1章 5話 百瀬 桃音(ももせ ももね)
自室に帰ってきた。
六畳で、小さなキッチンとクローゼット、そしてユニットバスがある。
室内はテレビ、ローテーブル、ベッド、本棚、衣装ケースを置くと、もういっぱいになる。
勘違いを恐れて言うと、この部屋に不満はない。
それどころか、高ニの一人暮らしには充分過ぎるとさえ思っている。
鞄を適当に放り、上着を脱いでいると玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、ミディアムくらいの長さのゆるふわヘアーの女性が立っていた。
百瀬 桃音。
美志緒先輩と同じく上級生生で、高三とは思えない豊かな体つきだ。
可愛らしい部屋着に身を包んだ桃音さんは、聖母のような柔和な微笑を湛え、
「お邪魔してもいい?」
俺が「どうぞ」と部屋に通すと、桃音さんは慣れた様子でテーブルの側に腰掛けた。
桃音さんの方が早く帰ってきた日は、俺の帰宅に合わせて来訪する。
いつも良いタイミングで来るので、不思議に思って聞いたことがある。
すると、桃音さんは穏やかに微笑みながら、「音で分かるのよ」と言った。
桃音さんの部屋は二階の最奥、つまり俺の部屋の隣だ。
だから外廊下に響く足音と、隣室のドアの開閉音で俺が帰ってきたことを察知しているらしい。
キッチンで紅茶とコーヒーを淹れる。
そして、テーブルに運び、紅茶の入ったカップを桃音さんの前に置く。
紅茶はパックのもので買い置きしてある。
俺はコーヒーしか飲まないから、稀に来客用になることもあるが、これは桃音さん用と言っていい。
桃音さんはカップの縁で指をなぞりながら、
「たまに美志緒ちゃんと掃除してるわよね」
俺は桃音さんの向かいに座りつつ、
「気づいてるなら、手伝いに来てくださいよ」
「二人の時間を邪魔しちゃ悪いと思って」
含みのある言い方だ。
桃音さんがおもむろにカップを上げ、優雅に紅茶を啜る。
カップに口を付けるとき、目蓋が伏せられると同時に、蝶の触覚のように長く、蠱惑的なカーブを描くまつ毛が下りてくる。
カップをテーブルに置く。
僅かに濡れた薄桃色の唇と、開けられた両目に上のまつ毛にかかる前髪。
どの瞬間を切り取っても絵になる人だ。
桃音さんは演劇部に所属していて、エースとして活躍しているそうだ。
類稀なる器量を持つ桃音さんが、舞台の一番輝く場所にいるわけだから、同性からも異性からも絶大な人気を誇っている。
俺も出会って間もない頃は、顔を合わせるだけで緊張した。
今日のように部活動がない日や休日に、こうしてお茶を飲むうちに当初ほど緊張しなくなったが、それでもふとした瞬間に目を奪われてしまうことがある。
桃音さんは紅茶に視線を落とし、
「帰りが遅かったけど、美志緒ちゃんとのお掃除とは別に、何かしてたの?」
トラックに轢かれかけたが、箒に乗って飛行する銀髪の少女に助けてもらった、なんて言っても信じてもらえないだろう。桃音さんに限らず、誰に話しても揶揄されるのがオチだ。
美志緒先輩の場合。
「疲れてるのか? しっかり睡眠をとるんだぞ」
桃音さんの場合。
「猛丸くんにしてはおもしろい冗談ね」
火々野の場合。
「外ではもうあたしに話しかけんなよ。アパートでは挨拶くらいならしてやるから」
石動の場合。
「現実と夢が混同しているようですね。人生思い通りにならないことも多いとは思いますが、頑張って生きてください」
酷く言われることが容易に想像できる。
「帰りに火々野と石動に会ったんです」
「響ちゃんと伊織ちゃん?」
「何となくいつもとは違う帰り道を帰ったんですけど、公園にいた火々野と野良猫にエサをあげて、その後本屋で買い物をしてる石動を見かけたんで、その本屋に入りました。それで帰りが遅かったんですよ」
嘘はついていない。
本当のことばかりだ。
「二人とも仲良くしてるのね」
桃音さんは柔らかく微笑んだ。
「あの、そうなふうに意味ありげに言うのやめてくださいよ」
「私は普通に話してるつもりだけど? 何か違和感を覚えるのなら、それは猛丸くんに疚しいことがあるからじゃない?」
「そんなものありませんよ。からかわないでくださいって話です」
余裕たっぷりに答える桃音さんに、俺は毎度四苦八苦させられてしまう。
桃音さんにとって俺をからかうことは、ほとんど日課のようなものになっている。
故意に気を持たせるような言動をして、焦ったり慌てたりする俺の反応を見て楽しんでいるのだ。
それが分かっているにも関わらず、毎回桃音さんの演技に惑わされてしまう。
「猛丸くんが淹れてくれた紅茶、とても美味しいわ」
そう言って桃音さんが微笑む度に、俺は――もしかして――と、もう何百回も去来した思い上がりに頭を悩ませるのだ。
ゆるふわ妖艶先輩。
恥ずかしいことに、描写の量と手の掛け方で、各キャラへの愛が分かってしまう。