5章 7話 ストーカー
慎重に近付くと、ドアがわずかに開いている。
その隙間から中の様子を窺おうとするが、見える範囲が狭すぎる。
何となく、雑然としているということしか分からない。
少しだけ、ドアを開けるしかない。
そっとドアノブを掴む。
その冷たささえも気味が悪く、手を離した後も、ずっと感触が皮膚に張り付いていそうだ。
恐る恐るドアをほんの少し開け、倉庫内を見た。
俺は視界に映った風景に、背筋が凍った。
ロープで体を縛られ、ガムテープで口を塞がれた桃音さんがいた。
そして、そのすぐそばに、俺と同年代くらいの男がいる。
恐怖と怒りが、俺の体を駆け抜けた。
早く助けないと。
でも凶器を持っていたら?
男を下手に刺激しない方がいいかも。
誰かを呼びに。
警察に電話を。
それじゃ遅い?
男が目を離した隙きをついて。
瞬間的にいろいろな考えが、頭の中で錯綜する。
しかし、気がつくと、俺はドアを勢い良く開けていた。
体が勝手に動いてしまったのだ。
男が俺の方に顔を向ける。
桃音さんも驚いた顔で、俺を見ている。
「桃音さんに何してんだ、この野郎!」
怒鳴りながら、倉庫の中に入っていく。
すると、男は慌てた様子で桃音さんの後ろに回り、細い肩を乱暴に掴んだ。
「う、動くな! 動いたら、どうなっても知らないぞ」
上擦った声から、錯乱しているのが分かる。
男は目を血走らせて、俺を睨んだ。
「お前、谷河だろ」
「なんで俺の名前を知ってる?」
俺はこいつのことを知らない。
少なくとも、俺には犯罪者の知り合いはいない。
忘れているだけで、どこかで会っているのだろうか。
「うるせーよ!」
何か癪に障ることがあったのか、怒声を上げた。
「お前、誰なんだよ。なんで桃音さんにこんなことするんだ」
「どうせお前には、僕の気持ちが分からないだろ!」
激昂する男は、続けざまに口を開いた。
「僕は百瀬先輩にずっと憧れていたんだ。でも、人気者の先輩に声なんか掛けられなくて、遠くから見てるだけだった。それをお前は当たり前のように側にいて、楽しそうに喋りやがって。ここ一週間で、お前と先輩は一緒に帰り始めただろ。それで確信したんだよ。二人が上手くいってるって。お前には分からないだろ。他の男と一緒に帰る、憧れの人の後ろ姿を見る僕の気持ちなんて」
男は間断なく喋り続け、ようやく口を閉じた。
桃音さんが感じていた視線は、本当はこの男のものだったんだ。
俺達はシルヴィアの監視が原因であり、不審者などいなかったのだと安心していたが、そうじゃなかった。
皮肉にも、桃音さんが夜の帰り道は怖いからと、俺に迎えを頼んだことで、この男が大いなる勘違いをし、そのせいで彼の嫉妬心を煽ってしまい、結果としてこの事態を招いたというわけだ。
再び男が、大きな声を出す。
「それにお前は、他の女ともイチャイチャしやがって。僕なら先輩のことだけを考えるのに! 先輩さえいてくれれば、他には何もいらないんだ!」
「――ふざけんじゃねーよ!」
俺は大音声で怒鳴った。
体を震わせた男に、言ってやる。
「本当に桃音さんのことを想うなら、桃音さんが大事にしてる舞台の邪魔になるようなことするんじゃねーよ! お前は結局、自分のことが大事で、自分のことしか考えてねーんだ」
男は何も言い返してこない。
しかし、やがて無言のまま、落ちていた一メートルほどの角材を拾い上げた。
その顔からは表情が消えていて、焦点の合わない目だけが揺れている。
この後の彼の行動を想像するのは簡単だ。
俺は周りを見回すが、武器になりそうなものはない。
男が奇声を上げて、ついに襲い掛かってくる。
俺の運動神経では、攻撃を躱し続けるのは無理だ。
喧嘩慣れしてるわけでもないし。
仮に最初の一撃を回避できたとしても、都合よく何回もは続かないだろう。
隙きを見て武器を奪うしかないが、相手の攻撃の当たりどころによっては、俺は動きを止められてしまう恐れもある。
どう考えても、まったくの無傷でこの場を収めるのは不可能だ。
覚悟を決めよう。左腕を楯に攻撃を防ぎ、角材を奪う。これしかない。
腕一本で済めばいいけど、と頭の隅で思いながら決心した。
男が角材を振り上げ、眼前に迫る。
俺は体に力を込めた。
――突然、男が転倒した。
男の両足が、光の輪できつく締め付けられている。
カレンの魔法だ。
振り返ると、カレンが男に向かって右手をかざしていた。
男は何が起きたか分からず、陸に打ち上げられた魚のように、激しく暴れている。
そうだ、桃音さん!
