1 「思い出すのは勝手ですけど」
露芝 十和は、自室で頭を抱えていた。
本日宿題として課せられた、英文の日本語訳作業がはかどっていないのだ。
高校へ入学すると途端に勉強の難易度が上がる、とは社会人の兄から聞いていた。
しかしまさか、全十五ページの超長文を訳す羽目になるとは思わなかった。
小学生の頃から愛用している机に肘をつき、癖のない黒髪を左右に振ってひとりごちた。
「……私、日本人なのに、どうしてこんなことを……ううん、そんなこと言っちゃだめ。海外旅行に行く時とか、洋画を観る時に役立つってお母さんも言ってたし……ああ、でも、内容が駄目! 葉緑素のお話なんてされても、日本語でも理解できない!」
とうとう涙ぐみながらぱしぱしと、親指を四本の指の中へ入れた握りこぶし──いわゆる猫の手、あるいはおともだちパンチで英語の教科書を叩く。
極彩色の、アメリカン・コミック風の表紙がまた、腹立たしかった。
本へ八つ当たりする彼女の背後に、無音で人影が現れた。
「露芝。何を嘆いている」
「英語の訳が、うまくいかないんです……理科のお話を持って来られると、どうしても苦手で」
「貸してみろ」
「いえ、鶴菱先生の手をわずらわせ、る、のも……」
苦笑で首を振ったところで、十和は硬直した。
今、彼女は一人のはずだ。
兄は隣の県で独り暮らしをしているし、父は会社。そして母もパートに出ている。
その事実を思い出し、十和は強張った顔で振り返る。
そして自分の真後ろに立つ、ひょろりと細身の男性を見上げ、怒鳴った。
「鶴菱先生! 勝手に瞬間移動をしないで下さいと、前にも言ったでしょうっ」
「そう言われても、私も気が付いたらここにいた」
低い声で淡々と告げるのは、十和たちの高校で美術を受け持っている鶴菱 三潮だ。
髪も肌も虹彩も色素が薄く、ついでに顔や体の肉も薄い不健康そうな男だが、ある特技というか困った力を持っていた。
それは、現在地から空間を飛び越えて別地点へ移動する、瞬間移動の能力。
「いい年をした大人なんですから、ちゃんとコントロールして下さい! ああ、もう、また土足じゃないですかっ」
「失念していた」
外から見る分には慌てた様子もなく、三潮は履いていたスニーカーを脱いで小脇に抱えた。
十和がおっとりした顔を険しくして叱る通り、彼はその能力を持て余していた。
そして、祖母に叩き込まれた「貞淑」を守る十和にとって厄介なことに、この薄幸そうな男は彼女に惚れているらしい。
「私も制御したいのだが、困るとつい、露芝を思い出してしまう」
「思うだけなら、自由です。好き勝手に思い出していただいて結構ですが、体までこちらに来ないで下さい」
椅子の背に身を隠しながら、十和は黒目がちの瞳をきゅっと細めている。警戒心を隠すつもりなどゼロだ。
そんな十和の様子を無表情に見下ろしながら、三潮は一瞬だけ眉を下げた。
「すまん」
「……」
頑固な気質だが、同時に母譲りの世話焼き性分も併せ持つため、この心底落ち込んだ呟きを聞くと、心がつい痛む。
「生来の力ならば制御も容易なのかもしれん。だが後天的なもの故、どうも上手くいかない」
眉に唾を塗りつけて聞いた話だが、何やら怪しい集団から人体実験を受けて、超能力的なこの代物を手に入れたらしい。
真実の程は定かではないが、瞬間移動などという奇怪な力の前では、その胡散臭さもかすんでしまう。
十和はようやく、椅子から顔を出す。
「分かってますよ。先生に悪意はないって」
「天地神明に誓って、お前に害を与えるつもりはない」
「先生って言葉づかいとか、すごく固いですね。おばあちゃんみたいです」
くすり、と十和の表情がほころぶ。三潮も強張らせていた表情から、ほんの少しだけ力を抜いた。
「それで今日は、何に困ったんですか?」
「これなんだが」
三潮が差し出したのは、白い紙袋だった。
表面には緑色で「内用薬」と印字されている。
「顎関節症が酷くなり、先ほど歯科を受診した」
「先生ってよく、歯を食いしばってますもんね。さっきもギリギリ、噛んでいましたし」
「うそだ」
切れ長の鋭い目が、心の底から驚いたように見開かれる。
嘘が苦手な男だ、恐らく本当に自覚がないのだろう。
「本当ですよ。それで、このお薬がどうしました?」
「薬の服用方法として、『食間にお飲みください』とある。食間とはいつだ?」
この人、何歳だったかしら。
十和の思考回路が、ショートした。
「食間とは、いつを指す? 汁物を飲んだ直後か? それとも米を半分平らげた辺りか?」
「先生、待って。そういうことじゃないの、根本が違うの」
頭を振り振り、十和が制止の声を上げる。
「根本とは、どういうことだ? そうか、洋食との併用が勧められているのか?」
「違います。ご飯の内容は関係ありませんっ」
ぴしゃり、と十和がたしなめた。
「いい年をした大人なんですから、食間の意味ぐらい知っていてください。それに分からなければ、薬局の方に訊けばいいじゃないですか」
「尋ねようとしたのだが店内が混んでおり、どうしたものかと悩んでいたら……露芝のところへ飛んでしまった」
「先生……人見知りも直してくださいね」
肩を落とした十和は、いつの間にか正座をしていた三潮へこんこんと、食間とは食事と食事の間であることを説明した。
なお、十和は十五歳、三潮は残念なことに二十七歳である。