56 アイリスの涙
「ああ、これか?」
「うんそう、ありがと」
私の呟きと視線に気付いたウィリアムが日記を取ってくれた。
受け取れば相変わらず重いけど、何だかそれは意識のない人間を運ぶ時に重く感じるような、そんな不安を誘われる重さだった。
「あ、綺麗になってる。もしかしてあなたがやってくれたの?」
私の血が付着しているはずの日記はそんな形跡なんて微塵もない。ウィリアムは「まあな」と肯定してくれた。
「ありかとう。血だし乾いてこびり付いてただろうからちゃんと綺麗になるか正直諦めてた部分もあったけど、以前よりも綺麗になったんじゃないこれ、ふふっすごい。日記も喜んだで……」
最後は曖昧に言葉を切って薄い笑みを口元に私は改めて日記を見つめ下ろした。チビ不死鳥が気を利かせて膝の上を日記に譲ってくれたから遠慮なく置いて、私は物言わぬ日記をパラパラとめくる。
日記の中身にこれと言った明確な破損なんかはなさそうだった。白紙ページも一応パラパラしてみたけど異常なし。
なのに、日記は動かない。
「ねえあの確認したいんだけど、ウィリアムはこの日記が喋るって知ってるのよね……?」
「ああ。昨日はそれが動いて色々と大事な内容を話してくれたから、君を助けられた」
昨日。そう言えばまた何日も寝てたんじゃなくて良かったわ。
「言っておくと、話を聞いたニコルが血相を変えてこれでもかって程に急かしてきたから間に合ったんだ。俺は俺で急いでいるつもりだったが、ニコルからすればその鳥みたいに目を逆三角にして駄目出しするくらいは俺がもたもたして見えたらしい。ニコルは君のこととなると良くも悪くも本当に人が変わるよな」
「へ、へえ……」
ニコルちゃんにそんな強気な一面が。でも彼女に大感謝だわ。
そんな彼女は現在本邸の方に居て、有難くも屋敷に戻ってきた皆に現状を説明してくれているみたい。ホントなら私が出てってそうしなきゃいけないのにね。
それにしても、ウィリアムの話を聞いて改めて人生のタイミングの紙一重さを実感したわ。だってもしニコルちゃんが彼の尻を叩かず間に合っていなかったら、きっと私は棺桶の住人だった。
「でもだったらどうして日記ってばただの日記のふりなんてしてるのかしら。ウィリアムの前で演技する必要はもうないはずなのに。あ、鳥さんの前だから?」
するとチビ鳥は違う違うって頭を振った。日記が喋るって知ってるのね。まあ下手に隠し立てしなくていいのは良かったわ。
私が表紙を指で突っついて促しても日記はうんともすんとも言わない。
「面倒だからって狸寝入りしてるの? 折角の感動の再会なのよ、眠くても起きなさいよ。ねえってば」
次にペシペシと手で叩いてみたけど、反応はない。
「ホント早く起きなさいよ。いい加減にしないと怒るわよ?」
今度は両手で持って筋トレ……なんてやってる場合でもない私は、ただ上下に日記を振ってみた。ああこれ二の腕のたるみに効きそう……って違う違う。
「おーい、起きないと私が徒然なるままに落書きしちゃうわよ~? いいの~ねえ~?」
ウィリアムが止めるべきかどうか迷うような眼差しを送ってくるし、チビ鳥は気遣うような目をしている。何度声を掛けても無反応で、もうさすがに苦笑いも出て来ない私はある歓迎できない答えに行き着いていた。
「まさか、私の前以外で喋るのは禁忌だったの? 私の窮地を救うためにその禁を破ったから、だからもう喋らない日記になっちゃったの?」
一度冗談でそんな風な事を考えもしたけど、でもまさか現実になるなんて思わないでしょ。
両腕が疲れたってのもあったけど、私は日記ごと両手をだらりと膝の上に放り出すようにした。黙って見つめ下ろしたけど、やっぱり日記は沈黙している。
「……本当に、そうなの? 禁止事項だったの? ねえ、何とか言ったらどうなの? ねえってば!」
責めるように、それでいて起きろって願いを込めて、ポカリポカリと立てた拳を日記に振り下ろした。
「この馬鹿たれ日記、アホ、間抜け……っ――喋ってよ!」
見かねたのか、ウィリアムが私から日記を取り上げた。それでいて俯く私を気遣うように覗き込んでくる。
「もうそれくらいにしておけ。手を痛め…――」
ハッとした彼の目の前で、パタパタと、握り締めた拳や毛布の上に滴が落ちた。
何粒も何粒も何粒も。
「アイリス……」
ウィリアムの控えめな呼び声に促されるように顔を上げた私は、声もなくただ滂沱と涙を流していた。
表情らしい表情も作れなくてそのままに、涙だけが頬を伝う。
「ウィリアム……私、日記に、もう会えないの……?」
それきり何も言えなくて、瞬きも必要ないくらいに涙が次から次と溢れてきて、どうしようもなかった。
きっといきなりの泣き顔に驚いたんだと思う。
向こうもどこか途方に暮れたような顔をしていた。
日記の自己中! 薄情者! もうお喋りできないなんて、そんなのあんまりよ!
