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今回は人外ではないです。

 



 自分は今、人生の岐路に立っている、とエルヴィナは悟った。




「エルヴィナ・マルコヴナ・ダイダール! 高位貴族階級としての気品を失した行い、もはや許されぬ! この場にて貴様の罪過を明らかにするとともに、我が婚約者候補からその名を永久に除外する!」


 ぴしりと鞭打つような声が、かたくこわい響きをもって朗々と語り上げる。それは静まりかえった広間のすみずみまで届き、一瞬にして場の空気を支配した。

 よりにもよって、妃殿下主催の夜会で、このようなことになるとは。

 エルヴィナは喉の渇きを覚え、ささやかに喉を上下させた。今、広間じゅうの視線が自分に注がれていることを理解していた。

 心臓がどくどくと鳴ってせわしなく、胸を内側から殴打する。戸惑いにさまよいたがる指をなんとか押しとどめ、ぐっと拳を作った。

 通りのいい声は、エルヴィナの『またいとこ』であり、婚約者候補でもあった第二王子のものだ。よく知った声の主は、厳しい口調で、エルヴィナの罪状を並べ立てる。

 窃盗、暴動教唆、はたまた男性を複数人協力させた婦女暴行未遂、殺人未遂。

 エルヴィナには、すべて身に覚えの無いものだ。

 しかしながら、演説をするために生まれたかのようなまたいとこの声で読み上げられると、言葉にされたそばからそれが真実になっていくようであった。

 まるで児戯のような証言ばかりで物的証拠が乏しいにもかかわらず、すでに周囲からの目線は、国家転覆をたくらんだ極悪人に対するものとばかりに疑念と嫌悪を孕んだものになりつつあった。

 エルヴィナは、ドレスのたっぷりとしたドレープに隠された膝を哀れに震わせながらも、外面は公爵家令嬢としての矜持を失わずに胸を張り、つんと鼻をそびやかした。


「わたくしには、なんのお話をなさっているのか、わかりませんわ」


 怯え、かすかに掠れた語尾を聞き取ったものはおらず、エルヴィナの返答は経緯を見守る人々から、貴族という身分に奢ったふてぶてしいものとして受け取られた。


「痴れ者が。とうに、知らぬ存ぜぬで終わる時期は過ぎた。貴様の所行、その最大の被害者であるゴーゴリ嬢が、揺るがしがたい生き証人である!」


 第二王子の影に身を隠していた小柄な少女が、おずおずと体を覗かせる。子リスを思わせる愛嬌のある瞳が、エルヴィナを目にして悲しげにゆがむと、さぞかし恐ろしい目にあったのだろうと周囲の同情を誘った。

 今期のシーズンから社交デビューを果たしたばかりの子爵家令嬢、ユーリアナ・ゴーゴリは、始めこそ、一代限りの位を金で買った成金の娘よと嘲笑の的であったが、愛のない社交が当然の貴族令息たちは、いつしかその爛漫な笑みに惹かれる蝶のように彼女の虜となり、次々と顔を広げていった。

 貴族は社交性が命だ。しかしながら、背に負った身分もまた尊いものである。子爵家というぽっと出の小娘に出し抜かれることは、貴族令嬢たちのプライドにたいそう障ったのだ。

 ほどなくして、彼女に対する悪質な『お構い』が始まったものの、エルヴィナは特別目を向けることもなく傍観に徹した。有力貴族を狙った子爵家の思いも寄らない猛攻は眉をひそめたけれども、彼女の社交手腕をことさらに阻害する理由もなく、またほかの令嬢たちの反感を買ってまで庇い立てる義理もないためだ。

 しかししばらく経ってみると、いつの間にやらユーリアナへの悪意はエルヴィナの意思によるものとされていた。公爵家の後ろ盾という影響力があり、また子爵家令嬢の親しい友人と目された第二王子の婚約者候補であることが、矢面に立てやすい存在だったのだろう。

 お笑いぐさだ。幼少のみぎりからの仲である『またいとこ』には、尊敬と友愛を抱いてはいても、恋愛感情はない。歌劇の恋人達が如く、悋気で身を危うくするほど愚かではないし、そもそもそれほどの情熱を抱いていない。エルヴィナのみならず王子としても、両者の共通認識であった。

