3 「野生だったら真っ先に死ぬタイプだ」
昼休みの間、美術室や理科室のある特別棟に人影は少ない。
ほとんどの生徒は食堂あるいは、自分のクラスで昼食を取っている。
にもかかわらず二人の少女が、北向きの薄暗い、特別棟の廊下を歩いていた。
「クラスの中って暑苦しいし、埃っぽいし、せせこましいじゃん」
渋る十和を先導しながら、市松 八重が言った。
弁当の入った巾着をきゅっと抱きしめ、十和は不平顔になっている。
「だからって、美術室で食べなくても。油絵の具の匂いもするじゃない」
「窓開けたら気にならないって。こっちの方が、風の通りもいいからさ」
「それに授業が終わったら、施錠されてると思うんだけど」
「だからこその、十和の出番でしょ」
明るく染めた髪を揺らしながら、八重が振り返ってニッと笑う。
「だって美術のみっちゃん、十和にべた惚れだもん。あんたがいれば、すぐ開けてくれるって」
「私は先生に、とても困っているんですが」
むくれた十和の頬を、八重がつんとつつく。
「こんな古風でお堅い十和ちゃんに、入学からこっち、いつまでも未練たらたらな男も珍しいと思うよ?」
そして自分の弁当を小脇に抱え、空いた手で美術室の扉を叩く。
「みっちゃん先生ー、遊びに来ましたー! 十和も一緒っすよー」
十和の名前が出た途端、いつものごとく三潮が唐突に現われた。
生徒──特に十和のクラスメイトの間では、三潮の瞬間移動能力も公然の秘密となっていた。
だから八重も驚かない。むしろ、羨ましそうに見ていた。
「何の用だ」
低い声で言いつつも、三潮の視線はしっかりと十和を捉えている。十和も素早くそれに気付き、一歩退いた。
二人の無言のやり取りを眺め、八重は歯を見せて笑う。
「美術室で、お昼ご飯食べさせて欲しいなー、と思いまして」
「貴様の教室で食え」
「人が多いんすよ。十和も、こっちでのんびり食べたいって言ってます」
私言ってない!と十和が言うよりも早く、三潮の姿が消えた。
ややあって、美術室の扉が内側から開かれる。
鍵を開けた三潮が、いつもの怖い顔で顎だけしゃくった。
「好きにしろ。ただし、汚した場合には覚悟しろ」
「はーい、了解っす」
物怖じしない八重はうきうきと、三潮に続いて美術室へ入った。
「だしに使われた……不本意だわ」
十和も暗い顔になったものの、友人とのんびり昼食を取るのも悪くはない。
ため息をついて諦め、扉をくぐる。
そこでふと、三潮の白い手が絵の具まみれであることに気付いた。
「あら先生。お昼は食べていないんですか?」
「絵を描いていた」
ちらり、と三潮が十和を振り返る。
三潮はどうやら、副業として絵を描いているらしい。学生である十和に詳しいことは分からないのだが、届け出も出しているので問題ないとのことだった。
「先生って、描き始めると寝食忘れますよね」
「そうなのか」
「他人事みたいに言って。ほら、現に今も顔色悪いじゃ──ああ、言ったそばから」
十和のお小言の途中で、三潮はめまいを起こして尻もちをついた。
世話焼き気質の十和は眉を潜め、三潮の背を支える。
「こんな短距離を移動するのに、瞬間移動なんて使うから。罰が当たったんですよ」
「すまん」
ぷりぷりと怒られ、三潮はしゅんとなった。
八重も二人分のお弁当を抱えながら、渋い顔で三潮をのぞきこむ。途端に三潮のしょげた顔が、警戒心丸出しのそれに変化した。
相変わらず分かりやすいな、と十和は二人を観察しながら考える。
一方の八重は、三潮の不機嫌な顔などお構いなしに、ガンガン攻めた。
「あーあ、本当だ。みっちゃん、目の下のクマすごっ」
「隈とは眼窩下の黒ずみか?」
「そうそう」
「こんなもの、幼少の頃からある。そもそも何だその、『みっちゃん』とは」
「先生のあだ名。みんな呼んでますよ」
「皆とは、具体的に誰だ。高校周辺の住民にまで、その『みっちゃん』は浸透している、とでも、言、うの、か」
小学生のような揚げ足を取りながら、徐々に三潮がのけぞって行く。
目を回した彼を両手で起こしながら、十和が声を荒げる。
「お腹が空いているのに、頭を使って屁理屈こねないで下さいっ」
「す、すまん!」
自分の真後ろに十和がいて、しかも彼女に抱えられているという事実に今更気づき、真っ赤になった三潮は消えた。
そして数十センチ離れた床に再び現れ、腹の虫をぐうと鳴らした。
その醜態を、少女二人はじっと観察していた。
彼女たちの視線に気づき、主に十和を見ながら、三潮は弱々しい声で弁明する。
「今のは不可抗力だった。決して意図的に、露芝に触れたわけではない。誓って本当だ」
「分かっていますから。先生、何か食べましょう」
どこまでも必死過ぎるこの男に、十和はいっそ菩薩の笑みになる。
その笑顔にまたくらくらしつつも、三潮は鬼気迫る顔で首を振る。空腹で、今にも前後不覚になりかねないためだろう。
「……何かと言われても、あいにく私は食料の類を持ち込んでいない」
「あちゃー。野生だったら真っ先に死ぬタイプだ」
呆れる八重と、そして肩を落とす十和。彼女は小さく、ため息もついた。
「分かりました。私のお弁当でよければ、半分差し上げます」
三潮の色素の薄い、淡い茶色の瞳が見開かれる。
「良いのか?」
「はい、構いません。いつも多めに作って、友達と分けっこしていますから」
「露芝の、手作りなのか?」
変なところに食いついた三潮へ、十和はおっとりした顔を渋面に変える。
「そんなことより! 先生の方が身体も大きいんですから、後で購買なり外のコンビニなりに行って、他にも何か買って、ちゃんと食べて下さいね」
「コンビニへの途上にある正門前には、見張りの体育教官が居座っているのだが」
「あなたも先生でしょっ。同僚の先生に怯えてどうするんです。それでも怖ければ、瞬間移動で出かけなさい!」
親指を四本の指でくるんだ猫の手スタイルで、十和が木床をぱしぱしと叩いた。
指摘された本人は、また切れ長の目を丸くしている。
「なるほど。そのような用途もあったのか」
「それぐらい、指摘されずに気付いて下さい」
相変わらず焦点のずれた三潮の生き様に、十和は深く息を吐いた。
彼女へ弁当を差し出しながら、八重はにやにや笑う。
「十和、さすが」
「え、何が?」
「ちゃっかりみっちゃんを、餌付けしてさ」
「あ!」
気付いた時にはもう遅く。
三潮は行儀よく座り直しながら、お弁当を待っていた。
「せ、先生……」
「どうした、露芝?」
心なしか、その目はきらきら生き生きしていた。
このような状況下で
「やっぱりあげない」
と言えるほど、十和は冷たい人間ではなかった。
だからこそ、三潮に懐かれっぱなしなのだが。