2章 9話 世界でたった一人
夕食後、部屋でだらだらしていると、美志緒先輩がやって来た。
「どうしたんですか」
先輩は言いづらそうに逡巡してから、
「こんな時間にすまない。手伝ってほしいことがあるんだが、私の部屋に来てくれないか」
「いいですよ」
美志緒先輩に頼られることに喜びを感じつつ、即答すると、先輩は胸を撫で下ろした。
「そうか。ありがとう、助かるよ」
外階段を歩きながら、景色を眺める。
数日前からの天気予報が伝えていた通りに、本格的な大雨となっている。
朝から空は雨模様だったが、夕方からとうとう降り始めたのだ。
「入ってくれ」
招き入れてくれる先輩に、俺は少し緊張しつつ、
「お邪魔します」
先輩の部屋に入るのは初めてだ。
室内は整理整頓されていて、真面目な性格が現れている。
「適当に座ってくれ。今、お茶を淹れてくる」
しばらくすると、先輩が急須と湯呑み茶碗を乗せたお盆をキッチンから持ってきた。
俺の前のテーブルに盆を置き、お茶を淹れてくれる。
「ありがとうございます。それで、手伝いってなんですか?」
「風紀強化週間の活動報告書を作成したいんだ」
テーブルの上にあるノートパソコンの画面を俺に向ける先輩。
「生徒会にデータで報告書を提出することになっているんだが、パソコンの扱いに慣れていなくてな。下
書きはできているから、その通りに文章を打って、報告書を作ってくれないか」
話によると、風紀委員会のパソコンを持ち帰ったのだが、使い方がわからなかったようだ。
「いいですよ」
パソコンに強いわけではないが、タイピングとワードくらいなら一応できる。
先輩から報告書の下書きを受け取り、早速キーボードを叩き始める。
正確で簡潔な文章が、力強く達筆な字で書かれている。
背筋をしゃんと伸ばして、ペンを走らせる美志緒先輩の姿を思い浮かべてしまう。
隣にいる先輩に視線を向けると、体育座りをしてパソコンの画面を食い入るようにじっと見ている。
その様子が、夢中でテレビ番組を見る子供のようで何だか可笑しい。
想像と違って実際の先輩が幼く可愛かったから、フリが利いていて面白いのだ。
俺の表情に出ていたらしく、美志緒先輩が小首を傾げる。
「どうかしたか?」
先輩に子供っぽくて可愛いなんて言えない。
失礼だと思うし、俺の心情的にも恥ずかしい。
「なんでもないです」
「なんでもないのに笑うのか」
先輩が拗ねたような顔をするので、俺は話を逸らそうと、別の話題を探した。
「美志緒先輩、字上手ですね」
「幼少の頃、父親に字の練習を強いられていたからな」
先輩の表情が少しだけ曇り、
「字だけではなく、箸の持ち方や言葉遣いなど、行儀や礼儀は徹底された。とても厳しくな。勉強や母の家事の手伝いは当然のこと、心身ともに強くなれと格闘技も習わされた」
先輩の普段の凛然とした振る舞いや、一本背負いをする華麗な姿が、脳裏に蘇る。
「それが嫌になってここに来たんですか?」
美志緒先輩は、今年の元日からクロユリ荘に住み始めた。
先輩はまだ二年生で、俺達学生は冬休みだった。
先輩が何故そのタイミングで、しかも新年早々引っ越してきたのか知らない。
今の話を聞くと、もしかすると父親が理由なのかも知れない。
しかし、見当違いだったようで、美志緒先輩は首を横に振った。
「父を超えるためだ。悔しいが、私はまだほんの子供だ。だから、両親の元を離れ、一人暮らしをすることで成長したいと思ったのだ。とは言え、どうすれば父を超えられるのかはっきりと分かっているわけではないのだがな。ただ、自立しなければと思ったから、家を出たのだ」
俺は先輩の話を感心しながら聞いた。
先輩がしっかりして見えるのは、目標を達成したいという向上心の炎が、絶えず輝いているからなのだと思った。