急いで桃音さんの元へ駆け寄り、慎重にガムテープを剥がし、ロープを解いた。
「桃音さん、大丈夫ですか?」
桃音さんは「猛丸くん!」と叫び、俺に抱きついた。
「痛いところとかありますか?」
そう尋ねると、桃音さんは俺の胸に顔を埋めたまま、頭を振った。
俺は安堵のため息をつく。
とりあえずは安心だ。
カレンの方に首だけ向け、
「カレン、助かったよ。ありがとうな」
「うん。それよりも、桃音はどうなの?」
「大丈夫そうだ」
カレンは胸を撫で下ろしたが、その表情に陰りがさした。
「でも、お芝居は……」
カレンの言葉はそこで途切れた。
言おうとしたことは分かる。
今回の舞台は諦めたほうがいい。
俺もそう思う。
さすがにこんなことがあった後では、精神的に難しいだろうし、それに今は痛みがなくても、時間が経ってから何か異変が起こるかも知れない。
桃音さんが俺から身を離し、おもむろに立ち上がる。
「――行くわ」
その一言に、俺もカレンも目を丸くした。
俺は説得を試みる。
「無理は良くないですよ。今回は残念ですけど、演劇部の人達に事情を説明して、」
そこまで言って、俺は口を噤んだ。
俺をまっすぐに見据える、桃音さんのその眼差しに、強い決意が宿っていたからだ。
そして、俺がどれだけ言葉を尽くしても、もう桃音さんの心を変えることはできないと分かってしまった。
時計を見ると、もう間もなく開演の時間だった。
「桃音さん、急いで戻りましょう。今ならまだギリギリ間に合います」
カレンが目を白黒させる。
「え? 桃音をお芝居に行かせるの?」
「あぁ。この人はもう俺の言うことなんか聞かないよ」
俺は桃音さんを見やり、
「その代わり、少しでも具合が悪くなったら、すぐに降板してください。いいですね」
水を向けると、桃音さんは柔和に微笑んだ。
「分かったわ。ありがとう」
カレンはもう反対する素振りを見せない。
「そういうことなら、私も賛成するよ」
俺は倒れている男のところへ行き、ロープで縛り、暴れられなくした。
そして、カレンに、
「足の魔法解いて、歩けるようにしてやってくれ。俺がこれからこいつを警察に突き出してくるから」
「猛丸は桃音のお芝居観ないの?」
「さすがに、こいつをこのままにしておくわけにはいかないだろう。カレンは桃音さんを頼むよ。桃音さんの様子がちょっとでもおかしくなったら、無理矢理にでも舞台から引きずり下ろしてくれ」
「分かったよ。猛丸、気をつけてね」
カレンに頷き返してから、男を立ち上がらせ、先に倉庫を出る。
桃音さんの顔は見られなかった。
――舞台の本番、観に来てよ。
――本当? やった! 約束だからね。
無邪気に笑う桃音さんの姿が、頭の中で繰り返し再生される。
ラノベを書いているときは、心が落ち着く。