イケニエ
「急がなくちゃ!急がなくちゃ!」
小学1年生の麻衣ちゃんは、ママが作ってくれたレッスンバックの中身を床にぶちまけると、かわりにプラスチックのオモチャの包丁とタオルを突っ込みました。
「本当は本物の包丁がいいんだけど子供はさわっちゃダメって……ママとの約束だからなぁ。おままごとの包丁でも殺せるかなぁ?」
麻衣ちゃんは、ずいぶんと物騒な事を呟いて眉根を寄せています。
そして去年の誕生日に買ってもらった『悪魔の儀式大百科』という子供向けのオカルト本を広げ『死者を復活させる儀式』のページをもう一度読み返しました。
「うまくできるかなぁ…?だけど、もう時間がないから、とにかく急がなくちゃ!」
そう言って麻衣ちゃんは、レッスンバックを引っ掴むと突風のように外に駆けだしていきました。
走って走って、息が上がり苦しくなっても、まだまだ走って、やっとの事で着いたのは学校の裏の空き地です。
「ミーちゃん達いるかなぁ」
1か月くらい前でしょうか?お腹の大きな野良猫を見つけたのは。
麻衣ちゃんとそのお友達はミーちゃんと名付けた母猫の為に、給食の残りや牛乳を持ち寄りみんなで面倒を見ていました。
そして間もなく子猫が3匹生まれたのです。
麻衣ちゃんはミーちゃん親子のいるダンボール箱を目指して、育ちすぎの雑草をかき分けながらズンズン進んでいきます。
そしてやっとたどり着きました。
「あった!でも、昨日の雨でダンボールがぐにゃぐにゃだ。ミーちゃん達、いなくなってたらどうしよう」
麻衣ちゃんは足早に駆け寄りました。
そして雨で歪んだダンボール箱を覗き込みます。
「あ…いないや…昨日の雨…強かったからなぁ、みんなどこかに行っちゃったんだ…」
麻衣ちゃんはガッカリして、その場にしゃがみこみました。
「猫が1匹もいない…どうしよう…これじゃ儀式が…」
麻衣ちゃんは泣きそうになりました。
時間がないのにどうしたらいいのだろうとベソをかいていると、
ミ……ミィ……ミィ……
かすかですが猫の鳴き声が聞こえてきました。
麻衣ちゃんは、パッと花が咲いたような笑顔になりキョロキョロと辺りを探します。
どこ?どこ?
麻衣ちゃんは汚れるのも気にせず地面に手を着き、這いつくばって探していると、生い茂る雑草の根元の薄暗い所に、キジトラ模様の小さな子猫がずぶ濡れでガタガタと震えているのを見つけました。
「いた!良かった!これで儀式ができる!」
麻衣ちゃんは、震える子猫をそっと掴みました。
「冷た!体が冷えてて氷みたい!…あれ?」
おかしいなぁと子猫に違和感を感じます。
なにかが変だと、掴んだ子猫をグルグルまわし眺めていると違和感の原因がわかりました。
おなかを掴まれた子猫は身体の自由を奪われて、弱々しく頭をふったり、前足をジタバタさせたりしてるけど、後ろ足はだらんとのびたままピクリとも動きません。
手でつついてみても、なんの反応もないのです。
少し考えて麻衣ちゃんは、子猫を地面においてみました。
子猫は苦しそうにミィミィ鳴きながら、前足だけを懸命に動かしています。
後ろ足は力なくのびたままズルズルと引きずって、頑張っているようですがあまり前には進みません。
「おまえ…もしかして後ろ足が動かないの?だからミーちゃんに置いてかれちゃったの?」
麻衣ちゃんは知りませんでしたが、野良猫の…いえ、野生動物の世界ならよくある事なのです。
生まれた子供が弱くて生き残れないと判断したら、親はその子供を見捨てます。
おそらくこの子猫も後ろ足が動かない事で、雨の中連れて行けず置いていかれたのでしょう。
「かわいそうに…でも…ごめんね。私はもっとヒドイ事をしにここに来たんだよ…ミーちゃんか…それか子猫のうち1匹を殺す為に…私は…ここに来たの」
改めて目的を思い出した麻衣ちゃんは、ずぶ濡れの子猫と同じように体をガタガタ震わせながら、泥だらけになったレッスンバックに手を突っ込みプラスチックの包丁を取り出しました。
いくらオモチャの包丁でも相手は体が小さく足の悪い子猫です。
押さえつけて一気に突き刺せば殺す事ができるでしょう。
麻衣ちゃんはぬかるんだ地面に膝をつき、オモチャの包丁を両手で握り子猫の真上に構えました。
本当は押さえつければ確実に殺せるのだけど、それはどうしてもできません。
なにも知らない子猫は、ひとりぼっちになって震えているところに麻衣ちゃんが助けにきてくれたのだと、懸命に前足を動かして近づこうとしています。
