5章 4話 視線
俺は急いで桃音さんを近くのベンチに寝かせ、鞄から小瓶に入った錠剤とペットボトルの水を取り出した。
桃音さん、何かの病気なのか。
全然知らなかった。
そんなこと聞いたことがなかったし、素振りもなかった。
薬と水を渡そうとすると、桃音さんは小さく首を横に振り、
「……一人じゃ飲めないから、口移しでお願い」
「く、口移しっ?」
俺は声を裏返らせた。
口移しって、つまり桃音さんとキスするってことか。
いや、もちろん薬の服用の介助としてだってことは分かってるけど。
「水も飲めないって、じゃあ救急車とか呼ばないと」
「スマホなんて……、持ってきてないでしょ。……大丈夫。それを飲めば、すぐ収まるから」
桃音さんはそれだけ言うと、口を閉ざしてしまった。
どうする?
どうすればいい?
いや、それは口移しするしかないんだが。
……いいのか?
桃音さんを見ると、眉間に皺を寄せ、苦しそうに顔をしかめている。
こんな桃音さん、見ていられない。
俺は震える手で、小瓶を傾け、錠剤を慎重に出す。
これに桃音さんの命がかかっていると思うと、手の震えがさらに大きくなった。
何とか出せた錠剤を摘み、桃音さんの薄く開いた唇から、口の中に滑り込ませる。
俺はペットボトルの水を口に含み、いよいよ口移しをする。
顔を近づけていく。
こんなにまじまじと桃音さんの顔を見たことはない。
蝶の触覚のような長いまつげに驚きながら、桜の花びらのようなその唇を見据える。
あと少し。
何となくそうしないといけないような気がして、目を瞑る。
そして、ついに唇が触れた。
柔らかく、暖かな感触が伝わってくる。
桃音さんとキスしてしまった。
しかし、もちろんこれで終わりじゃない。
水を含ませようとすると、唇が何かに摘まれ、開くのを邪魔された。
おかしい、まさかと思い、ゆっくりと目を開けると、桃音さんとばっちり目が合った。
顔を離していくと、桃音さんのしなやかな指が、俺の唇をしっかりと摘んでいることが分かった。
行き場を失った水を飲み込むと、桃音さんはようやく放してくれた。
「……どういうことですか?」
間抜けな声を出す俺を見て、桃音さんが小さく噴き出した。
「お芝居に決まってるじゃない」
「あんなに苦しそうだったのに?」
桃音さんは軽やかに起き上がり、
「ちょっと本気出しちゃった」
「え、いや、あの薬は?」
「ただのラムネよ。部屋にあった瓶に詰め替えただけ」
……全部、演技だったのか。
俺はずっと、桃音さんの掌の上で踊っていたというわけだ。
「俺をからかうためだけに、わざわざこんな手間をかけたんですか」
「お芝居の練習をしたかったのは本当よ。だけど、それだけじゃつまらないと思って、私なりにいろいろ考えた結果、こうなったの」
呆然とする俺を見て、桃音さんが少し眉をひそめた。
「ちょっとやりすぎちゃった? ごめんなさいね」
「いえ、お役に立てたのなら、良かったです。これで少しは自信がつきましたか?」
皮肉混じりに聞くと、
「ええ。ありがとう」
そう答えて微笑んだ桃音さんの表情が、その直後かすかに曇った。
何か別の不安があるのが、垣間見える。
「あの、何か隠してます?」
「ごめんなさい。私って本当にずるいから」
俺は意味が分からず、桃音さんの次の言葉を待った。すると、
「猛丸くんの言う通りよ。わざと心配させるように疲れた顔を見せて、猛丸くんの方から声をかけさせて……自分でやっておいて、やっぱり嫌になるわね。私は本当にずるい人間だわ」
桃音さんは自嘲めいた笑みを零した。
俺はかぶりを振る
「教えてください。何があったんですか」
少し間を置いてから、桃音さんは口を開く。
「視線を感じるの」
「それってホラー的な意味ですか?」
「そうじゃないわ。最近練習の帰りに、誰かに見られてる気がするの」
「それって、ストーカーってことですか。しかも、俺といるときじゃないですか」
俺は思わず語気を強め、
「何のために俺が迎えに行ってるんですか。それじゃ意味ないでしょう。なんで今まで言わなかったんですか?」
桃音さんは申し訳なさそうに、目を伏せる。
「あくまで気がするってだけで、勘違いかも知れなかったし。それに無理言って迎えに来てもらってるから、これ以上わがまま言うのはって思ってたの。なるべく考えないようにしてたんだけど、舞台の本番が近づくに連れて、お芝居に集中できなくなってきちゃって」
なんで肝心なところで遠慮するかな、この人は。
「警察とかに行った方がいいんじゃないですか」
「舞台が終わるまでは、お芝居に集中したいの」
確かに、今警察に行ったら、舞台の本番に影響が出てしまうだろう。
「とりあえず、早く帰りましょう。そんな話聞いて、こんな時間に外に出しておけませんよ」
俺は少し強引に桃音さんの手を引いて、歩き出した。
「明日も送り迎えしますよ」
今日の帰りに、明日は学校での練習になるから、迎えに来なくてもいいと言われたが、もう一人でなんか帰らせられない。
手を引かれる桃音さんが、小さく「ありがとう」と言ったのが聞こえた。
クロユリ荘に着くと、俺の部屋の前にカレンがいた。
「おかえり。ちょうど良かった。一緒にお菓子食べようと思って来たんだけど、猛丸いなかったから。桃音とどこ行ってたの?」
「そこの公園で、桃音さんの芝居の練習してたんだよ」
カレンが瞳を輝かせて、桃音さんを見た。
「お芝居ってさ、どんな感じ?」
カレンは桃音さんのやってる演劇に興味があるようで、俺が桃音さんを迎えに行った初日の夜、芝居の内容や練習の様子を聞かれた。
桃音さんの部屋に突入する勢いだったので、俺がスマホで確認すると、カレンならということで、俺は知っている情報を教えた。
そうしたら、今度は私も練習してるところを観てみたい、と迫られ、また桃音さんに確認した。
桃音さんからは、本番観に来てと伝えるよう言われ、その通りにすると、カレンは残念そうながらも、納得していた。
ここ数日はその話題に触れてこなかったが、桃音さんに会い、そのタイミングでお芝居の練習と聞いたことで、カレンの中に潜んでいた好奇心が再燃してしまったようだ。
そうだ。
カレンの魔法で、桃音さんを守ってもらうのはどうだろう。
危なかったしいところもあるけど、随分助けられてきたのは事実だ。
しかし、それはカレンを危険なことに巻き込むということでもある。
言うべきかどうか考え込んでいると、カレンが小首を傾げた。
「難しい顔してどうしたの? 何かあった?」
言うだけ言ってみようか。
情けない話だが、俺一人で桃音さんを守りきれるかどうか分からないし。
「実は、桃音さんがストーカーに狙われているかも知れないんだ。舞台の本番に集中したいから、終わるまでは警察には行けない。だけど俺一人じゃ役者不足だろうし、カレンにも力を貸してほしいんだ。でも、それだとカレンも危険な目に遭わせちまうかも知れないし」
カレンは最初驚いた様子だったが、すぐに笑顔を作った。
「私も桃音のこと、守るよ」
「いいの?」
すかさず桃音さんが尋ねると、カレンは大きく頷く。
「もちろんだよ。桃音はクロユリ荘の大事な仲間だからね」
「カレンちゃん、ありがとう」
こうして、俺とカレンで、桃音さんを護衛することになった。
こうやって、自分が書いたものを発表できるプラットホームがあって良かったよね。