18 「野戦病院でもやっていけるよ、きっと」
美術の授業は、三潮が不機嫌でなければ和気あいあいと進行する。
皆でわいわいと雑談をしながらの作業を、基本的に黙認されているのだ。
三潮の授業方針なのか、はたまた単純に放置しているだけなのかは、定かではない。
しかし本日に限っては、集中力の散漫は危険を呼び込む。
生徒たちは手に彫刻刀を持ち、銅版画を作成していた。
女子生徒たちは時折世間話を交わしつつも、視線は常時手元に落とされている。握っているものが凶器であるため、無意識に緊張感を保っているのだろう。
一方の男子生徒たちは残念ながら、全体的にそこまで利口ではなかった。
ことさら浅はかさを丸出しにしているのは、もちろん自他共に認めるおっぱい星人の六斗。
「ほらほら、見て見て! 俺、こんなに速く刺せるんだけど!」
机の上に広げた指の間を、彫刻刀で順番に素早く突き刺す遊び──いわゆるファイブ・フィンガー・フィレを、嬉々として披露していた。
「おおー、馬鹿だけどスゲー!」
「マジで命知らずだ! ホント馬鹿!」
「よく高校生になれたよなー」
周囲の友人たちも、自分の指ではないので無責任に囃し立てる。
三潮はそれには無関心で、他学年の提出物を黙々と採点している。そもそも六斗たちの声など、耳にすら入っていないのだろう。
女子生徒たちは男子共を、呆れ顔もしくは小馬鹿にした顔で眺めていた。
だが中には、真剣に不快感を示している者もいる。
「立涌君。見ていてヒヤヒヤするし、机に穴も開くし、迷惑です」
その生真面目たちの代表・十和が立ち上がり、怯むことなく六斗の正面に進み出る。
やっちゃったかー、と八重は自席で苦笑いだ。
三潮は十和の声がするなり顔を上げ、彼女の動向を密かに見守っている。まるで野生動物のような敏感さだ。
当の男衆は、十和の毅然とした態度に口笛を吹いた。
しかし慣れないことはするものではなく、調子っぱずれ、またはかすれた音色が室内に響き渡る。少々、いや随分と格好が悪い。
「やだなー、十和ちゃん! それって、俺のこと心配してくれてるの?」
六斗は流し目を送りながら、十和へとにじり寄る。
媚び売り満点の仕草に、彼女のおしとやかな顔がまた険しくなる。
「心配じゃなくて、迷惑だと言ってるんです」
「それって、愛情の裏返し的な?」
「は?」
「図に乗るな」
懲りずに体をくねらせる六斗へ、冷やかなトーンの二重奏が即座に撃ち込まれる。
声の主はもちろん、十和と三潮だ。
瞬間移動の無駄遣いをした三潮は、いつのまにやら六斗の真後ろで仁王立ちをしている。
ヤクザも裸足で逃げ出すであろう眼力にて、ジロリと六斗をねめつけた。
「指を切り落としたいのならば、鋸を使え」
本気にしか聞こえない提案に、生徒たちはゴクリ、と息を飲む。
六斗もふざけた笑みを引きつらせ、少し及び腰になる。
「も、もう、顔怖いよー。みっちゃん先生ってば、本気で言ってんの?」
「私は常に本気だ。付け加えるなら、指を氷水で冷やしておくことをお勧めする」
「やだやだ! みっちゃんのアドバイス、マジで怖い!」
首を振りながら、六斗は飛び退る。その先には十和がいた。
あわよくば十和へ抱きつこう、などと思ったのだろうだが、彼女の反射神経は思いの外優秀だった。無音でヒラリと身をかわす。
その回避行動と、三潮が六斗の首根っこを引っ掴もうと、手を伸ばすのはほぼ同時であった。
三潮の筋張った腕が、国宝級と称される十和の胸にふにっ、とめり込んだ。
幸か不幸か、十和の出で立ちはブラウス一枚の合服姿。
途端、赤くなる両者の顔。
「あっ」
一連のやり取りを見守っていた生徒たちが、思わず声を上げる。