 それなのに、まったくもって存外のところから背をつき押し出されたエルヴィナが策を講じる間もなく、まるでレールに乗せられるようにしてこの場に至ってしまった。

 誰かが念入りに作り上げた、大舞台のように。


「貴様の醜い性根はすでに暴かれた。恥を知るがいい、エルヴィナ」


 侮蔑と義憤の目が集まるエルヴィナから視線を外し、傍らの少女へ顔を向けた第二王子は、ふとその口調を和らげた。


「…………また。慶事にふさわしい空気ではなくなってしまったが、実は我が親友であるイサークが、妻を娶ることとなった。かの堅物を射止めた女神こそが、このゴーゴリ嬢よ」


 エルヴィナに対するものよりも柔らかい第二王子の言葉に、ユーリアナがぽっと頬を赤らめると、さざなみのような動揺が広間に伝わっていく。

 はっとしてエルヴィナが第二王子を見やると、ほんの僅か、エルヴィナにだけわかるように、顎を引いた。

 イサーク・マルコヴィチ・ダイダールは、エルヴィナの兄であり、公爵家の長子である。いずれは公爵の位を継ぐこととなる。


「エルヴィナ、貴様が害した彼女こそ、未来の義姉であり、公爵夫人よ」

「…………そんな…………」


 震えた語調を、見守り人たちはたくらみの露呈した絶望だと判じ、嘲笑した。

 第二王子がエルヴィナを睨み据える眼差しも、弾劾の意思と捉えただろう。

 違う。エルヴィナにはわかる。真っ直ぐとエルヴィナを突き刺す青のまなこには、迷いのない決意がある。

 またいとこといえども王族だ。頻繁にはとれない二人の時間で、互いに学ぶことの多さを労り、その努力を称賛し合いながら、この国の礎となることを誓い合った同胞の、あの時と同じ瞳で、またたきの間だけ目線を交わす。

 二人は協力者であり、同時に、この瞬間に共犯者となったことを、エルヴィナは知った。

 ――一人の少女を犠牲にしてでも、と音ならぬ囁きが確かに聞こえた。

 エルヴィナの動悸はいよいよ激しくなり、堪えきれずに片足がよろめいた。


「そうだとも。であれば、いかにかわいい妹と言えども、無罪放免というわけにはいくまい」


 瓏と発せられた声に、エルヴィナはぎこちなく振り向いた。

 果たして、そこには兄がいた。いつもであれば蜜よりも甘く溶けた眼差しをエルヴィナに注ぐ兄は、かつてないいかめしい面構えで渦中の妹を見やり、次いで甘やかに頬をほどき「ユーリアナ」と手を伸べた。

