1章 2話 火々野 響(ひびの ひびき)
降ろしてもらった場所から家まで向かう。
自分がどこにいるのか分からないというほど遠くに移動していなくて良かった。
もしかしたら、銀髪の子が配慮してくれた?
歩いている間、俺の頭にはさっき起きたことと、銀髪の少女の顔が浮かび上がっていた。
夢見心地、半信半疑ではなく、はっきりとした映像が記憶として脳裏に焼き付いている。
空中でぶら下がっていたときは、変な境地に入り込んでしまっていたようで超然とした気持ちでいたが、こうして地上に下りて危機から遠ざかると、冷静に考えざるを得なくなるのだ。
――ダメだ。
分からないことだらけで、とてもじゃないが、すぐに理解することはできそうにない。
もし、もう一度あの子に会うことがあったら、尋ねてみようか。
俺はそれ以上考えるのをやめた。
だって、もう一度彼女に会える確証なんてどこにもないのだから。
しばらくすると、公園に差し掛かった。こんなところに公園があったのか。
いつもの帰り道ではないため、初めて通りがかった。
公園の端によく知る少女がいるのが見えた。
髪の毛を頭の上部で二つの団子を作った髪型の女の子を、俺は一人しか知らない。
火々野 響。
同じ高校に通う一つ下の後輩で、一ヶ月前に入学してきたばかりだ。
ブレザーの制服姿のまま、こちらに背を向けて、しゃがんでいる。
よく見ると、火々野の陰に子猫がいる。
子猫はじっとしたまま、気持ちよさそうに丸くなっている。
火々野は猫に向かって、右手をそっと伸ばそうとしている。
小さな手が触れる寸前、猫は俊敏な動きで逃げていってしまった。
火々野は猫が走り去った方向を見つめ、露骨に肩を落とした。
近づきつつ、慰めるように声をかける。
「残念だったな」
火々野が小さな体をビクッと震わせ、すぐに振り返りつつ、立ち上がり、
「び、びっくりさせるんじゃねーよ!」
大きな声を出した拍子に、八重歯が覗いた。
「猫、好きなんだな」
火々野はそっぽを向き、そっけない口調で、
「別に普通だよ」
先程の落胆ぶりを見る限りそうは思えないが。
そこに、さっきの子猫が戻ってきた。
「戻ってきたぞ」
俺の視線の先に目を向ける火々野。
子猫は火々野を素通りし、俺の足下に寄ってきた。
それから俺の周りをくるくると回り、頬を俺の足に擦り付けて、じゃれついてくる。
子猫を抱え上げ、撫でてやると、気持ちよさそうに小さく鳴いた。
火々野が羨ましそうに、横目でチラチラと見ている。
「火々野も触るか?」
「あたしは別に」
もごもごと答える火々野に、
「ふわふわしてて、気持ちいいぞ」
そう言うと、火々野は不承不承の体裁を装い、
「ちょっとだけなら」
腕を伸ばし、頭を撫でようとした。
しかし、猫が突然暴れ始め、俺の腕から飛び出し、公園の角で丸くなってしまった。
火々野が恨めしそうに俺を睨んでいる。
ツリ目勝ちな瞳をさらに吊り上げ、
「バカっ!」
「俺のせいかよ!」
猫が逃げたのは俺のせいじゃないが、猫に逃げられるという悲劇を一回分引き起こしたのは俺の責任と言えなくもない。
そのとき、視界の端にコンビニを捉えた。あることを思いつき、
「ちょっと待ってろ」
公園から道路を挟んだ向かいにあるコンビニに入り、買い物を済ませ、公園に舞い戻った。
買ったのはキャットフードで、スティック状の焼きかつおだ。
それを火々野に手渡し、
「これ、食べるんじゃないか」
火々野は真剣な表情でキャットフードを見つめてから、子猫に近づいていく。
その眉宇に期待と不安が漂わせ、キャットフードを差し出した。
食べ物を前にした子猫は、最初は警戒していたが、しばらくすると一口ぱくっと食べた。
やがて夢中で食べ始めた頃、火々野は空いている手で、そっと猫の頭を撫でた。
喜色満面の笑みを湛えている。
「良かったな」
「良くも悪くもねぇよ、こんなもん」
乱暴な言い方だが、頬が綻んでしまっている。
本当に嬉しそうだ。
火々野と会って一ヶ月経つが、じっくりと話す機会はなかった。
「一緒に帰らないか?」
「な、なんでテメェと一緒に帰らねーといけないんだよ!」
火々野が大きな声を出すと、子猫は驚いて体を跳ねさせ、逃げていってしまった。
火々野が鋭い目つきで俺を睨んでいる。
「バカ!」
「なんでだよ!」
火々野は不機嫌そうに体を翻し、公園から出ていった。
今から追いついて、もう一度二人で帰ろうと誘えば、さらに火々野の神経を逆撫ですることになるだろうと思い、一人で公園を後にした。