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2 「私も薄々勘付いていた」

 そもそもの始まりは、四月の初旬にあった。

 鶴菱 三潮はその日、大いに困惑していた。

 しかし、今更何に戸惑うのか、と傍から見れば思えるほどに、彼の人生は不運と戦いの連続であった。


 秘密結社に誘拐され、人体実験を施され、そしてアジトを逃亡してから今日まで。

 追手どもを蹴散らし、住所を転々とする彼に、心休まる日などなかった。


 それでも小さな頃からの夢だった教師を目指し、彼は大学にひっそりと通い続け、どうにかこうにか教員免許を取った。


 しかし大学時代の三潮は、自身の生存と夢を守ることに必死であったため、全く気付いていなかった事実があった。


 それは彼が、極度の人見知りである、ということ。

 事実、大学においても彼に友人はいなかった。いわゆる「ぼっち」である。


 そんなぼっちがこの、辻が花高等学校の美術教員に赴任してしまったのだから、さあ大変。


 加えてこのぼっちは、極度の人見知りという特色に加え、「パニックになると瞬間移動してしまう」という厄介な癖も持っている。


 現に先ほどから、何度も美術室のドアをくぐろうとするのだが、一向に教室へ辿り着けない。

 扉を開けるたびにジャングルや、氷山や、紛争地帯の光景等が現れる。一度は現地の兵士に撃たれかけた。もう、扉へ手を伸ばすことすら怖くなる。


「朝の七時から挑み続けているというのに……私は一生、ここで立ち尽くすことしか出来ないのか?」

 天を仰ぎ、低い声でうめく。怒っているような顔だが、実際にはひどく落ち込んでいるのだ。


 昨年、実習生として訪れた際には、ここまで酷くなかった。

 初日の職員会議でうっかり、中庭に瞬間移動してしまったことはあった。だがそれも、イリュージョンということで片付けられた。


 やはり、高校生の未来の一端が己に委ねられている、という実感が、彼の能力を暴走させているのだろうか。


 泣きたい衝動に駆られた背中を、小さな手がぽんと叩いた。


「美術の先生ですよね? こんなところで何をしていらっしゃるんですか?」


 振り向いた先にいたのは、肩まである艶やかな黒髪に、おっとりとした顔立ちの少女だった。

 便所スリッパにしか見えない上履きの色から察するに、一年生らしい。

 思わず可愛らしい、と一瞬思ってしまい、三潮は慌てて無表情を作る。


「扉の立てつけが、悪いようだ」

「年代物の校舎ですもんね。扉も廊下も、全部木製ですし」

 ごにょごにょとした三潮の言い訳にも、少女は困った笑顔でうなずいてくれた。

 その笑顔を見ていると、泥水にまみれていた三潮の心が、少し暖かくなった、気がした。


 少女は、勝手にほんわかしている三潮を下がらせ、扉の両端に手を掛ける。

「おばあちゃんの家の扉も、立てつけが悪いんですよ……でもこう、上下に揺らしながら滑らせれば……ほら、開いた!」

 いともたやすく美術室へ通じる扉を開け、少女は三潮へ手を伸ばした。


 誰かに手を差し伸べられたことのない、友達いない歴すなわち年齢の三潮にとっては、未知の状況である。


 ぽかん、と少女の顔と手を見比べる三潮に微苦笑を浮かべ、少女が一歩進み出る。

「先生も入るんでしょう? ほら、入りましょう」

 そう言って彼の手首を握った少女の手の、なんと小さくて柔らかいこと。


 初めて人のぬくもりに触れた三潮は、感激のあまり

「美術室に一番乗りで……えっ?」

近くのマンション屋上まで、瞬間移動してしまった。それも、少女付きで。


 足元を見下ろせば、二人はフェンスの向こう側、屋上の崖っぷち部分に立っていた。少しでもふらつけば、地面まで真っ逆さまである。


「なに、これ……? だって、さっきまで、学校に……」

 真っ白な顔になってふらつく少女を、三潮は咄嗟に抱きとめた。

「不用意に動くな。フェンスまで戻るぞ」

「は、はい……」

 震える声が応じる。抱きしめれば、全身がカタカタと怯えている。


 彼女を元気づけるように、抱きしめる腕に力を込めると、少女もぎゅう……っと腕を握り返して来る。

 そのことに、三潮は図らずも赤面し、また例えもなく愛しい気持ちが湧き上がった。


「いかん……」

「え?」

「仔細ない。こちらのことだ、上だけ見ていろ」

 気持ちがこみ上げるのと同時に、鼻の奥にも熱き血潮がこみ上げてきた。

 要するに、鼻血が出そうなのだ。


「もう少しだけ、耐えろ。我が脆弱なる血管よ……耐えるんだ……」

 ぶつぶつ念仏を唱える三潮へ、少女は少し顔をひくつかせた。

「先生、なんだか怖いです」

「すまん、よく言われる」

 年長であることも忘れ、素直に謝った。


 そのまま二人でじりじりとフェンスまで後退し、それを乗り越え、屋上の安全地帯へ戻る。

 フェンスをまたいだ足が再び地面を踏んだ途端、少女は崩れ落ちた。

「怖かった……死ぬかと思った……」

 荒い息が紡ぎ出す、嗚咽混じりの声に、三潮は深い懺悔の念を覚える。


 表情はそのままだが、深々と彼女へ頭を下げた。

「すまん、私のせいだ」

「ど、いうこと、でしょうか? まさか、先生がテレポートしちゃった、ということですか?」

 自分で言って、ないない、と疲れた笑みで否定する少女へ、三潮は首を振る。


「私のいた結社では、テレポートの代わりに瞬間移動と呼んでいた」

「いえ……さっき、私、冗談で言ったんですが」

「本気で言っていないことは、私も薄々勘付いていた。だが事実だ」

 言うが早いか三潮は姿を消し、貯水タンクの上に再び現れる。


 目の前で見せられては、少女も信じるより他なかった。ただ、この非現実的な光景に、目を真ん丸にしていた。


 驚いた顔も可愛いらしい、などと三潮はのんきに考える。

 そこでまだ、自分は少女の名前を知らないことに気付いた。


「おい、お前。名前は」

 ハッとなり、少女は目を瞬く。

「と、十和……露芝 十和です」

「十和か」

「露芝って呼んでください。先生は……」

「鶴菱 三潮だ。好きに呼べ」


「では鶴菱先生。一つだけ質問が」

「何だ?」


 すぅっと、十和は息を吸い、そして怒号と共に吐き出した。

「どうしてその力を使って、さっき脱出しなかったんですか!」

「あ」

「あ、ではありませんっ。間違えて落ちちゃってたら、どうするつもりなんですか!」


 貯水タンクから十和の目前まで瞬間移動し、三潮は肩を落とした。

「すまん。露芝を抱擁して、舞い上がっていた」

「舞いっ……?」

 てらいのない告白に、今度は十和が真っ赤になる。


「加えて、鼻血が噴出寸前であったため、そちらに気を取られていた」

「先生、色々と爆弾を抱え過ぎです」

 呆れていいのか困っていいのか分からない十和は、なんだか泣き出しそうな顔になっていた。

 これが三潮と十和の出会いであり、十和にとっては苦悩の始まりであった。

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