 子爵家令嬢は求めに応じ、粛々と第二王子のかたわらを離れ、硬直するエルヴィナの横をすり抜けて、公爵家令息の横に並んだ。

 手に手を重ね、青年と少女は初々しくはにかみあうと、針のむしろの中で立ち尽くす妹へ憐れみの目を向けた。


「愛しい僕のエリィ、どうしてこうなってしまったのだろうね」

「お兄様……」

「そう呼ばれるのももう最後と思うと、なかなか切ないものがあるな」

「どう……いう、意味でしょうか……」


 秀麗なかんばせに憂いの色を乗せて吐いた兄に、妹はひりつく喉からなんとか言葉を絞り出す。


「そのままの意味だ」

「お父様」


 人垣より一人の男性が歩み出ると、人々は自然と割れて道を開く。壮年の男性、ダイダール公爵マルクは、息子とよく似た美貌をゆがませて娘を睥睨した。


「公爵家の名を汚す行いを許すわけにはいかない。この時をもって、エルヴィナ、お前を我がダイダールより勘当とすることを宣言する」

「勘当……」

「これより、ダイダールを名乗ることは二度とないと知れ」


 常であれば誰よりも愛娘を甘やかし、一つの瑕疵も許さないとばかりに囲い込む父からの言葉に、エルヴィナは絶句する。

 今や目に見えて体を震わせ、信じられないと表情にあらわすエルヴィナへ氷のような一瞥を与えたのち、公爵は打って変わった暖かな目で、息子に寄り添う未来の嫁を見つめた。


「君には、いくら詫びても足りないほどだろう。このような事態で溜飲が下るとは思ってはいない。公爵家からの正式な謝罪は、後日書面で届けさせる」

「いっ、いいえ! 滅相もありません! 公爵様にそのように仰っていただくなんて……!」

「あのような慮外者を育ててしまったのは、公爵家当主である私の責任だ。そして、君の隣にいるのは、その兄である。イサーク相手で、本当に構わないのか」

「構わないなんて! 私は、イサークさまをお慕いしております。どんなことがあっても、その気持ちは揺るぎません」

「……ありがとう。君を義娘に迎える日が待ち遠しいな」


 そうとうな茶番である。王家から降嫁した姫を母に持つ当代公爵が、爵位もない一介の小娘に頭を下げ、その返答に感謝を述べるなどと、まともな貴族であるならば目を疑ってしかるべき光景だった。

 どこかの誰かから、「謙虚な娘だ」「なんと慈悲深い」という声が聞こえ、エルヴィナは鼻白んだ。

 どこがだ。事実、エルヴィナは何もしていないのだから、恐らくユリアーナ本人には冤罪とわかるだろう事態を否定せず受け入れ、公衆の面前で婦女子を辱めることをよしとし、周囲の混乱を助長する。

 貴族は体面がすべてだ。その罪過がどうあれども、無様な醜態をさらした貴族の娘がどうなるか、子爵家という末席とはいえ階級社会に身をさらしていれば知らぬはずはあるまい。不出来な娘よとレッテルを貼られ、二度と社交の表舞台に上がってはこられない。

 エルヴィナの冤罪が、彼女の奸計によるものか、そうでないかはわからないが、真に慈悲深い淑女であれば、とびきり衆目の多い場でこのような行いを許容するものだろうか。

 しかし、周囲を見渡してみても、戸惑いを浮かべているのは下級貴族か使用人のみで、すでに大半の人々にとっては、予定調和の見せ物だったのだと知れる。王族でさえ。

 場には、この展開を望むものしか存在していないのだった。


「何をしている、エルヴィナ」

「は……」

「ここは妃殿下の夜会、部外者は疾く失せるがいい」


 視線すら流さず発せられた切り捨てるような物言いに、羞恥のもとでカッと頬が熱くなる。エルヴィナを溺愛する父のことも兄のことも、エルヴィナなりに愛していた。そのため、一切の情も失せた冷淡な声音はこたえるものがあった。

 しかしながら『貴族籍から外れた平民』であるエルヴィナは、これ以上の言葉を自らに禁じるように唇を強く引き結ぶと、主催者である妃殿下の方向へ礼をしたのち、背筋を伸ばして宮殿から立ち去った。

 その背に突き刺さる、ひとつの視線を知っていた。互いに、燃え上がるような熱はとうとう持ち得なかった。しかし、かつては同じ未来を夢見たこともあった。

 もう二度と会うことはない。胸の内にこみ上げる未練と感謝の言葉を飲み込んだエルヴィナは、感傷を振り切るかのごとく、きっぱりと馬車の扉を閉めた。







 ダイダール公爵邸へ戻ると、執事から父の伝言だと告げられた。

 いわく、ダイダールの名を持たず、貴族の矜持を失ったものをこの屋敷においておくことはできない。ゆえに、地方へ所有するマナーハウスへ下がるようにと。そこで自らの罪を悔い、慎ましく暮らすようにとのことだった。

 勘当といえど、さすがに王家の流れを汲む少女である。その血は確かであり、もしやにでも子を結び、余計なお家騒動を起こすことは未然に防ぐ必要がある。文字通り着の身着のままで放り出すわけにはいかない。

 しかし、中央からはずれ、もはや華やかな世界に戻ることもなく、王の眼前で醜聞を得た身なれば婚姻など望めるはずもない。

 友誼や親族、あらゆる一切から遠ざけられた何もない田舎で、世話役という名の監視に囲まれて、清貧とした日々を送る……それがエルヴィナに用意された余生である。

 それが指し示すことは、そこで何が起ころうとも、誰も、見るものは、いないということだ。

 エルヴィナは恐怖に血の気が引き、目眩がしたが、このまま倒れるわけにもいかず、なんとか頬の肉を噛んで踏みとどまった。

 顔色を真っ青にして、がちがちと歯の根が合わないエルヴィナを、いたわしげな目つきで見やった執事は、迎える屋敷側の準備は整っているため、すぐにでも発つようにという、あるじの言葉を伝えた。