麻衣ちゃんはそんな健気な子猫を見ているうちに、おなかが大きかった頃のミーちゃんや、生まれたばかりの子猫達の記憶が次々とよみがえり、軽いはずのオモチャの包丁が、なぜかずしりと重くなってきたように感じました。
「私…おまえを殺そうとしてるんだよ?なのに……なんで逃げようとしないの?なんでこっちに来るの?ごめんね、おまえが嫌いだから殺すんじゃないんだ。仕方ないの……おまえはイケニエなの。あのね……ずっと病気で入院してたママが昨日死んじゃったの。それで今日がお通夜で明日はお葬式なんだって。それが終わったらママは火葬場で焼かれちゃうの……でもね、その前に猫を殺してイケニエにして儀式をすれば悪魔がママが生き返らせてくれるって本に書いてあったの。本当かどうかわからないけど、今はもうそれしかないの!だから……だから……許してね!」
いつまでたっても構えた包丁を振り下ろせないまま、えぐえぐと嗚咽をもらし泣いている麻衣ちゃんの膝にチクリと痛みが走りました。
涙でぐちゃぐちゃの顔を下に向けると、ようやく麻衣ちゃんに辿り着いた子猫が爪を立て、膝によじ登ろうとしていました。
子猫は雨に濡れて母猫から見捨てられ、後ろ足も動かないのに、それでもまだ必死に生きようとしています。麻衣ちゃんに助けて、助けてと懸命に訴えているのです…
それに気が付いた途端オモチャの包丁は鉄の塊のように重みを増して、もう麻衣ちゃんの力では持っていられなくなりました。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
突如麻衣ちゃんは叫ぶように泣き出して、包丁から手を離すとかわりに子猫を抱き上げました。
そしてお気に入りのトレーナーの首元を引っ張るとそのまま子猫を突っ込みます。
「ひゃっ!冷たい!とにかくこの子を温めなくちゃ!」
子猫は麻衣ちゃんの懐の中で、安心したのかおとなしくしています。
「ママ、ごめんね。ママを生き返らせてあげたいんだけど、どうしてもこの子を殺してイケニエにする事ができないの。この子、足が悪くて雨の中ミーちゃんに置いてかれて、ひとりぼっちになっちゃって、私にはまだパパがいるけど、この子には誰もいないの。ママ言ってたよね?自分よりも小さい子や弱い子をいじめちゃだめだって。助けてあげなくちゃいけないって。ママとの約束はやぶったらだめなんだ」
そこまで言うと、麻衣ちゃんはズルズルと鼻をすすりゴシゴシと涙を拭きました。
そして、もう一度トレーナーの首元を引っ張って中を見ます。
子猫の体は麻衣ちゃんの体温と引き換えにだいぶ温まってきたようです。
そして薄く目を開けるとミィ…と鳴いてそのまま目を閉じました。
麻衣ちゃんは最後にもう一度、
「ママ、ごめんなさい」
と、つぶやくと、泥だらけのレッスンバックを掴み、懐の子猫に負担がかからないように来た道をゆっくりと歩きだしました。
◆◆◆
家の近くまで戻ると、夕方を過ぎても帰ってこない麻衣ちゃんを心配したパパと近所の人達が必死になって麻衣ちゃんを探していました。
大変な騒ぎになっていて出るに出られない状況です。
それでも今夜はママのお通夜だし、いつまでも隠れている訳にはいきません。
麻衣ちゃんは怒られるのを覚悟してパパの前に姿を現しました。
「麻衣!一体どこに行ってたんだ!みんな心配したんだぞ!ママが死んで、もしも麻衣になにかあったらパパ…もう生きていけないよ。こんなに泥だらけになって、どこかで転んだのかい?ケガをしてるんじゃないのかい?よく見せてごらん」
麻衣ちゃんはパパに相当怒られると思っていたので拍子抜けしてしまいました。
怒るどころか、パパの目からはたくさん涙が流れています。
初めて見るパパの泣き顔に麻衣ちゃんはびっくりしてしまいました。
そして思いました。
そうかぁ、ママが死んで悲しいのは私だけじゃないんだ。
パパも同じくらい悲しくて寂しいんだなぁ、と。
「パパ……ごめんね。私、どうしてもママを生き返らせたくて猫を殺しに出かけたの。それで……」
『猫を殺しに出かけた』という言葉にギョッとしながらも最後まで話を聞き終えたパパは、小さく息を吐き出しました。
パパは泥だらけになった麻衣ちゃんを見つめ、子猫を生け贄にしたってママは生き返ったりしないんだよ、と教えてあげようと思いました。
「なぁ、麻衣…」
言いけてパパは、やっぱり考え直します。
昔ママによく言われた言葉を思い出したからです。
『麻衣はまだ子供だから、正論ばかりをぶつけちゃダメ。麻衣の気持ちをよーく考えてあげてね』