そのとき、窓の外が白く光り、耳を劈くような轟音が鳴り響いた。
雷が落ちたのだ。
「結構近くみたいですね」
窓から先輩に視線を移すと、両手で耳を塞ぎ、小さく丸まっていた。
「なにしてるんですか」
美志緒先輩は恐る恐る顔を上げ、小さな声で絞り出すように言う。
「雷が苦手なんだ」
いつもは凛々しい瞳に、涙が浮かんでいる。
嘘でも冗談でもなく、本当に苦手みたいだ。
追い打ちをかけるように、再び落雷する。
その直後、部屋が真っ暗になった。
停電したのだと理解するとの同時、美志緒先輩が抱きついてきた。
「ちょっと、先輩!?」
呼びかけたが、反応がない。
暗いせいで、表情までは分からない。
先輩の肩を揺さぶろうと手を置くと、激しく震えていた。
「ブレーカー見てきますね」
落ちていたら、上げておかなければならない。
クロユリ荘の部屋は全て間取りが同じはずだから、ブレーカーの位置も同じだろう。
立ち上がろうとすると、先輩の力が強まった。
消え入りそうな声が零れる。
「どこにも行かないで……」
その一言で、俺は動けなくなってしまった。
美志緒先輩もやっぱり女の子なのだと思う。
そんなの当たり前のはずなのに、俺を含めて、先輩を知る人のほとんどが、忘れてしまっているかも知れない。
才色兼備、文武両道。
先輩へのイメージが邪魔して、こういうきっかけがなければ、気づかなかっただろう。
いや、違う。
気付こうとしなかったんじゃないのか。
目に映る先輩の断片的な言動だけを貼り合わせ、先輩らしさみたいなものを勝手に作り上げていたのだ。
少しでも美志緒先輩の不安を取り除きたくて、落ち着いた口調で囁く。
「大丈夫ですよ。どこにも行きません」
他の誰が気づかなくても、俺だけは知っていたい。
俺の思いとは裏腹に、先輩の体が強張るのを感じた。
一点を見つめ、その方向を指差した。
「火の玉だ」
見ると、先輩の指と視線の先、部屋の隅に光る物体が見える。
その光体は、不気味に揺らめく。
まさか、本当に心霊現象なのかよ。
クロユリ荘に久しく噂される愛にまつわる呪いのエピソードは、フィクションではなく、ノンフィクションだった?
美志緒先輩がしがみついてくる。
「お、おばけもダメなの……!」
こんなに怯える先輩を誰が知っているだろうか。
今、先輩を守れるのは、この世界でたった一人、俺しかいない。
「美志緒先輩は、俺が守ります」
先輩を背に隠し、火の玉を睨み付ける。
光源がゆっくりと、静かに近づいてくる。
そして、眼前に迫ったそのとき、視界が真っ白に染まった。
蛍光灯が点いたのだ。
電気系統が復旧したようだ。
幽霊の正体が明らかになる。
俺達のすぐ先にいたのは、ミニカレンだった。
各部屋に備えてある防災非常用ライトを担いでいる。
これが火の玉に見えたのか。
このミニカレンは単独で行動していることから、あの特別な個体だろうと直感的に思った。
おそらく俺に付いてきていたのだろう。
美志緒先輩は安堵のため息を吐いている。
目が合うと、先輩は恥ずかしそうに目を伏せ、唇をきつく結んだ。
それから再び目が合うと、俺達はほとんど同時に噴き出した。
シリアスなドラマを演じていたつもりが、とんだ茶番だったわけだ。
振り返って分かる自分達の滑稽さと、何事もなくて良かったという安心感。
そのまましばらくの間、俺と美志緒先輩は声を出して笑い合った。
そんな俺達をミニカレンが、不思議そうに見上げている。
古いパソコンだったようで、停電の間に電池が切れてしまったため、報告書を作り直さなければならないことに気づいたのは、ずっと後のことだった。
本当はこういうシーンだけを書きたい。