3章 8話 噴水公園
開けた場所に出ると、その中心部に噴水が見えた。
大きな池の真ん中に設置され、直上へ向けて勢い良く水が噴き上がっている。
デートスポットになっているようで、大勢の若い男女がいた。
その中に、不安そうな表情をしている石動の姿があった。
俺を見つけると、目を見開き、駆けてくる。
俺も駈け出し、ついに俺達は会うことができた。
「悪い、ギリギリになって。カレンはそこまで来てるんだが、」
「猛丸くん!」
石動は俺の言葉を遮るように叫び、噴水を指差した。
つられてそちらを見ると、薄暗くなり始めた世界の中で、ちょうどイルミネーションが一斉に点灯した。
放射状に落下する噴水の水が、電飾の強い光を浴び、きらびやかな輝きを放っている。
それは永遠に続くように思われたが、やがて噴水が止まることで、世界から消滅した。
時間にすれば三十秒ほどだったが、現れた瞬間から圧倒され、ようやく余韻から開放された。
「驚きました?」
石動が静かに聞いてきた。
噴水は七時までで、その後にイルミネーションが点灯すると思っていたから、まったく想像にない光景だった。
「今のは?」
「夕方七時に噴水が止まり、イルミネーションが点灯する、ということになっていますが、七時ちょうどに噴水が止まるというわけではなく、実際には多少のズレがあって、噴水の水も噴き上がり、イルミネーションも点灯している時間がわずかの間ですが存在するのです」
滔々と説明する石動。
「だから時間厳守なのか」
「事前に教えなかったのは、内緒にして、びっくりさせようと思ったからです」
今しかない。
俺は鞄からラッピングされたプレゼントを出した。
「伊織、これ」
俺は今日初めて、石動のことを伊織と呼んだ。
石動はずっと「猛丸くん」と呼んでいた。
それももう終わってしまう。
また一回も名前で呼んでいない罪悪感と、こんな機会はもう二度とないかも知れないという焦燥が、俺の口から「伊織」と言わせたのだろう。
石動はプレゼントを差し出す俺をきょとんとした顔で見ていたが、間もなく受け取ってくれた。
封を開けてもいいか尋ねてきたので、俺は首肯する。
包装紙から出てきたのは、うさぎ柄のブックカバーだ。
石動はそれをまじまじと見て、
「どうしてこれを?」
「モールの初めに入った雑貨屋でずっと見てたから。気になってたんじゃないかと思って。違ってたらごめん。別に捨ててもいいし」
「いえ、ありがとうございます」
石動はプレゼントを大事そうに抱きしめてくれた。
「もしもまたこうやって一緒に遊ぶ機会があるなら、そのときは本屋へ行こう。デートは一人だけ楽しくても仕方ないんだろう。だったら、伊織も楽しい場所に行かないといけないだろ」
「そうですね。猛丸くんにしては、良いこと言うじゃないですか」
果たされるかどうか分からない約束をし、俺達はなんとなくイルミネーションを眺める。
石動がおもむろに口を開いた。
「今日はとても勉強になりました」
俺は黙って、石動の話に耳を傾ける。
「ここで猛丸くんが来るのを待っている間、ちゃんと来てくれるかなと思って、とても心細かったです。もしかしたら何かあったんじゃないかって、心配もしました。何度もあなたの姿を探して、何度も時計を見ました。私は恋愛と聞けば、すぐにデートを想像してしまいます。しかし、楽しいや嬉しいだけでなく、寂しいや辛いという感情も恋愛なのだとしたら、会っているときだけでなく、会えないときも恋をしているということになります。私はそんな当たり前のことさえ知らなかった。そして、この混沌こそが恋愛の正体なのだとしたら、私はこれから自分が知っている言葉の限りを尽くして、文章によってそれを表現しなければいけません」
少しの間を置いて、石動が意を決したように言う。
「書き終わったら、読んでくれませんか? 私の小説」
迷惑でなければですけど、と付け加えた。
「迷惑なんかじゃないけど、いいのか?」
「自分が書いたものを、顔を合わせる人に見せるのは、それは恥ずかしいですけど、取材に付き合ってもらった猛丸くんには、もう格好付きませんから」
「そういうことなら、読ませてもらおうかな」
俺の返事を聞いて、石動がにっこりと笑った。
「私の読者第一号、予約ですね」
微笑むことすら珍しい石動の、こんな無防備な表情初めてみた。
「あんまり遅くなるのは良くないし、そろそろ帰ろうか」
「家に着くまでがデートですよ」
「遠足じゃないんだから」
俺達は帰途につく。
……何か忘れているような気がする。
公園の出入り口に差し掛かったところで、石動が尋ねてきた。
「そう言えば、神城先輩はどうしたんですか? さっき何か言いかけてましたよね」
「あっ……」
俺は慌ててカレンの救出に向かったのだった。
翌日、学校の廊下で石動に会った。
「よう」
「おはようございます」
声を掛けると、少し困ったように会釈した。
その態度を見て、石動も俺と同じような気持ちなのだと思った。
昨日のことがあるから、どんな顔すればいいのか分からないのだ。
今までどんな風にしていたのか思い出すのさえ苦労する。
「移動教室か?」
「はい。先輩は?」
「俺はトイレに行ってただけだ」
「そうですか。授業に遅れますので、私はこれで」
石動が俺を横切っていく。
もう猛丸くんとは呼ばれないし、伊織とも呼ばなくていい。
後ろから石動の声がした。
「猛丸先輩も早く行ってください。私と話してて遅れた、なんて言われたくないですから」
猛丸先輩――今までは、谷河先輩だった。
振り向くと、石動はもう前に向き直っていた。
俺は石動の背中に向かって叫ぶ。
「そっちこそ遅れるなよ、伊織」
昨日は名前で呼ぶように伊織に決められていたが、今日からは伊織と呼んではいけないなんて、誰にも決められていない。
伊織はそのまま歩いていってしまったから、どんな顔をしているのか分からなかった。
恋がしたい。