そうだった……パパはコホンと1つ咳払いをして、
「なぁ、麻衣。子猫をイケニエにしないで助けてあげたんだね。ママを生き返らせることはできなくなったけど、それで良かったんだ。子猫も一生懸命生きている大切な命だからね。麻衣は、途中でそれに気がついたんだよな。えらかったな」
そう言って麻衣ちゃんを抱き上げると、パパは家に向かって歩きはじめました。
一度帰って麻衣ちゃんの服を着替えさせる為です。
しばらくすると疲れてしっまったのか、麻衣ちゃんはパパの胸で静かな寝息をたてはじめました。
その寝顔がとてもママに似ていたので、つい、
「ママ、俺はうまく言えたかな?」
と、聞いてしまいました。
もちろん返事はありません。
「ハハハ…」
パパは恥ずかしそうに笑いました。
少しだけ元気が出たような、そんな気がしました。
◆◆◆
麻衣ちゃんが子猫をイケニエにしそこねた次の日、無事にママのお葬式が終わり最後のお別れに火葬場にやってきました。
「麻衣、ママがお空に登るところ見にいこうか」
そう言ってパパは麻衣ちゃんの手をぎゅっとにぎり外に誘いました。
6月の梅雨の晴れ間。
澄んだ青空に煙となったママがゆらゆらと天に昇っていくのを二人で眺めていると、パパが言いました。
「ママはとうとうお空に行っちゃったなぁ。麻衣、淋しいかい?」
麻衣ちゃんは、どうしてそんな当たり前の事を聞くのだろうと少し腹が立ちました。
淋しくないはずがないじゃない。そうでなかったらママを生き返らそうなんて思わないよ、と。
パパは返事もしないでプイっと頬を膨らます麻衣ちゃんの頭を優しく撫でながら、
「麻衣、今はまだ淋しいかもしれないけどね、ママはちゃんとお空の上の天国から麻衣を見守ってくれるよ。そりゃ今までみたいにお喋りしたり、お出かけしたりはできないけど……」
ママが?見守ってくれるの?
麻衣ちゃんはパパの言葉に少し興味を持ちました。
パパは麻衣ちゃんと目線が合うようにしゃがみこんで続きを話します。
「麻衣はね、これから中学生になって高校生になって大学生になって…そのうち好きな人ができて結婚して、子供が生まれて……どんどん幸せになっていくんだ。その間もずっとママが見守ってくれる。それで麻衣がもっともっと年をとってお婆ちゃんになって大往生でやがて死ぬ時がやってくる。そうすると麻衣も天国に行くんだ。天国に行ったら麻衣の大好きな人に会えるんだけど一体誰だと思う?」
麻衣ちゃんは、まさか…まさか…!という気持ちが抑えられず、思わず笑顔になってしまいます。
そして、わくわくしながらパパに聞きました。
「もしかして…もしかして…ママ?」
「そう!大当たり!だからね今は少し淋しいかもしれないけど必ずまた会えるんだよ。ママは麻衣の事が大好きだから、天国に行った時に麻衣の話をいっぱい聞かせてって言うと思うんだ。だから麻衣はこれからたくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん勉強して、たくさん友達を作って…長い長い麻衣の幸せな人生をママに聞かせてあげてほしいんだ」
「そうだったんだ!それなら私、淋しくないよ!またいつかママに会えるの楽しみにしてる!」
「そうだね。だから一緒に頑張って楽しく生きて行こうな。それから明日はミー子の為にペットショップに買い物に行くぞ。足が悪くたって大丈夫だ。パパと麻衣でたくさん可愛がって幸せにしてやろう」
「うん!」
イケニエになるはずだったキジトラの子猫は麻衣ちゃんの新しい家族になるようです。
元気に返事をした麻衣ちゃんの頭をガシガシと撫でてパパは立ち上がりました。
そして、
「さあ、麻衣。天国に行くママにここから一緒に手をふろう」
「そうだね。ママにバイバイしなくちゃ!」
麻衣ちゃんは大きく息を吸い込んで、高い空まで聞こえるようにお腹の底から思いっきり大きな声を出しました。
「ママー!またねぇ!天国に着いたら私とパパとミー子の事見守っててね!バイバーイ!バイバーイ!」
元気に手を振り続ける麻衣ちゃんの後ろで、パパも大きく手を振っています。
二人とももう泣いていません。
とても楽しそうな顔をしています。
と、その時ぴゅうっと風が吹きました。
右に左に変則的な、ちょっと不思議な風です。
その風は麻衣ちゃんの前髪を撫で、パパの頬をかすめると空高く舞いあがりました。
そしてママの煙をゆっくりと左右に動かしました。
まるで麻衣ちゃんとパパにバイバイをしているかのように。
了