銀路の迷い仔
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蜘蛛の仔が目を覚ました時、辺りは闇に包まれていました。
確かに母の子守唄に送られ夢路へ入ったのに、目を覚ました今は、母の気配はありませんでした。
暗闇の中では周りの様子もわからないのです。ねっとりとした暗闇は、生暖かくて母の胎内にいた頃を思い出します。途方に暮れながらも手探りで進むと、指先に何か触れました。
それは細い細い銀色の糸でした。両手で確かめると、母の紡いだ糸によく似てました。
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十一の月になると、月では冬を迎える準備が始まります。
せわしく冬支度を始める月兎たちと競うように、森の景色も変わって行きます。
月にある樹々は、秋から冬の初めまでに、次々に葉の色を変えます。そしてそれは、濃淡を織りまぜた数多の月色なのです。
そして樹々はその葉を落とすと同時に、種子となる実も落とします。
月色グラデーションの落ち葉の影から、木の実を見つけるのが、月兎たちの楽しみでもあります。
ザザッ、ザザザザーーッ
風が森を渡り、枝を揺らし葉を落とします。枝と枯葉が擦れると波の音を想い出します。
月兎たちは、足元の月色の落ち葉の影に木の実を探し、風に揺れる枝の音に耳を澄ませては、いっそう海底を歩いている気分になります。
「ほーい、みんないるかい?」
ぽりん、と白兎が仲間を呼ばわりました。
「ほーい、ほい」
かり、ぽり、ぱりんと、十一兎の月兎が応えました。月兎たちは左右の頬袋に木の実を詰め込んで、風船のように膨らませています。
特に一番小さな月兎の銀兎は、返事をする度に、口元からぽろりと木の実を零しました。
零れた木の実は、めざとい小鳥たちが、我先にと啄ばむのでした。
「いいかい、袋がいっぱいになったらおしまい。残りは森の取り分だからね」
白兎は、麻袋の口からも、自分の頬袋からも、木の実を零す銀兎に向かって言いました。
そして、ポコンと白兎が頭を叩くと、銀兎は慌てて口を開けて、頬袋に詰め込んだ木の実を森に返しました。
他の月兎たちも、銀兎に倣って頬袋はカラにし、パンパンに膨らんだ麻袋だけを背負って、一列になって帰り道を急ぎました。
その時、銀兎の目の前に、ハラハラと不思議な葉が落ちてきました。
それは月色の落ち葉の中で仄かに煌めきました。そっと手に取ると、銀色の葉脈だけになった葉でした。繊細な銀の葉脈は、葉っぱの上の小さな迷路のようです。
「ねえ、白兎、こんな色の葉っぱ、ぼくはじめて」
銀兎は銀の葉が壊れないよう、両の手のひらにそっと乗せて見せました。
「おや、めずらしい。これはツキシロの葉っぱだね」
「ツキシロ? 」
「そう、月で一番古い樹のコトだよ」
「いちばん古いの? ぼく見たい! 」
銀兎は、こんなに綺麗な葉っぱのツキシロの樹ってどんなだろうと、見たくて堪らなくなりました。
「…… ごめん。それは無理かな」
白兎は「ツキシロの樹は月の上を旅している」と言いました。
ずっと前は月の宮の中庭にあったのに、いつの間にか月のあちこちで見るようになった、と言うのです。
「だからね、いま、どこに、あるかわからないんだ」
銀兎はツキシロの葉っぱをじっと見つめて「何か探してるのかな」と呟きました。
十六夜の塔に戻っても、銀兎の心はツキシロの葉に囚われたままでした。
ほかほかの食事をしてても、良い香りの月光花茶を飲んでも、大好物の木の実が爆ぜる音がしても、じっと銀葉脈の葉っぱを眺めているのです。
息をかけたり、光りにかざしたり、そして影を床に映してみたり……
「ほらほら、銀兎。いい加減におしよ」
そう言って寝床に追いやられれば、玻璃の瓶に葉っぱを入れ蓋をし、一緒に眠る気満々です。
その様子に呆れ果てた白兎や他の月兎たちは「これだからチビは」と、ため息交じりに笑いあうのでした。
彷徨うツキシロの樹。あっちこっちそっち、今宵はどこ行くの?
