九
ロバートソン一家の中でマトを心配しているのはクリスティーナだけだ。元気がなく辛そうに動くマトの後姿を、いつも不安そうな顔で見ている。しかしクリスティーナが本気で医者を呼ぼうとした頃になって、マトは急に元気になった。食欲が出てきたようで食事の時は黙々と良く食べるようになり、茶会で残ったケーキに立ったまま噛り付いていることもあった。しかも砂糖が掛かった甘いケーキの上から蜂蜜をたっぷり掛けていたのには凛も驚いた。
少し前までやつれていたマトは段々ふっくらとしてきた。その様子にクリスティーナもようやく安心したようだ。でも凛はクリスティーナに「マトのお腹に子供がいる」とは言えないでいた。言ってはいけないような気がしたのだ。それでもマトのお腹が目立ってくるとそうもいかなくなってきた。ある日の夜、クリスティーナが部屋にやって来てマトを問い詰めた。
「お腹の子の父親は誰なの?」
ベッドに腰掛けたマトは俯いたまま黙っている。クリスティーナは溜息をついてマトの隣に座り、優しく諭すように語り掛けた。
「ねぇマト、子供を産むってことは女にとってとても重大なものなのよ」
泣きそうな顔で震えているマトの手を取った。
「言いたくないのなら仕方ないけど……相手の人はこのことを知っているの?」
「き、気付いてるはずです……」
マトがやっとの思いで告げた答えにクリスティーナは首を傾げた。マトが恋人に会いに出掛けて行くところなど見たことがないのだ。
クリスティーナがじっと見つめると、その視線を怖がるようにマトは目を逸らした。
「私はあなたを家族だと思ってるのよ。何でも話して欲しいの。あなたが苦しんでいるのに、放っておくなんて私には出来ない……ね、マト」
「奥様……」
マトの目に涙が浮かび、クリスティーナの手をすがるように強く握り返した。そしてマトは苦しそうに喘ぎながら口を開いた。
「奥様が……パリに行っていた時のことです……だ、旦那様がご存知です……」
「トビー? トビーが何を知ってるの?」
きょとんとするクリスティーナにマトは必死になって訴えた。
「だ、旦那様が……私に……」
クリスティーナの表情が曇り、眉根に皺を寄せた。
「まさか……」
呟いたクリスティーナはマトの手を離すと立ち上がり、蒼ざめた顔で部屋を出て行った。
ベッドの中でずっと寝た振りをしていた凛は、震えながらベッドに突っ伏したマトを見つめることしか出来ないでいた。
凛がうとうとし始めた時だった。悲鳴とも怒声ともつかないクリスティーナの叫び声が屋敷の中に響いた。目を覚ました凛はがばっと上体を起こし、同じように顔を上げたマトと無言でしばらく目を合わせた。千代丸は口を開けて眠ったままだ。最近急に背が伸びた千代丸は、昼間庭仕事で忙しかったのだ。全身が揺れているように感じるほど激しく心臓が暴れ始め、いても立ってもいられなくなった二人は揃ってベッドから降りて部屋を出た。
凛とマトは二階にあるトビーとクリスティーナの寝室へ急いだ。その間もクリスティーナの怒鳴り声が聞こえている。
「何てことなの! 何て恥知らずな!」
凛とマトは寝室のドアの前に立った。泣き叫んでいるクリスティーナにトビーも何か言っているが、くぐもっていて聞き取ることは出来ない。
「あの娘は黒人なのよ! よりによって使用人の黒人娘に手を出すなんて! お腹の赤ん坊がどうなってるのか、考えただけでおぞましいわ!」
ついさっきマトに「私達は家族だ」と言っていたクリスティーナが吐き捨てるように叫んでいる。お腹の子供の父親がまさか自分の夫だとは夢にも思わなかったのだろう。
ふとマトに目を遣った凛は戦慄を覚えた。マトは口を一文字に結び、寝室のドアを睨みつけている。身体の横できつく握った拳を震わせながら。
その時階段を上がってくる人影が見えた。アーサーだ。部屋からはまだクリスティーナの怒鳴り声が響いている。アーサーは階段の途中で立ち止まり凛とマトに手招きした。
「何かあったら俺が行くから、お前達はもう部屋に戻れ」
凛は俯いて険しい顔をしているマトの背中に手をあてて促した。階段を降りながらアーサーを振り返ると、眉間に皺を寄せ悲しそうな瞳でマトを見送っている。
部屋に戻りベッドの中で横になっていると、しばらくしてクリスティーナの怒鳴り声は止んだ。静かになっても凛は眠ることが出来ない。
「マトのお腹の子のお父さんは旦那様……」
凛は心の中で確認した。
「旦那様は奥様と結婚してるのに……何でなんだろう……」
将軍や偉い殿様ならともかく、凛が育った里は皆貧しくて妾を持つ男などいなかった。父は武士だが、死ぬまで妻は凛の母一人だった。
凛は首を巡らせてマトを見た。マトはドアの方を向いて横になっており、凛には背中を向けている。しばらく見ていたが、マトはピクリとも動かない。クリスティーナのあの掌を返したような言動に深く傷付いたのだろうということは凛にも分かった。
マトもまた眠れずにいるのだろうが、凛には慰めることも声を掛けることも出来なかった。