4 「それはきっと、ヨーロッパサイズ」
親友である八重からは「古風」、「お堅い」、「頭の中身が一昔前」などと言われる十和であったが、一応は今を生きる女子高校生。
宿題ももちろんこなすものの、息抜きだってする。
今も壁にぶち当たった宿題から一時撤退し、小説を読んでいた。SF小説だ。
「タオル一枚持って、目的もなく宇宙旅行……それもありよね」
ベッドに寝転がってお気に入りの小説を読みつつ、気の抜けた笑顔になる。
しかしふと、視線を上に向けると、
「何を読んでいるんだ、露芝」
三潮の能面のような顔とぶつかった。
「きゃあ!」
叫んで、本を抱きしめ、壁際まで後ずさる。
三潮は傷ついたのか、眉間に深い皺を作った。
「何故叫ぶ、何故距離を取る」
「せっ……先生がまた、予告なく現れるからでしょう!」
「己の制御が不可能な私に、予告などもってのほかだ」
何故か開き直った三潮は、十和が抱きしめる文庫本の表紙に目を留めた。
「『DON'T PANIC!』──狼狽するなかれ、か……今の私には、耳に痛い言葉だ」
「そこはマイルドに、『パニクるな』という訳で良いと思います。それで今日は、何に狼狽しちゃったんですか?」
「靴のサイズだ」
「サイズ?」
思わず十和は、目をぱちくりさせる。長い睫に魅入られ、三潮はつい身を乗り出しそうになっていた。
それに気付いた様子もなく、十和は不思議そうな表情のままだ。
「靴のサイズは、靴の中や裏側や、値札に書いてあるんじゃないでしょうか?」
「あったのだが、面妖なる表記だった。七や八といった、一桁なのだ……二十の桁は、どこへ行った?」
「うーん……それはきっと、ヨーロッパサイズなんだと思いますよ」
詳しくは私も分かりませんが、と答えながら、十和は改めて三潮をにらんだ。
「ところで先生。前にも言いましたよね? 土足で入って来ないでって」
「すまん」
慣れた様子で二十六センチの靴を脱ぐ三潮へ、十和はなおも冷たい視線を投げかける。
「外で困ったことがあったら、人見知りせずに周りの方に訊いて下さい、とも言いましたよね?」
「すまん」
うなだれる三潮に一瞬躊躇するものの、十和は追撃の手を緩めなかった。
「そもそも、先生が瞬間移動した時に私が着替え中だったら、どうするつもりなんですかっ」
極論を持ち出し、十和は彼の非常識さを改めさせようとした。それだけだったのだが。
着替えという単語によって、教師にあるまじき想像をしたらしい。
三潮の白い顔は、見る見るうちに赤くなり。
そして、鼻血を出した。
割と勢いよく、ごぷりと溢れ出る。
「きゃあああああ!」
当人ではなく、スプラッターを目撃した十和が絶叫する。
「せ、せせせ、先生! 鼻血! 開きっぱなしの蛇口みたいに、どぼどぼ出てます!」
「なんだと」
妄想を振りほどくのに必死だった三潮は、そこで自分の白いシャツが赤く染まりつつあると気付いた。
「いかん、露芝の部屋を汚してしまう」
「いいからそんなの! ティッシュで押さえて、じっとして!」
涙目の十和はベッドから転げ落ち、可愛らしいカバーに包まれたティッシュをひったくる。
しかし、むしりとったティッシュを何枚押さえつけようとも、鼻血の猛威は治まることを知らない。
「我ながら、凄い出血量だな。死んでしまうのだろうか」
「鼻血なんかで死にません!」
縁起でもない冗談に怒鳴りつつも、十和の涙は止まらない。
そして鼻血も止まらない。
「ああ、どうしよう……ティッシュじゃ追いつかない……先生待ってて、タオルを取って来ますから」
「いや、それは駄目だ」
外へ出ようとした十和を、三潮が制止する。
「タオルまで私の血で汚すわけにはいかない。すぐ帰る」
「いえ、でも、先生……その鼻血は……」
「その内止まる、だろう」
「ほら、先生も半信半疑じゃないですか! 駄目ですって!」
「お前のタオルを汚す等、私の良心が許せん!」
謎の理論を振りかざし、三潮は強引に部屋を出て行った。片手で鼻梁の高い鼻を押さえ、もう片手でちゃんと靴を持って。
十和ももちろんその背中を、ティッシュ箱を抱えて追いかけて行った。追いすがら、廊下や階段にぽつりぽつりと落ちる血痕を、あわあわと拭い取る。
そして彼を引っ張ろうとして、また鼻血を吹き出されては大変と手をひっこめ、声だけ投げかける。
「やっぱり先生、もう少し休んで下さい」
「必要ない。心なしか、出血量も落ち着いた気がする」
「それは頭と目が、慣れちゃっただけです。今も絶えず、流れ続けていますっ」
ほら、と真っ赤なティッシュを振りかざしたところで、階段を下り終えた。そして、第三者と鉢合わせる。
パートから帰って来た、十和の母だった。
驚愕あるいは激怒するかと思いきや、母は三潮と十和を交互に見て、人なつっこい笑顔になる。
「あら先生。またテレポしちゃったんですね」
どうやら前科がバレていたらしい。
人見知りの激しい三潮は、途端にギクリとした。その拍子に、鼻血も引っ込む。
「……テレポではなく、瞬間移動だ」
ぼそりと訂正だけ入れて、母の横を通り抜け、三潮は消えた。
買い物袋を足元に置き、母は首を傾げる。
「あらやだ。お母さん、先生を怯えさせちゃったかしら」
「うん、野良猫みたいに警戒心が強いから」
「あー……確かに先生って、雰囲気とか猫っぽいわね」
納得した様子で台所へ向かう母の後ろを、十和は追いかけた。
「そうそうお母さん。教えて欲しいことがあるんだけど」
「あら、なぁに?」
「靴のサイズで、ヨーロッパ表記ってあるでしょう?」
友人に「お堅い」と評される通り、十和は几帳面で義理堅い。
翌日わざわざ美術室を訪れて、三潮へ靴のサイズに関する講釈を述べるのであった。
「先生は二十六センチですよね? イギリスサイズだと七・五に、アメリカサイズだと八になります」
「同じ英語圏なのに、何故差が生まれる。残りの〇・五はどこへ行ったのだ」
そして再び質問攻めに遭い、辟易する羽目となる。