私のNPCなんだし、居なくなるなんて考えもしなかった。
涙に濡れた双眸で今は彼の手の中の日記を見つめる。
「私がこんなに泣いてるのに、やっぱり何も言わないのね。酷い日記だわホント。大馬鹿薄情日記。私の前以外で喋ったら駄目なら、そうだってもっと早く教えといてよっ」
ああ鼻水まで一緒に出てきてみっともないわーこれ。
でもウィリアムの前では今更だし無理に我慢する必要を感じなかった。まあそうは言っても私にだってまだ自尊心とか恥じらいはあるから、俯いてブサ顔を極力晒さないようにはしたけど。
鼻を啜ってひっくひっくと痙攣するような嗚咽を漏らす。
ウィリアムは静かにベッドの上に日記を置いた。
「もう泣くなアイリス。泣く必要はないんだ」
……どういう意味?
小さな子供の世話でもするように、手を伸ばした彼から涙をパッパッと指の腹で払われる。更には親指の付け根辺りで頬をぐいっと擦られて思わず抗議の声を上げていた。
「ちょっとーッ普通は紳士的にハンカチとかで優しく拭わない?」
「君を口説く時にはそうする」
「なッ」
真面目な顔でさらっとこんな台詞を吐くからこの男ってば厄介なのよ!
ドキッとしちゃったじゃないの!
でも今はそうじゃないって事?
はあ、とウィリアムが溜息を落とした。
「悪い。そんな風に君に泣かれるとは思わなかったから」
まだ少し残っていた私の涙をやっぱり親指の腹で拭ってから、ウィリアムは暫しじっと私の様子を眺めもう大丈夫そうだとわかると、打って代わって温度のない視線で日記を見下ろした。
「意趣返しに付き合えって頼むから口を挟まないでいたが、こうなるなら応じるんじゃなかった。――もう起きたらどうだ?」
へ? 彼も日記はただ寝てるって思ってるの? それとももしかして魔法で何かするつもりとか? でもこの日記の意識は神様が遣わしたものなんだろうし、魔法で日記の意識を復活させられるとは思えない。
日記には全然反応らしい反応もない。でもこの人が何らかの確信なしに起きろとか言うとも思えない。ええと本当にどういう状況?
「いい加減起きないと、燃やすぞ? ――そいつが」
ウィリアムが目顔で促せば、チビ鳥が小さな口から炎を吐いて発奮してみせた。
あらこの二者今度は息が合うみたい。よくわからない関係ねー……なんて思っていた私は次の瞬間目を疑った。
「ボ、ボク目がギンギンに冴えちゃった~!」
だってだって、日記が喋ってむくりと起き上がったんだもの!
「いやん、ウィリアムってばそんな怖い顔しないでよ、冗談じゃないのさ~」
「日記、あなた、生きてたの……?」
生きてたなんて生物でもない日記に対しておかしな表現だけど、それが今は一番しっくりくる言葉だった。日記はふわっと浮かび上がると相変わらずの楽しい顔でウインクする。
「勿論だよアイリス~。何てったってボクは君のためのアイリス日記なんだから。変な話君が死なない限りはボクも健在だよ~。君に馬車の中に不意打ちで置いてかれて、ボクのためだってのはわかってたけど本当は一緒に連れてって欲しかったからちょっと仕返し~って思ったんだよ。でも……ごめんね?」
「そうだったの……何だ、そうなのね……そう…………良かった」
日記がピンピンしている姿を見たら嬉しくて、新たな涙が込み上げてきた。
折角拭ってもらったのに無駄になったけど、ウィリアムは不満を浮かべるでもなく浮遊していた日記を捕まえて私に差し出してくれて、しかも無理に泣くなとは言わず私がしたいようにさせてくれた。
「もうこの馬鹿日記、心配させないでよ!」
ぎゅっと私の胸に抱かれた日記も、予想外に私が泣いちゃったからか気まずさと神妙さが混ざったような面持ちで囚人みたいに大人しくなってたわ。ちょっとざまあみろよ。
そう溜飲を下げつつも反省した。私も日記の立場だったら拗ねたもの。きっと日記の事だけじゃなく、この一連でずっと抱えてた感情も涙って形になって出てきたんだと思う。
だって本当に死にそうで怖かったし、自分の無力が悔しかったし、皆の優しさに感動もしたし、無事で安堵もした。
そうやって私は先よりも長く泣いてしまった。
しばらくしてようやく気持ちも落ち着いて、そうすればちょっとは冷静に物を考えられるようになった私は、今度は胡乱な目でウィリアムを見やった。
沸々と沸き上がるものがある。
「ねえウィリアム、あなたはつまり日記が私にドッキリ仕掛けるってわかってたのよね」
「……まあ、そうだな」
彼は視線を外し、彼にしては珍しくたらりと変な汗を滲ませた。
「鳥さんも?」
笑顔で問えば、彼同様に変な汗を浮かせてぎくりとした様子から答えは明明白白。
「こんな時に皆して、よくも不謹慎でふざけた真似をしてくれたわよね。諸々の助力は本っ当に感謝してるわ。だけど、それとこれとは別よ」
「「「…………」」」
不穏な怒気を放つ私を皆は固唾を呑むようにして見据えてくる。
「――――出てって」
ビシッと部屋の入口を指差して、泣いて赤くなってるだろう目を吊り上げた私の厳命に、三者は潔く従った。
来客を告げるノックが聞こえたのはちょうどそんな時だった。




