9 「口に入れなければ大丈夫」
「あのさ、みっちゃん。十和に何かあったんすか?」
八重が三潮へ、直球過ぎる問いを投げつけたのは、州浜との遭遇から二日後の授業中だった。
今日は写生のため、全員で近くの植物園を訪れている。
「どういう意味だ」
努めて表情を押し殺した三潮へ、気のせいだったらいいですけど、と八重は前置きした。
「なーんか、妙にビクついてるっていうか。今朝も、すれ違うサラリーマンのオッサン相手に、すごい挙動不審になってまして」
「……そうか」
うめくように相槌を打ち、三潮は心中で深く後悔した。
十和は恐らく今まで、暴力とは無縁の生活を送って来た少女だ。
それが突然、前置きもなく、あのような殺意の応酬に巻き込まれたのだ。どれだけ神経をすり減らしたことだろう。
暗い空気を背負った三潮を眺め、八重も不審がる。
「まさかみっちゃん……勢い余って、本気で十和に何かしたんじゃ」
「するわけないだろうッ!」
「ですよねー。みっちゃんに、そんな度胸ないっすよね」
すかさず噛みつくように怒鳴り返せば、せせら笑いであしらわれた。
三潮はこの、十和の友人がどうにも嫌いというか、苦手であった。
こいつに付きまとわれるぐらいなら、こっそり十和を見守っていたいのに……等と考えつつ、辺りを見回すと。
十和はベンチに座り、沈んだ様子だった。
ぼんやりとした様子で鉛筆を動かし、時折手を休めては、深いため息をついている。
三潮の視線の行き先に気付いたのだろう。訳知り顔で、八重が三潮の肩を叩く。
「ほらね? なんかしょんぼりしてるでしょ?」
「あ、ああ……」
三潮の良心は血だらけだった。いっそ泣いてひれ伏し、十和へ許しを乞いたい思いに駆られる。
深い罪悪感に打ちひしがれていると、視界がみるみる内に歪み始めた。それも、真っ赤に。
「だからって、みっちゃんまで暗くなっちゃだめでしょうが──ぎゃああ!」
実際に泣き出したどころか、血の涙を流し始めた三潮に、八重が飛び上がる。
三潮も、手の甲にぽとりと落ちた血痕を見下ろし、さすがにたじろいだ。
「うぉっ」
「リアクション薄いな、あんた! どんな体の構造してるんです! ってか、どっかのマリア像か何かっすか?」
「私にも、何が何やらさっぱり見当も付かん──ぐっ」
鼻血対策用のタオルで涙を拭っていると、延髄を八重に叩かれる。
それも容赦ない力で、何度も、同じ部位を、ビシビシと。
「鼻血の時は首の後ろを叩けって言うけど、これでいいんすかね?」
鼻血以前に意識を失いかねないので、その手を強引に振り切った。
「……貴様には、手加減という概念が存在しないのか?」
絶対首筋に痣が出来ている、と三潮は確信していた。
そもそも鼻血の際、首の後ろを叩くのは逆効果である。
しかし八重に悪びれた様子などなく、むしろ平たい胸でふんぞり返る。
「泣き出したオッサンに、どうこう言われる筋合いないですね。しょぼくれてる暇あったら、十和を励ましてあげたらどうっすか?」
「露芝を激励?」
「そうそう。たとえば」
ぐるり、と八重は周囲を見渡す。
ここは植物園。周りにあるものは、もちろん鮮やかな花々。そして怪しげな植物たち。
「花束とか、贈ったら喜ぶんじゃないですか? そんなに高くないから、十和も断らずに受け取りそうですし」
「成程。貴様にしては妙案だな」
「みっちゃんって、何気にすごい口悪いっすよね」
ふてくされる八重を捨て置き、三潮は腕を組んで考える。しかし途中で振り返り、
「おい。写生に来ているんだ。時間内に必ず終わらせろ」
「はーい」
白紙のスケッチブックと八重をにらみつけ、教師としての責務もこなす。
授業時間である二時間を丸々使った写生会であったが、その間も十和はずっと暗い表情だった。
八重をはじめとする友人に話しかけられれば笑顔になるし、六斗にちょっかいを出されれば呆れ顔で追い払うのだが。
ふと一人になった途端、どこか思い詰めた顔になっている。
それが三潮には、とても寂しく、同時に申し訳なく思えた。
だから植物園の中を瞬間移動で飛び回り、花を探した。
そして、これぞ!という逸品を見つけ出す。
それは温室で咲いていた、真っ赤で個性的な花だった。ガラス細工のような、不思議な形をしている。
根元近くから引っこ抜き、即席の花束とする。
そして十和の眼前へ飛び、それを差し出したところ。
「きゃああああ!」
のけぞって、叫ばれた。
続いて花束を握る泥だらけの手を、猫の手パンチで思いきり叩かれる。
真っ赤な花はその勢いで、地面へ叩きつけられた。途端に、三潮の心も沈む。
また、血の涙を流してしまいそうだ。
「先生の物知らず! なんてものを集めてるんですか!」
青ざめる三潮へお構いなしに、十和が怒鳴る。
尋常ならざるその勢いに、周囲の生徒たちも騒然となっていた。
「この花は彼岸花! 球根に強い毒があるんですよ!」
「えっ」
「死んじゃってもおかしくない、危ないお花なんです!」
髪を振り乱し、潤んだ瞳で怒鳴る十和は、どうやら三潮を案じて彼岸花を叩き落としたらしい。
「……すまん」
三潮は頭を深々と、地面へめり込まん勢いで下げた。
十和を喜ばせるつもりが、心配されたことに内心凄く喜んでしまった。
そのことも含めての謝罪だった。
ここで八重がすっ飛んできて、三潮の隣で頭を下げる。
「ごめん! あたしが入れ知恵したの! 十和が元気なさそうだから、花でも贈ってあげたらって」
「私が、元気なさそうだった……?」
呆けて呟く十和へ、三潮は顔を上げて首肯する。
「ああ」
「ごめんなさい……心配してくれたんですね」
悲しげに笑う十和へ、三潮は大慌てで首を振る。
「面目ないのは、私の方だ! 風変わりな花に見えたので、少しでも露芝の心を和ませられればと思ったのだが……毒入りだったとは」
言いつつ、触れても大丈夫なのかが不安になり、じっと手を見た。
その様子に、十和が笑う。
「口に入れなければ大丈夫、とおばあちゃんも言ってました。念のために、後で手を洗いましょうね」
「すまん」
肩を落とした三潮へ、八重が言葉を重ねる。
「あと、植物園の人にも謝らないと駄目っすね」
「何故だ」
「何故って、あんた。植物園の花は、勝手に引っこ抜いちゃ駄目に決まってるでしょ?」
「何だと。入園料を支払っているにも関わらず、駄目なのか?」
「入園料は、花の世話賃とか、建物の維持費に使われるんすよ」
目を見開いた三潮へ、同じく目を見開いて八重が呆れ返る。
三潮手製の花束をハンカチ越しに拾い上げ、十和も嘆息をつく。
「よく見れば、結構な本数を抜いてますね……」
「ああ……」
「ひょっとして、根こそぎ持って来ちゃいましたか?」
「ああ……」
もうあまりにも申し訳なさ過ぎて、「すまん」すら言えなかった。
そして女子高生二人に伴われ、土下座する勢いで謝り倒す美術教師に、植物園の管理者もかえって罪悪感を覚えるのであった。
なお、引っこ抜かれた彼岸花は許可を得て持ち帰り、十和の自宅に飾られている。