第十八話 生きる希望を
白夜というものを初めて見た。霧が晴れた地平線に朱を引いたような幻想的な風景。兵舎に戻る途中の草原で綾瀬コウは、しばしその光景を見つめていた。
ロパトカ岬からの砲撃の翌日、占守島に展開する第73旅団司令部の方針が独立歩兵283大隊にも伝えられた。要約すると、先制攻撃は厳禁、ただし止むを得ない状況下での自衛の為の戦闘は妨げず。昨日をもって日本は敗戦国となった。今はただ、武装解除のために連合国が到着するのを待っているはずだった。
大隊本部の地下壕で、コウは大隊長竹下少佐から所感を求められた。会議机に座するのは皆、大尉以上の将校である。コウは緊張の面持ちで軍帽を小脇に抱え、末席で直立不動の姿勢を取っていた。目下、コウの不安は確実に始まるエンペラーガーディアンを生き抜くために必要な兵の士気が下がっていること。ロパトカ岬からの砲撃で幾分かは緊張が戻ったとは言え、心許なかった。
なんとか戦時下体制を維持してもらうためには上級将校からの号令がいる。
「満州、樺太での戦闘は終わってないと聞きます。不可侵条約を一方的に破ったソ連が、千島を例外にする合理的な理由が見つかりません。」
コウの発言に列席者の多くが頷く。NGワードはないはずだ。
「綾瀬少尉はどう見る?」
竹下少佐からの質問に、コウは思い切って発言してみた。
「はい、ソ連軍は我が軍を挑発していますように見えました。戦端を開く口実が欲しいのでしょう。停戦した今、我が方から仕掛けるはずがありませんから、焦っているのでは、と。」
竹下少佐は大きく頷き、兵の士気、練度とも落とさないよう各中隊長に命じた。
このゲームのシチュエーションを反芻したとき、一つだけコウを安心させたことがある。椎名さくらの所属が野戦病院だということ。後方の病院勤務であれば、前線に赴くことはないだろう。図らずとも、さくらが口にしていた「後ろに下がる」状況が出来ている。後はコウ自身が銃を取って戦う覚悟を決めることだ。何としてでも戻りたい、死にたくなんかない。痛い思いもしたくはない。
しかし、コウに纏わりついて離れないものがある。あえて、さくらに話さなかった疑問を解消する一語。どう見ても人間にしか見えない彼ら。上陸してくるソ連軍もそうなのではないのか。もし、撃ってしまったら人を殺すことになるのではないのか。兵舎に帰ってからも、そのことがコウの頭から消えることはなかった。
8月17日。独立歩兵283大隊を始め、各歩兵部隊は通常通りの作業を行う。戦時下体制の継続という方針もあり、実弾を使用した射撃訓練も実戦さながらの想定で為された。この時、コウも生まれて初めて引き金を引いた。午前中にはオホーツク海から張り出した濃霧が占守島全体を覆ってしまった。
昨日より、断続的に上空から航空機のエンジン音が聞こえてくる。公式には国籍不明機とされていたが、ほとんどの将兵はソ連機と認識している。ある現役兵は米軍機のエンジン音ではないと言っていたからそうなのだろう。訓練後コウは兵舎の烹炊室に寄ってから、野戦病院へさくらを訪ねた。士官室では何人かの将校がウィスキーを手に静かに飲んでいる。彼らと距離を置いた場所に2人は腰掛け、烹炊係に用意してもらったアルミの皿に盛られたカマボコと日本酒の瓶をさくらの前に出した。
「どうしたの?」
さくらは肩の下まである髪をほどきながら、不思議そうに聞いた。
「いよいよか、と思ったら話でもしてないと冷静じゃいられない気がして。酒保開けてもらった。さくらは?大丈夫か?」
日本酒を注ぎながら尋ねる。
「うん。自分でも驚いちゃうくらい。」
いざとなると男の方が弱いのかも知れないな、とコウは苦笑した。
「ね、戻ったら久しぶりに飲みに行きません?もちろん綾瀬さんの奢りで。」
さくらは上目遣いにいたずらっぽく笑う。
「いいね。半年ぶりくらいか。」
「わたしたち、たまにしかラインしないもんね。」
そうか、生きるって未来を想うことなんだ。帰ったらさくらと飲みに行く。それだけで十分な希望だ。楽しみを脳の中心に据え、恐怖を酒で押し流す。
「次に俺がさくらの顔を見るのは戻ってからだ。飲みの約束、必ず守れよ。」
一升瓶を三分の一ほど空けたところでコウはさくらと誓いの握手をした。さくらも力強く頷いた。