それに呼応するように、三潮が血を吹き出した。鼻ではなく、口から。
ゴポリ、と赤い粘性の液体を吐き出す三潮に、今度は阿鼻叫喚の悲鳴が湧き上がる。
美術室は一転して、地獄絵図へと生まれ変わった。
「先生、あまりにも純情過ぎます!」
「そんなのでこれから先、やっていけるんですか!」
悲鳴に混じって、的確すぎる意見も飛び交っていた。
眼前で吐血された十和は、しばらくポカンとした後で我に返り、半開きの三潮の顎を無理矢理閉じさせた。
「飲み込んでっ。先生、飲み込んで!」
どうやら彼女も、ずいぶん混乱しているらしい。
「ぐっ……うぐっ」
真っ赤な顔で首をブンブン振りながら、三潮は「それは無理だ!」と無言の内に訴える。
食いしばった口の端から流れ続ける血に、十和も真っ青な顔で四方を見渡す。
そして窓際に放置されていた、黄色いプラスチック製の筆洗を発見した。この際、それが誰の持ち物なのかは関係ない。
すかさず走ってそれを引っ掴み、戻って来るや否や、三潮の顔を筆洗へ押し付ける。
「とりあえず、これに吐いて下さいっ」
「すま……ごほっ」
押し付けられた筆洗を抱え、顔を上げずに三潮はうめいた。
「こんな時まで、謝らなくていいですから。早く血を止めて下さい」
十和は返り血だらけのブラウスを気にする様子もなく、呆れ顔で彼の背中をさすりながら、洗い場まで連れて行く。
「十和、あんたスゴいよ……野戦病院でもやっていけるよ、きっと」
一同を代表し、八重がぽつりと呟いた。
そして彼女は、スプラッター映画に出演したような二人の出で立ちを眺め、快活な顔に精いっぱいの怒気を塗り込む。
八重は般若の顔で、いつの間にか傍観者の体を装っている、事の張本人を怒鳴りつけた。
「コラァ! 立涌! あんた何してんだ!」
「はひぃっ」
男兄弟と切磋琢磨して育った八重の怒声は、重い上によく通る。さり気なく部屋の隅へ移動していた六斗も、たまらず直立不動になった。
「知らんぷりしてんじゃあないよ! あの子たちの服血みどろにして、どうするつもりだ!」
「ちょっ……いくらなんでも、それ、ひどくない? 俺だって、悪気あったわけじゃないし。そもそも、ちょっとおっぱい揉んだぐらいで血を吐くって、どうかしてるでしょ?」
「みっちゃんがどうかしてるのは、今に始まったことじゃないでしょッ!」
「そうだ、そうだ!」
ギャラリーからも、次々に賛同の声が上がる。
三潮はその台詞に、すかさず不服を申し立てようとした。
「貴様ら、何をゴチャゴチャと──」
「大人しくして下さいっ」
しかし再び十和に頭を押さえつけられ、黙って血を吐いていた。
血まみれの二人も見据えつつ、八重はなおも六斗を糾弾する。その雄々しさは、アメリカ大統領にも匹敵していた。
「とにかく! 二人の替えの服は、あんたが用意しなさい! ってか、今すぐ服脱いで、みっちゃんに貸しな!」
「ええっ?」
端正な顔を最大限に歪めて、六斗が仰天する。
「そうだ、そうだ! 脱いでしまえ!」
だが八重も、クラスメイトたちも、彼の狼狽などお構いなしだった。
群集心理の恐ろしさを、六斗は十六歳にして痛感する羽目となった。
この後、十和は運動部の友人から体操着を借りることができ、事なきを得た。
一方六斗はワイシャツを、脱衣婆と化した八重によってはぎとられ、三潮へ貸与されることとなった。
服に頓着しない三潮は、存外素直にシャツを受け取った。二人の身長がほぼ同じ、という点も功を奏したのだろう。
ただ、
「なんだかこのシャツは……臭いな」
お気に入りの香水を振りかけたシャツに、身も蓋もない感想をこぼされ、タンクトップ姿の六斗は理不尽さを覚えるのであった。