 一朝一夕ではこうはいかない。事前に、少なくとも数ヶ月をかけて手筈を整えたのだろう、用意周到なことだ。他人事なら呆れかえるだけで済む。しかし、これは我が身に降りかかっているのだ。

 時間がない。

 ドレスの裾をからげたエルヴィナは、淑女にあるまじき様子で足音も高く自室へと駆け込んだ。クローゼットを勢いよく開き、引き出しに片っ端から手をかけて、当座の持ち物を見つくろう。

 焦燥だけでない感情からぶるぶると震えが止まず、物を手にとっては取り落とすさまを壁際で見守っていた侍女は、脅かさぬようにゆっくりと近寄り、そっと声をかけた。


「……お嬢様」


 ささやかな呼びかけは、半ば恐慌に近い精神状態にあるエルヴィナの耳には届かなかった様子で、侍女は再び「お嬢様」と繰り返し、ようやく主人の視線を得ることに成功した。

 恐れに揺らぐ不安定なその目の前に差し出したのは、びろうどのような艶を持つ、赤い花弁のバラが一輪。


「こちらを」

「……あ……」


 ようやく、エルヴィナの乱れた呼吸が一度止まり、ゆっくりと深く長い息を吐き出した。

 未だ小刻みに揺れる指でようよう受け取ると、両の手で包み込む。微に細に心遣いの伺えるバラは、ひとつの例外もなく棘を落とされ、なめらかな指触りだけを伝える。

 つやつやの花弁は退色もなく一枚一枚がふっくらとして、朝露に濡れていないのが不思議なほどにしっとりと潤んでいた。

 揺れていた瞳が落ち着くと、見る間に水気を湛えた。一度、ぐっと息を呑んでこらえようとしたが、すぐに決壊して溢れかえった涙が頬を伝っていった。

 侍女は触れるのも恐れおおいとばかりに傍らに寄り添い、せめて思うさま泣かせてやりたそうに眉を下げたが、窓の外や扉の外の様子を気にして、控えめに時間が無いことを告げる。

 エルヴィナはしゃくりあげながら頷き、侍女に手伝われながら、顎まで濡らしたままで荷支度を整えた。上等すぎない衣服に、大粒の宝石が光る貴金属、幼い頃に夭折した母の形見に何か包みたかったけれど、目をつけられては困るために躊躇いつつも置いていった。

 侍女に荷を預けて廊下を渡る間も、エルヴィナに注がれる視線を感じていた。ひっそりと姿をあらわさない使用人たちが向けるそれは、あの豪華なホールで感じたものとは異なり、愛情と心配、安堵と懺悔を含んだものだとわかっていた。

 どうか憐れまないで、と胸中だけでエルヴィナは呟いた。滂沱の涙の痕跡を残した顔をさらしながら、すっと伸ばした背で慣れ親しんだ屋敷を抜けていく。

 どうか悔やまないで。あなたたちは十分にわたくしへ心を砕いてくれた。それを知っている。

 だからどうか、ただ祈っていて。

 傅いた家令が開いた玄関扉の先、夜の闇に沈むアプローチの向こうには、執事の言う通りに一台の馬車がエルヴィナを待っていた。夜会からの帰路に使用した家紋入りのものとは違う、幾分小さめで人目につかないような、質素なつくりのそれに、微笑んだ。

 そうして、今日夜会へ向かう前までは確かに自分の家であった建物へくるりと向き直ると、淑女として最上の礼を向けた。この場所で積み重ねた年月は確かにエルヴィナを形作ったものであり、理屈ではない哀切に胸が焦げる心地がした。

