2章 5話 脱走
今日の最後の授業は日本史だ。
老齢の教諭の念仏のような語調が、生徒の眠気を誘う。
クラスメートのほとんどは、早々に船を漕いでいる。
俺は運良く引き当てた窓側最後方の席で、ぼんやりと教室の時計の針を眺めていた。
琴吹先生の配慮で右隣になったカレンは、ずっと一生懸命ノートにペンを走らせている。
この授業をこれだけ熱心に取り組めるなんて、脱帽だ。
何となくノートを覗き込むと絵が書いてある。
落書きだ。
天下を取った戦国武将の絵。
織田信長が、スタイリッシュな細身のスーツでモデルのようなポーズを決めている。
その隣では長豊臣秀吉が、ジーパンと胸に刀狩りとプリントされているTシャツを着ている。
さらに隣に徳川家康がいて、ランニングシャツに半ズボン、リュックを背負い、傘とスケッチブックを持っている……裸の大将じゃねーか。
ん? 漫画みたいな吹き出しを書き始めた。
「アイ ラヴ ハンバーガー」、風刺か!
何やってるんだ、こいつは。
無駄に絵心あるし。
窓の外に目をやると、空が晴れ渡っている。
天気予報によれば、週末に向かって大きく崩れるらしいが、今日に関して言えば、絶好の昼寝日和だ。
腕を枕にし、机に突っ伏す。
相変わらず抑揚のない読経が続き、校庭からは体育をしている生徒の声が聞こえる。
それらの一切が、遠のいていく…………かさかさ。
何かがいる。
野良猫か?
再び窓の外を見ると、茂みからミニカレンが顔を覗かせていた。
ミニカレンは例外なく、風紀委員室で待機させているはずだ。
それがこんなところにいるなんて。
他にも言いつけを守らず、脱走しているやつがいるかも知れない。
昼休みの騒がしさを思い出し、俺は戦慄する。
確認しに行くしかない。
それにはカレンを連れて行かなくては。
俺には魔法に対応する能力なんてない。
まだ落書きに耽溺しているカレンに、小声で話しかける。
「カレン、外にミニカレンがいる」
ノートから顔を上げたカレンが窓の外を見るが、もういなかった。
「いないよ。猛丸寝ぼけてたんじゃない?」
カレンはノートに目を戻した。
確かにさっきはいたのに。
カレンの言うように、俺の勘違いだったのか?
三度外を見ると、茂みの近くの木からひょこっとミニカレンが顔を出した。
やっぱりいた。
見間違いじゃなかった。
俺は椅子から立ち上がる。
「谷河、どうした?」
教諭が授業を止めた。
クラスメート達も何事かと、揃って俺に視線を向ける。
「神城の気分が優れないようなので、保健室に連れて行ってもいいですか」
「え? 私全然元気だよ」
「いいから」
察しが悪いやつだ。
教諭が懐疑的な眼差しで俺を見る。
「元気そうだけど?」
「こいつこう見えて、熱が四十度あるんですよ」
すかさずカレンが、
「熱なんてないよ」
バカヤロー。
「確かめてよ」
カレンが立ち上がり、額をくっつけてくる。
クラスメートたちの前で何をされてるんだ。
「顔赤いよ。猛丸の方が熱あるんじゃない」
額を離したカレンは、俺の顔を覗き込んだ。
教諭が俺の顔色を見ながら、
「そうなのか?」
「そうでした。熱が五十度あって全身骨折してて、意識もないんです。だから神城に保健室に連れて行ってもらいます」
「保健室じゃなくて病院の方が良いんじゃないか?」
俺はカレンの腕を引いて、教室を飛び出した。
「病院にする?」
カレンの言うことには答えず、風紀委員室に向かって走り出す。
「走って大丈夫なの?」
カレンが付いてきつつ、後ろでそう叫んだ。
「ミニカレンが外にいたんだよ。カレンがたまたま見なかっただけで」
風紀委員室に行っても、鍵がない。
すべての教室の鍵は、職員室で管理されている。
授業中に鍵を借りるなんて不可能だ。
とにかく、行ってみてから考えよう。
風紀委員室に到達する。
鍵はしっかりかかっている。
中は静かで、異変は感じ取れない。
「部屋に入れたらいいんだが」
「ちょっと離れてて」
カレンがドアを開けてくれるらしい。
開錠の魔法みたいなのがあるのだろう。
右手をかざすと、そこに神秘的な光が発生した。
次の瞬間、大きな音を轟かせ、ドアが吹き飛んだ。
口をぽかんと開けて唖然とする俺を、カレンが急かす。
「何してるの? 早く中に入ろ」
入室する際、横たわっているドアがどうしても視界に入る。
どうするんだよ、これ。
室内は、もぬけの殻だった。
ミニカレンの姿は、どこにもない。
「……嘘だろ」
その光景を見て、絶望的な気分になる。
窓が開いている。
ここから脱走したようだ。
待機くらいならできるだろうと、楽観視したのがいけなかった。
「遠隔操作みたいなことはできないのか?」
「それはできないけど、いる場所は分かるよ」
カレンによると、ミニカレンは魔力の塊であるらしく、それらを感知できるようだ。
「ミニカレンを一人ずつ捕まえていくか」
解決の糸口があるのは幸いだが、この部屋を埋め尽くすほどいたミニカレンを捕獲するのは、想像しただけで骨が折れる。
「良いアイディアがあるよ」
自信ありげにカレンが言った。
おもしろいって、なんだろう。