1章 1話 谷河 猛丸
迫り来る巨大な質量を持った鉄の塊。
耳を劈くようなブレーキ音。
最悪の事態が脳裏をよぎる。
そして、その想像は、ほとんど現実のものになろうとしている。
いつもの帰り道だった。
朝起きて、学校に行って、授業を受けて、帰途に着いた。
それがこんな突然に、予告もなしにあっけなく、終わってしまうものなのか。
人間の力ではどうにもならない。俺が瞬間的に移動するとか、トラックが完全に停止するとか、人智を超越したことが起きない限り助からない。
無理だ。
不可能だ。
目をぎゅっと強く瞑る。
決して覚悟が決まったわけじゃない。
決まるわけがない。
かと言って、諦めたわけでもない。
単純な恐怖だ。
自分に起こる悲劇を目撃したくないだけだ。
終わる。
終わってしまう。
高校二年生、四月の終わり。
谷河 猛丸の人生が終焉を迎える。
――体が飛ばされる。
だが、おかしなことに、ぶつかった衝撃も痛みもない。
恐る恐る目を開けると、世界が、揺れている。
いつもより空が近く、眼下に広がる家々が小さく見える。
まるでジオラマだ。遠くに黄色いで埋め尽くされた、たんぽぽ畑がある。
ようやく俺は、自分が宙に浮いているのだと理解できた。
「どこか痛む?」
上から声が降ってきた。
同い年くらいの少女が白銀の長い髪を棚引かせ、箒に乗っている。
「大丈夫?」
宝石のように輝く大きな双眸を真ん丸にして、心配そうに俺を見下ろしている。
俺は茫然と頷いた。
それくらいしかできなかった。
今分かることは、どうやら俺は宙に浮いているというよりは厳密に言うと、宙にぶら下がっているということ。
そして、車に弾き飛ばれさたのではなく、体を引っ張られることで箒の上の少女に助けられたというこことだ。
そんなことを考えながら、俺は自分の心境に少し驚いていた。
帰り道トラックに轢かれそうになり、それを箒に乗った銀髪の少女に助けられ、建物がミニチュアに見える高さをゆらゆら揺られているこの状況。
本来なら絶叫したり、喚き散らしたりしそうなもんだが、当の俺は声も出さず、もちろん暴れもせず、眼下の景色を眺めている。
それは決して余裕などではなく、どこか諦観にも似た感情なのだろう。
非日常的なことが起きすぎて、現状を脳内で処理できなくなったことによる思考停止。
何が起きても不思議じゃないというか、もうどうにでもなれ、といった感じだ。
気がつくと箒はゆっくりと下降し始めていて、やがて歩道に着陸した。
地面に足が着くことに深い安堵を覚えながら、俺は銀髪の少女に尋ねる。
「確認したいんですけど、あなたが助けてくれたんですよね?」
「そうだよ。飛んでたら、君がトラックとぶつかりそうだったから」
彼女は大きく頷きながら、そう答えた。
「えっと、ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして」
少女は花が咲くような笑顔で言った。
「あなたは一体――」
何者なんですか? と言いかけたところで、
「そうだ! 私、急いでたんだ。ごめん、もう行くね」
慌てた様子の少女は、再び箒に乗り、空を飛んでいってしまった。
取り残された俺は、命の恩人の姿が小さくなっていくのをずっと眺めていた。