8 「それではまるで、拷問ではないか!」
本屋の最上段の棚を見上げ、十和は悩んでいた。
お目当ての小説が、そこに陳列されているのだ。
つま先立ちで手を伸ばそうとも、十センチほど届きそうにない。
とはいえ、周囲に踏み台もない。
そして店員も見当たらない。さて、どうしたものか。
「仕方ないよね。レジにいる店員さんへ、お願いするしか──あら?」
本を見上げる視線の端に、ひょろりとした腕が見えた。
その腕は易々と、十和が欲していた小説を引き抜き、そして彼女へ差し出した。
「これだな?」
「ありがとうございます、先生……」
相変わらず神出鬼没の三潮に、十和は疲れた視線を向けるだけだった。
静かなその反応がかえって怖かったらしく、三潮は訊いてもいないのに真顔でまくし立てる。
「決してお前を尾行していたわけではない。ただ、提出物の採点をしていた際に、露芝の名前を見つけて、ふと、お前を思い出してしまった」
「それで、上履きのままなんですね」
上履きという名の便所スリッパを指さされ、三潮は険しい顔で重々しくうなずく。
「靴でお前の家に入るよりは、よほど良いかと」
「どっちもどっちですよ。でも、ありがとうございます」
本を受け取り、十和は小さく微笑んだ。
「あと、鼻血は厳禁ですから」
しかし、すぐさま真っ赤になった三潮へ、釘を刺すのも忘れない。
流血事件を迎えることもなく、十和は無事に本を買い終え、三潮を伴って外へ出る。
「それじゃあ先生。お仕事の続き、頑張って下さいね」
問答無用で手を振った十和を見下ろし、三潮は無言で固まる。
その全身から発せられるのは、捨てられた猫の哀愁。
やはり……と、十和はうんざり顔になる。
「送ってもらわなくても、大丈夫ですから」
「しかし露芝」
「今日は晴天ですし、家まであと五分の距離です。さぁ先生、さっさとお仕事に戻りましょう」
「……ようやく露芝の顔を、この目に映すことが出来たというのに!」
血でも一緒に吐き出しかねない、鬼哭啾啾たる嘆きだった。
その思いの外大きな声に、通行人も思わず立ち止まる。そして大人しそうな女子高生と病弱そうな男性を、好奇心丸出しで眺めて行く。
今度は十和が赤面する番であった。
三潮の指摘通り、本日は美術の授業がなかった。
ついでに述べれば、ここ二日ほど、自分の教室で昼食を取っている。
「ほらっ……明日また、運が良ければ、学校で会えるでしょう?」
「運任せ等では困る! 私は露芝に飢えている!」
「そう、言われても……」
普段以上に食い下がる三潮へ、十和はあうあうと混乱することしか出来なかった。
その時。
不意にスーツ姿の男性がやって来て、背後からぽん、と三潮の肩を叩いた。
「鶴菱サン、女性に無理強いするのはいけませんよぉ」
間延びしたその言葉に違和感を覚え、十和は眉を寄せる。
続いて気付く。
このサラリーマン然とした眼鏡の男が、三潮の名前を知っていたことに。
三潮も振り返り、表情を凍りつかせていた。
「九太郎……ッ! 貴様が何故、ここにいる!」
「いえね、鶴菱サン。何故も何も、アナタが帰って来てくれないから、こうしてワタクシがお呼びしてるんじゃないですかぁ。それから、苗字の州浜でお呼び下さいと、以前から申し上げてるでしょぉ?」
州浜なる男が空の手から火球を発生させるのと、三潮が十和を抱えて五メートル先へ転移するのはほぼ同時だった。
つい先ほどまで、二人が突っ立って口論していた地面が、丸焦げになっていた。
訳の分からない通行人たちは、無言で三人から距離を取り、遠巻きになる。
そして訳が分からないのは、十和も同じだった。自分を抱える三潮を見上げる。
束の間、三潮も十和を見た。
「あの慇懃無礼な男は、州浜 九太郎。私のいた結社の刺客だ」
「刺客だなんて……そんな時代劇みたいな職業、今もあるんですか?」
「ある。そして奴のせいで、私は大学四年間に十八回も転居する憂き目を見た」
十八回の引っ越しに伴う費用を脳内ではじき出している内に、十和は道の小脇へ放り出された。
そして三潮は単身、州浜目がけて飛ぶ。
州浜は両腕に炎をまとい、三潮を迎え撃った。野暮ったい容姿とは裏腹の、素早い打撃だ。
三潮も、州浜の殴打を消失によって回避しつつ、死角に出現しては反撃を与える。
それを再び、燃える腕が防いだ。