そして小瓶を抱きしめながら、銀兎はすよすよと寝入ってしまいました。
「わぁぁぁーーーーん、ぼくの葉っぱぁーー 」
朝一番に月兎たちを叩き起こしたのは、銀兎の泣き声でした。
なんだなんだ、と寝床から飛び起きた月兎たちは、銀兎の寝床に駆けつけました。
泣きはらした銀兎が握っている小瓶には、銀色でモヤモヤした、綿のような塊があるばかりでした。
「ぼく、ぼ、くの、ひっく、はっぱ、こわれた、ぼく、えっぐ…… ぅぅぅ…… 」
白兎は銀兎の手から瓶を受け取ると、蓋を開け中を確かめました。
「うん、大丈夫だよ、ちゃんと紡げるよ」
「つむぐ?」
「そう、紡いて糸になったら、なにか縫ってあげる。葉っぱの名残に」
そう言って、白兎は糸紡ぎコマで銀色のモヤモヤを紡ぎ始めました。
くるくるとコマを回転させながら、モヤモヤから少しづつ繊維を依って、糸にします。
コマが回転するたびに、糸が軸に巻きつきます。
銀兎はあのツキシロの葉が、形も失ったモヤモヤになって、こうして糸に紡がれるのが不思議でなりません。
糸紡ぎコマと白兎の指が、指揮者がタクトで調べを作り出すように、糸を紡いでいるのです。
目覚めた時の喪失感と悲しみは、糸紡ぎコマの回転とともに嬉しさに変化します。
そして、白兎は器用に糸紡ぎコマを操り続け、とうとうすべてのモヤモヤを、紡ぎ終えました。
出来上がった糸は、ツキシロの葉と同じ銀色で、絹のような光沢もありました。
「銀兎の糸だよ、さて、何を作ろう? 」
「……へへ、キレイだね」
銀兎は耳をへしゃげて言うと「ぼく、このままがいい、糸のままが好き」と、大事そうに糸紡ぎコマごと糸を抱きしめました。
それから銀兎は、いつでもどこでも糸紡ぎコマを持ち歩きました。銀糸を伸ばしたり、巻き取ったり、くるくると糸紡ぎコマを回して遊びました。
その日は朝から木枯らしが吹いていました。
いつものように、塔の庭で糸紡ぎコマを回していた銀兎に、強い向かい風が吹きました。
すると、銀糸がふわりと風に乗り、風の向くまま、長く長ぁく伸びて、終いには糸の先が見えなくなりました。
そんなに長くなかったはずなのに、銀の糸は決して途中で切れたり、尽きたりしませんでした。
風が止むと糸は地面に落ち着きました。しかし、糸を引くと、ふわりと浮いては、また地面に銀の線を引きました。
どんなに銀兎が糸紡ぎコマで、手繰り寄せても、手繰り寄せても、糸は伸びたまま一向に手元に巻き取ることができません。その先端は視界の彼方に、遠くの果てに続いていました。
銀兎は搦めとるのを諦めて、糸紡ぎコマに糸を結んで、十六夜の塔の前に錨のように、立てました。
その夜は朔で月の光も弱く闇が迫っていました。しかし糸紡ぎコマと銀糸の周りだけは、かすかな光を発して銀色の道のようです。そして、それは朝になると、陽を浴びた初霜のキラキラに変わりました。
そして、地面に這っていた糸はピーンと張っています。
糸紡ぎコマがピッピッと糸に引っ張られ揺れています。まるで、魚が餌と啄ばむようでした。
「糸の先に何かいるのかしら? 」
銀兎は、こちらからも同じようにピッピッと糸を引いてみました。
ピーン、ピッピッ、ピピピピーン……
こちらの応えが彼方にも届いたようで、さらに強く糸が引っ張られました。
銀兎も楽しくなって、力まかせに糸紡ぎコマで糸を弾きました。
ピーンピンピン、ピピピィィーーーーン!
その瞬間、パチンっ! と糸が切れてしまいました。
「ああああーー」
切れた糸はファァリと中空に漂い、あちら側に引かれるまま、するすると遠ざかって行きました。
銀兎は呆然として、自分の手に残された糸紡ぎコマと、ちぎれた糸先を見つめました。
その夜、十六夜の塔の灯りが消え闇が深くなると、大きな古い樹が静かに塔に寄り添いました。
昨日まで塔の庭には、アワダチソウが咲くばかりでしたが、今宵は大きな古い樹が彩りを添えています。
この古い樹は、木肌が白く蘇芳色の落葉で根元を飾っています。しかし、枝に残った葉は、銀葉脈の葉っぱでした。
しばらくすると、枝から銀色の糸が垂れ下がり、その先端には小さな小さな仔蜘蛛が、ちょこんと居りました。仔蜘蛛は糸疣から糸を出して地面に降りると、ちょこちょこと十六夜の塔の扉まで来ました。
扉の脇に立ててある糸の切れた糸紡ぎコマに、銀葉脈の葉を数枚、銀の糸で束ねてかけると、またスルスルとツキシロの樹に戻って行きました。
仔蜘蛛が戻ると、ツキシロの樹はサワサワと枝を震わせ、だんだんと幹までをも捩り、折れんばかりに大きく揺れました。
そして、ついには根っこまでモゾモゾと動かし始めました。土の中を、まるで森の枯葉の海を渡るように、ツキシロの樹は進んで行きます。
ゆっくり、ゆうっくり、動くと枝先の銀葉脈の葉っぱも揺れました。
仔蜘蛛もゆうらゆうら揺れながら、最後に少しだけ名残惜しげに、十六夜の塔を振り返りました。
十六夜の塔は星明りに照らされ、銀色に輝いていました。