6 「むしろ裏返り、大破する」
雨が降っていた。
それも横殴りで、風もびゅうびゅうと吹き荒れている、大雨である。
「これじゃあ、傘差しても意味ないな」
職員室前の廊下の窓にもたれかかり、八重が肩を落とす。彼女が手にしているのは、無地の折り畳み傘。
こんなもので外へ出ようものなら、一瞬で傘が裏返ってずぶ濡れになるだろう。
八重は職員室に入った、十和を待っていた。日直であった十和は、几帳面に書きこんだ日誌片手に、担任へお小言を言っているはずだ。
「先生。蛍光灯が切れたままになっています。早く用務員の方に、交換をお願いして下さい」
「いや、そう言われてもね、先生も結構忙しくて」
「それなら私が言います。用務員さんはどちらですか?」
「あーあー……もう、分かったよ。今日中に言うからさ!」
といった会話を交わしているのだろう、と想像して笑っていると、廊下の角から音もなく人影が現れた。
生気に乏しく幽鬼のような彼は、存在感がないように見せかけてよく目立つ。
「あ、みっちゃん。お疲れ」
「みっちゃんと呼ぶな」
美術教師の三潮は、舌打ちしかねない不機嫌顔でむっつりと応じた。
十和の友人でなければ、おそらく無視されていただろうな、と八重は察知する。
案の定、何かを期待して八重の周囲を見回す三潮に、彼女は思わず吹き出した。
「十和なら職員室。みっちゃんって、十和以外に趣味ないんすか? ほら、野球観戦とか」
言いつつ、この男はスポーツの類とは無縁だろう、と八重は考えていた。
「くだらん」
「あ、そ」
思った通りの回答に、肩をすくめる。
その時、八重はふと思いつく。
「じゃあ、暇してるなら家まで送ってくださいよ」
「断る」
「えーっ?」
にべもない即答だった。
嘆き顔で、八重はみじめっぽく三潮へすがりつこうとするが、思いきり避けられた。
「断るのはともかく、なんで避けるんすか!」
抗議をしても、三潮は渋い顔のままだ。だが、ここで折れる八重ではない。
「ふーん……それならこの酷い仕打ち、十和にチクっちゃおうかな」
「おい、待て!」
「嫌っすよ、お断りです。だってさっき、速攻で断られたもーん」
「貴様……脅迫のつもりか!」
三潮は青い顔で慌てた。分かりやす過ぎる反応に、八重は笑いがじわじわとこみ上げてくる。
そこへ実にタイミング良く、十和が戻って来た。彼女は柔和な笑顔で、焦る三潮とニヤつく八重を見比べた。
「あら、なんだか仲良しですね」
「違うッ!」
裏返った声で否定する三潮に、八重は我慢の限界だった。
とうとう体をくの字にして、大笑いする。
そこでからかわれたと気付いた三潮は、射殺しかねない眼力で、じろりと八重をにらんだ。さすがに相手が十和の友人だからか、手は出さないらしい。
「もう、先生をからかっちゃ可哀想でしょ」
八重をたしなめつつ、十和は窓の外で荒れ狂う暴風雨を見た。
「酷い雨ね。どうしよう……」
窓ガラスを撫で、憂い顔になる十和。
そんな彼女に見とれている三潮の脇腹を、八重はツンツン、というかドスドスと拳で突いた。
瞬時にギロリ、と鬼の形相が返って来るが、視線で十和を示すと意図が伝わったらしい。
「おい、露芝」
「はい、何でしょう?」
「……送って行く」
真っ赤になって強張りながら、三潮が低い声を何とか絞り出す。
十和は驚き、次いで両手を大きく左右に振った。
「いえ、違うんです! そういう意味でさっき言ったわけじゃ!」
彼女の力いっぱいの拒否に、少し傷ついた空気を漂わせつつも、三潮は歯を食いしばって踏みとどまった。
「だが事実、大雨だ。Wow-Foo-Hello警報も出ている」
「Wow-Foo……」
突如躍り出て来た英単語に、十和はしばし眉を潜める。
「ああ、暴風波浪警報ですね? どんな耳をしているんですか、先生」
「ぼう、ふう?」
今度は三潮がきりりとした眉を潜めて、十和を苦笑させる。
「暴風波浪警報。大風と大波の警報です。海も遠いですし、大丈夫ですよ」
「だが暴風ならば、傘を差しても無意味だ。むしろ裏返り、大破する」
「気にしません、安い傘ですから。それより、先生だって濡れちゃいます」
「瞬間移動を駆使すれば、仔細ない」
この駄目押しに、ワイパーのように振られていた十和の手が止まる。
そしてちろり、と彼女は親友を見た。
八重はもちろん笑顔でうなずく。
「みっちゃんが言ってくれてるんだ。ありがたく親切を受け取ろう」
背中を押され、十和も安堵の笑顔になる。
「そう、よね……それじゃあ先生、お願いします」
律儀にしおらしく頭を下げる姿も、恐らく三潮にとっては可愛らしいのだろう。
耳と言わず、シャツからのぞく鎖骨周辺まで真っ赤にして、三潮はゴニョゴニョと口の中で何かを呟く。大方、「ああ」や「任せろ」といった程度の言葉だろう。
照れまくる三潮へ顔を上げ、十和は少し怖い顔になった。
「ただし。着地地点を私の部屋にしないで下さいね? お部屋のラグを、新しくしたばかりなんですから」
「……善処する」
自信がなさそうに呟く三潮に、また八重は吹き出しかけた。
モラリストでもなんでもない、一介の高校生である八重にとって、三潮の恋路は応援の対象だった。
昔気質な親友に青春を目いっぱい楽しんで欲しい、という優しさも理由だったが、何よりも三潮の挙動が大きな理由だ。
十和を餌におちょくると、とにかく面白いのだ。