7 「滝のようですよ」
来るなと言われても、三潮が十和宅へ飛んでくることは度々あった。
だがそれも、常識的な時間内での瞬間移動ばかりだったのだが。
「こんな夜に珍しいですね」
「すまん」
風呂から上がった十和が部屋に入ると、既に靴を脱いだ三潮が律儀に正座していた。
切腹前の、武士のような面持ちである。
しかし三潮の顔は、普段より血色が良い。これは決して、十和のパジャマ姿に浮かれているだけではないだろう。
ついでに、なんだかアルコール臭もする。
「お酒を飲まれたんですか?」
「飲み会というものに、誘われたのだが」
ぽつぽつと、苦しげに呟く三潮の言葉を、十和が継いだ。
「途中で、逃げて来ちゃったんですね」
三潮は無言でこくり、とうなずいた。
はぁ、と十和は息を吐く。
「先生。もう大人ですよね? 嫌なら嫌と、断ればいいじゃないですか」
「中庭を通り、裏道から逃亡を図ったのだが、体育教官のゴリ松に発見され……」
「どうして同僚の先生を、そこまで怖がっているんですっ」
髪を拭っていたタオルを握り、十和が思わず叱りつけた。
だが、ヘビースモーカーで声の大きな体育教官の笠松──通称ゴリ松と、三潮の相性が良いとは、さすがに彼女も思えなかった。
それに彼女は今夜、ちょっとした楽しみを用意していた。
楽しみをほっぽり出して、三潮の人見知りを叱るのも馬鹿らしくなり、代わりに手招きする。
「これから映画を観るんですけど、先生も観て行きますか?」
背筋をピンと伸ばし、三潮は目を大きくした。
「映画ならば、私も時折観賞している」
「たとえば?」
「『マーズ・アタック!』や『カッコーの巣の上で』や」
ジャック・ニコルソンが好きなのだろうか。
「何となく分かったので、もう充分です。アニメ映画ですけど、観ます?」
「露芝が好むものならば、観たい」
「そ、そういうのはいいですからっ」
相も変わらず真っ直ぐな好意に頬を染めながら、十和は足早に部屋を出た。
三潮も靴を抱きしめたまま、それを追いかける。
十和が楽しみにしていたのは、ヴァイキングの少年とドラゴンの交流を主題にしたCGアニメーション映画であった。
居間のテレビの前で、二人揃って膝を抱える。
隣り合うと呼ぶには遠すぎる距離に、ジュースを持って来た母が思わず吹き出す。
「すごい距離の取り方ねぇー。みっちゃん先生、もっとテレビの近くにいらっしゃったら?」
「それでは、露芝に近すぎる!」
真っ赤な顔で、三潮が即座に拒否した。
「だからそういうことを、大声で言わないで下さいっ」
言われた本人も照れ臭く、思わずタオルで顔を隠す。
その様を眺め、母はコロコロと笑って自室へ消えた。
十和は頭を振って気持ちを切り替え、デッキの再生ボタンを押す。
「映画館で観て感動して、それでディスクも買っちゃったんです」
「なるほど」
冒頭で会話をしたきり、二人は無言で観続けた。
話は至極王道。憎み合うヴァイキングとドラゴンの宿命を、主人公たちの友情が変えていくという筋書きだ。
だからこそ、少しずつお互いを理解し合う、少年とドラゴンの姿に惹きこまれる。
合間に挿入される、登場人物たちのコミカルなやり取りも、心を和ませた。
加えて述べれば、少年と仲良くなるドラゴンが非常に可愛らしいのだ。
どことなく容姿が猫に似ており、猫好きの十和としては、それだけで大満足である。
そして映画も終盤へ。
傷だらけになりながらも寄り添って、和解という選択肢を選んだ両者の姿には涙を誘われる。
十和も二度目の観賞だというのに、涙ぐんでしまった。
そして右をちらりと見、思わず見返した。
「やだっ、号泣じゃないですか」
「本当か」
「滝のようですよ」
「イグアスの滝の如く、か?」
「うーん……那智滝、ぐらいだと思います」
十和の指摘通り、三潮はハラハラというか、ボロボロと涙をこぼしていた。
だが、何故か無表情のままだった。嗚咽も漏らさず、ただ涙腺が壊れたかのように水分をだだ流している。
正直、少し薄気味悪い情景ではあった。十和はもう半歩ほど、距離を取った。
「……映画が、泣くほどつまらなかったですか?」
「いや、むしろ良かった」
「じゃあ、感動して泣いてくれたんですね?」
「恐らく」
静かに目を細めてうなずく三潮は、日向ぼっこする猫を連想させた。
ティッシュを渡しながら、十和は思わず笑う。
「先生って、このドラゴンにちょっと似てますよね」
「何?」
「どことなく、猫っぽいところが」
「……納得いかん」
ディスクのパッケージを指さすと、ふてくされた表情になったのだが、
「ほら。その顔なんてよく似てますよ」
そう言って笑うと、無言で鼻をかんだ。