映画やアニメとは違う、効果音も叫び声もない無音の攻防は、非現実的かつ不気味だった。
そして何よりも、十和は恐ろしかった。
衣服が焦げようとも、肌が焼かれようとも、眉一つ動かさずに州浜と対峙する三潮が。
足にも炎をまとい、州浜が大きな回し蹴りを繰り出した。
三潮はその蹴りを受け止める寸前で消える。次いで州浜の真横に現れ、彼の顔面へ裏拳を叩き込んだ。鞭のようにしなった手首は、州浜の眠そうな横顔にめりこんだ。
州浜が鼻血と共に眼鏡をすっ飛ばすのと、街中のスピーカーから「蛍の光」が流れ始めるのは、ほぼ同時だった。
「おやおや、もう五時ですかぁ。終業時刻が来てしまいましたので、また勝負はお預けですねぇ」
炎を消し、眼鏡を拾い上げ、州浜は皮の腕時計をのぞきこむ。不思議なことに、彼の肌や衣服にも、炎の名残りは見当たらない。
三潮は無言のまま、腰を落とした構えで州浜をにらんでいる。
「そう怖い顔をなさらないで下さいよぉ。ワタクシども『秘密結社 麻の葉会』は、社員と地域に優しい仕事がモットー。そしてワタクシも、残業はしないのがモットーですからぁ」
今は害意を持っていない、と両手を挙げたまま、あからさまな作り笑いを浮かべる州浜。
「さっさと失せろ」
三潮もようやく背筋を伸ばし、吐き捨てる。
自分達を取り巻くギャラリーの中にすべりこみ、州浜は逃げた。
そして三潮も、遠巻きにへたり込んでいた十和の手を取り、消えた。
十和はそれまで、三潮が語っていた
「秘密結社に人体実験を施され、瞬間移動能力を手に入れた」
という過去を、話半分に聞いていた。
いや、八割ぐらいはデタラメだろう、と決め込んでいた。超能力の存在と比べても、悪の秘密結社はあまりにも荒唐無稽だ。
そのため本日の遭遇に、彼女は全身を震わせていた。
「露芝、もう安全だ──露芝?」
十和の自宅玄関前まで瞬間移動した三潮は、家を見上げ、そして十和が無言であることに気付く。同時に、うつむく彼女が酷く怯えていることにも。
彼は無言で、十和から退いた。
一歩、二歩、三歩……ゆっくりと後退し、蚊の鳴くような声で呟いた。
「すまん」
こぼれ出たのは彼の口癖だったが、そのあまりにも弱々しい語調に、十和の顔も跳ね上がる。
無表情に炎を操る存在と戦っていた男が、今は顔をぐしゃぐしゃに歪め、泣き出しそうになっていた。
十和の心が、その心底情けなくて、そして悲しそうな表情にぐらりと揺れる。
お節介な彼女に、このまま三潮を突き放すことなど出来なかった。
代わりに、十和は小さな子供をあやすような、柔らかい笑みを浮かべた。
「逃げないで下さい。私は大丈夫ですから、ね?」
今度は彼女から、距離を詰めた。ゆっくりと、三潮の顔を見つめながら。
「先生に怒ったりしてませんよ。さっきのあの人は、怖かったけど」
「すまなかった。公衆の面前であろうと能力を使う、奴の無神経さを考慮に入れておくべきだった」
その点はあなたも同類ですよ、とは今回は言わずにいてあげる。
「先生はずっと、あの人に追いかけられていたの?」
「ああ」
「怖くなかったんですか?」
「……慣れた」
言葉の割に、三潮はまた泣きそうな顔になっている。
「今更、格好付けなくてもいいですよ」
たまらず吹き出し、十和は手招きする。
「あちこち怪我してますよ。消毒ぐらい出来ますから、うちに入って下さい」
「いいのか?」
「咄嗟に私のこと、隠してくれましたよね? だからお礼です」
その言葉に、今まで青白かった三潮の顔が、色を取り戻し過ぎて赤くなる。
そして大慌てで、ジーンズの後ろポケットからタオルハンカチを取り出した。
「案ずるな。鼻血対策なら、用意している」
「鼻血が出た時の対策じゃなくて、鼻血を出さないための対策を立てて下さい!」
いつものぷりぷり顔に戻り、十和が猫の手パンチでタオルをはたく。
三潮はタオルを庇うように抱きしめながら、疑わしげな様相になった。
「鼻血を出さずに済む方法など、あるのか……?」
「ありますよ。耳鼻科に行けば、鼻の血管を焼いてくれます」
「血管を焼き切る、だと……? それではまるで、拷問ではないか!」
三潮が絶叫する。
先ほどまで、発火能力者と一戦を交えていた男の発言とは思えなかった。
怖がって損した、と十和は肩を落とした。