 けれども、顔を上げたエルヴィナは迷いのない光を瞳に宿し、自身も泣き出しそうに表情を歪めた侍女から荷を受け取ると、馬車へ乗り込んだ。

 複数の愛情籠もった目に見守られながら、馬車は夜の道を滑るように進んでいった。







 しばらく走り、いくつかの分かれ道を過ぎて、エルヴィナはその方向が父の示したマナーハウスのある地方とは異なることを理解していたけれども、制止することはなかった。

 夜が深くなるほどに、空の星はいっそう輝きを増して、馬車の行く道を明るくした。何時間ののちか、いささか急ぎすぎるほどにも感じていた揺れがふと静まったのを感じて、エルヴィナはそっと車中から窓を覗き込んだ。

 夜空にのしかかるほど大きな影絵は山脈だ。隣国との境に存在する天然の関で、麓には行き交う行商人のための宿場町がある。いつの間にかこんなところまで来ていたことに驚いたエルヴィナに、さらに息を止めるほどの衝撃があった。

 宿場町の端に位置する建物の脇に夜空を見上げる人影がある。馬車の音を聞きつけてか、その人が顔をこちらに向けた。月明かりが白々と横顔を照らす。

 思わず、走行中にもかかわらず腰を浮かせたエルヴィナをなだめるように、車輪はその回転を落としていく。あるじに伺いも立てないままで馬を制止させた御者は、ステップを用意し、扉を開けた。

 差し出されたエスコートの手も取らないという、貴族令嬢にあるまじき不作法さで、エルヴィナは馬車を飛び出した。御者の横をすり抜けて一目散に、おずおずと開かれた男の腕の中に飛び込む。


「……ミーシャ!」


 恋しい意志を隠そうともしない声音で男の名を呼ぶ。

 ためらいは一瞬、すぐにエルヴィナの体はかたい抱擁に包まれた。エルヴィナもまた、彼の背に腕を回し、伝わる体温にうっとりと酔った。


「ミーシャ……ずっと、こうしたかった……」

「……僕も……エナ……」

「エナ? それはわたくしのこと?」

「……あっ」


 耳慣れない呼び名に、彼の胸板へと預けていた頬を離して見上げると、ばつの悪い表情を浮かべたミーシャがいた。


「……あなたのことを、心の中でそう呼んでいたんだ。不敬だと知りながら……」


 懺悔じみてぽつぽつと告白し、首を垂れる彼の様を見て、エルヴィナはむしろ上機嫌にのどを鳴らす。


「あなたがそう仰るなら、わたくしは喜んでエナになります。もう貴族でもないのですもの」


 うきうきと上気したエルヴィナの明るい表情が夜の闇で隠されているのか、ミーシャの目が痛みをこらえるように歪んだ。


「それでは、あの方の計画通りに?」

「殿下とあなたの間でどんな話がおありだったのかは存じませんが、わたくしは殿下の婚約者候補から外れました」


 すでにそれを恥ずべきことではなく、むしろ大義をなしたとばかりに胸を張るエルヴィナだ。衆目の蔑視は恐ろしかったけれど、ここにいたった結果には満足していることを、エルヴィナは彼にこそ理解してほしかった。


「わたくしはダイダールの家を出された市井の民です。どこにいようと、誰といようと、もはや構わないでしょう」


 再び、青年の体に抱きつく。はしたないどころか、姦婦のような行動さえも、誰にはばかることもない。とはいえ、全身で喜びを溢れさせたエルヴィナの姿は艶事の気配よりも、どちらかというと童女めいて稚気が強調されたのだが。


「ミーシャ、ああ、こうしてあなたに触れられるなんて!」


 満腔の歓喜を込めた呟きがようやく伝わったのか、彼の手がおそるおそるエルヴィナの髪をなでた。

 エルヴィナよりも頭二つ分は大きな背のミーシャは、背丈ばかりが印象的でひょろひょろと細く見えるのだが、こうして触れて初めて、しっかりと肉の付いた男性であることを感じる。大きくて肉厚の手のひらは暖かく、エルヴィナは日なたの猫のように眼を細くした。

 汗を掻く必要のない王侯貴族の、いつだって整えられたなめらかな肌とは違う。傷だらけで、皮膚はかたく、荒れた表皮がざらついてエルヴィナの頬を引っ掛ける。けれども、働き者のいい手だ。うつくしい手だ。

 エルヴィナは、ずっと、うつくしいと思っていた。



 

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