで艶がいい。
「裕福な家生まれだけど、ただの甘ったれた箱入り息子という感じではなさそうですね。自由気ままな次男というところでしょうか」
「セルマ見て! このまつ毛。長くてふさふさで、きれいに巻きあがってる。これは羨ましい」
「楊枝何本乗りますかね。このまつ毛をまたたかせて、巷の女たちにちやほやされてきたことでしょう」
セルマの分析を鵜呑みにする傾向にあるエイラは、同じ年ごろの迷い人をじっくりながめる。閉じた目を縁取る長いまつ毛、筋の通った鼻に薄い唇。手入れの行き届いた爪、苦労など一度もしたことのない顔に見えてきた。
これだけ体をいじりまわしそばで騒いでいるというのに青年はぴくりとも動かず、寝息だけ立てて起きる様子もない。一晩中見張っているわけにもいかず、広間に書き置きを残し、扉に鍵をかけて寝ることにした。
◇
朝になってもまだ強めの風は吹き荒れていたが雨漏りなども一切ない、いつもどおりの朝を迎える。いつもと同じ顎下から足首まで覆う黒い服に袖を通し、腰まで伸びる黒髪を結いあげ、ひとりで支度を整えたら食堂へ向かう。席につくと同時にセルマができ立ての朝食を目の前に広げてくれる。せわしなく動く彼女とともに揺れるお仕着せは灰色と淡い紅色で、つい最近森の草花を使ってふたりで染めあげたものだ。エイラが黒衣しか着ないから、セルマだけは華やかな色合いでいてほしいというのが主人としての希望である。
のんびりと食事をはじめると、セルマがもうひとつの朝食を抱えて目の前をとおり過ぎていく。ルディはいま留守だし、セルマは誰よりも朝早く起きて先に食事を済ませているから彼女のものではない。ジャムを塗ったパンを食みながらそれを目で追うこと数瞬後、あっ、とエイラは声をあげる。昨夜、あんな騒動があったのに、単調な毎日を送っているせいか、一晩寝ただけで来訪者のことをすっかり忘れていた。
朝食を途中で投げ出し、セルマのあとをついていく。広間の鍵を外しセルマだけなかに入り、エイラは扉の隙間からなかをのぞきこむ。暖炉の前で座っている青年がセルマに深々と頭を下げた。
「夜分遅くに突然押しかけて、本当にご迷惑をおかけしました」
「朝食お持ちしましたけど、たべられますか?」
「お言葉に甘えさせていただきます」
セルマが食事を持ちあげて見せると、よく通る声に笑顔が添えられて返ってきた。ようやく怪しい人ではなさそうだと判断できたエイラも広間に入り、セルマは彼の元へ朝食を運んだ。
侍女のうしろからつづいて入ってきたエイラに気づき、青年はすこし驚いたあとあわてて立ちあがろうとする。昨夜服を脱がしたことを思い出し、急ぎ目を逸らそうとしたが間に合わず、けれども青年はしっかりと服を着ていた。見覚えのあるその服はルディの服だ。彼も上背のある人だから着丈は問題ないけど身幅はかなりだぶついていて、そのせいで妙に細づくりに見えたがまくられた袖からはしっかりと筋肉のついた腕が見える。
彼の周りを見てみると、湯桶や変えの新しい布、救急用具もあった。エイラが部屋に戻ったあと、彼が目を覚ましたときのために、セルマが昨夜のうちに必要なものをすべて用意しておいたのだろう。
セルマはエイラがものごころついたころから家の使用人として働いていて、エイラの思考が読めるかのように先回りしてほしいものはなんでも用意してくれる賢い侍女だった。仕事ができて、気の利く心やさしいセルマが自分の侍女だなんて、なんてもったいないことをしているのだろうといつも思う。セルマとルディには別の奉公先を何度も紹介しているけれど、セルマはかたくなにエイラのそばから離れようとしない。ルディは単純にこの邸の管理が好きなだけかもしれないが、至らない主人の面倒もセルマ同様にとにかくよくみてくれる。実家を出て落ちるところまで落ちた、こんな年端もいかない女主人などに真摯に仕えるふたりの深い情はなにものにも代え難い。
そんな侍女であり、姉であり、親友でもあるセルマは、臆病な主人の代わりに手際よくその場を取り仕切る。
「まずはお食事を先にどうぞ。あとでまたきますから、お話はそのときに」
「お心遣いに感謝します」
青年は足を軽くひきずり朝食を置いた席に腰掛けた。ごゆっくり、それだけ言ってふたりはそそくさと部屋を出る。昨夜ずっと森を馬で走り回っていたのなら腹を空かしているだろうに、ふたりが部屋を離れて扉が完全に閉まるまで、青年は食事に飛び付いたりはしなかった。セルマが言ったとおり彼はそれほど素行の悪い人ではないのかもしれない。
「なかなか立場をわきまえた人でしたね」
「足を痛めたのかしら」
「堂々としていて姿勢もよろしい」
「お医者さまを呼ぼうにも、この天気じゃまだ無理よね」
広間から離れ、セルマは彼の第二印象のよさを、エイラは彼の足の心配を、それぞれが勝手に語る。会話としては成り立っていないがお互いの話はちゃんと聞いているし、昔から彼女とのやりとりはこんな感じだった。
「たしか倉庫に杖があったはずなので、ちょっと行ってきます。エイラ様もいまのうちに朝食を済ませておいてください」
思い立ったらすぐ行動に移す彼女とは廊下で別れ、エイラはほとんど手つかずで放置していた朝食を食べに食堂へ向かった。