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「ねぇ千代、あなたマトに何か迷惑掛けたの?」

「ええ? 僕何にもしてないよ」

次の日の午後、凛は庭の掃除をしていた千代丸を問い詰めた。謂れもないことで責められた千代丸は目を見開き首をぶんぶんと振って否定する。

「それじゃ、マトに何があったか知らない?」

千代丸は俯き、上目遣いで凛を見た。理由を知ってはいるが、言って良いものかどうか迷っているようだった。

「千代!」

凛に威圧的に促され、千代丸はきょろきょろと辺りを見回した。アーサーはバケツを持って厩舎へと向かっている。周りには誰もいないが、千代丸は凛に顔を寄せると小さな声でおずおずと話しだした。

「あ……あのね、姉上が奥様と旅行に行っている時……夜中に旦那様が僕達の部屋にいたことがあったんだ……」

凛は眉根を寄せて首を傾げた。

「どうして旦那様が?」

千代丸は首を振る。

「分かんない。マトの叫び声が聞こえたような気がして目が覚めたら……旦那様がマトのベッドにいたんだ……酔っ払って、怒ってるみたいだった……」

「怒ってたって、マトに怒ってたの?」

「違うみたい。『こっちは仕事で忙しいのに』とか、『どうせパリでいい思いしてるんだろ』とか……奥様に怒ってたんじゃないかな。それで……手でマトの口を塞いでて……何でマトにあんな乱暴なことしたのかな?」

 凛は胸の中がざわめくのを感じた。ぎこちなく首を傾げると、千代丸は泣きそうな顔で続ける。

「僕怖くて……ずっと寝たふりしちゃったんだ。しばらくして旦那様は出て行ったけど、マトはベッドの中で泣いてて、裸で……」

「そのこと奥様に言ったの?」

具体的な行為の意味はよく分からないが、とにかくクリスティーナの耳には入れない方がいいということだけは分かる。千代丸は勢い良く首を振った。

「そのことは絶対、奥様に言っちゃダメだよ!」

凛が人差し指を出して言うと、千代丸は首を大きく縦に振った。


 それからもマトは、どこかおどおどとした様子で過ごしていた。トビーを怖がっているようだ。それは凛と千代丸も同じだった。今までトビーはとても穏やかな人間だと思っていたのだ。自分達の父と同じような。

 家に居る時の父はいつも穏やかで、怒ったところなど凛は一度も見たことがなかった。もちろん戦ではそんなことはないのだろうが、あの父が戦っている姿など凛には想像出来ないでいた。兄達に剣の稽古をつけている時はとても厳しかったが、怪我をさせることはなかった。ましてや女に対して声を荒げたこともない。父はたまに凛にせがまれて弓矢を教えたことがあった。母はそれを見ると父を叱った。

「あなた! 娘にそのようなことを覚えさせてどうするのですか!」

それでも父は声を荒げることもなく笑っていた。

「そう言うな。凛はなかなか筋がいいぞ」

 凛はそれが大人の男なのだと思っていた。トビーもそうなのだと思っていた。酒に酔っていたとはいえ、いつも優しいトビーがそんなことをするとはにわかに信じられないし信じたくもなかった。それでも、トビーは普段どおり何事もなかったかのように振舞っている。

「社長が喜んでいたよ。最近奥さんの機嫌が良いそうだ。旅行中、君が頑張ってくれていたんだね」

トビーが感謝の言葉を述べると、クリスティーナは高い鼻をツンと上げた。

「もちろん。あなたのために社長の奥様には気を遣ったわよ。でもパリは楽しかったわ。そうそう、奥様ったらね……」

トビーに褒めてもらったのがよほど嬉しかったのだろう、クリスティーナは少女のようにくすくすと笑いながら旅行の思い出話を始めた。

 上機嫌のクリスティーナには、トビーとマトが互いに目を合わせないようにしていることに気付けるはずもない。


 あれからマトは目に見えて元気がなくなった。いつも姿勢が良く溌剌としていたのに、口数も少なく俯いていることが多い。怪我は治ったはずなのに、きっと心にも深い傷を負っているのだろうと凛は心配していた。「大丈夫?」と声を掛けても、マトは黙って頷くだけだ。しばらく経つと食欲も落ちたようで具合が悪そうに見える。いつも虚ろな目でふらふらと歩いているのだ。

 ある日の夕食時、その日は週末で家族全員がテーブルに揃っていた。

「うっ!」

アンディーのグラスに水を注いでいたマトは気持ち悪そうに呻くと、急いでグラスをテーブルに置き手で口を押さえた。その様子を見たアンディーが嫌そうに顔をしかめる。

「何だよ? あっちに行けよ! こんな所で吐いてみろ、ただじゃおかないからな!」

マトはそのままダイニングを出て行った。凛は追いかけようとしたが、リサが空のグラスを差し出してきたため諦めた。

「マト、どうしたのかしら?」

クリスティーナが心配そうに凛に顔を向ける。凛は首を傾げながら躊躇いがちに答えた。

「あ、あの……最近具合が悪そうなんです。でも、訊いても何も言ってくれなくて……」

「変な病気に掛かってるんじゃないか? 感染されたらいやだなぁ」

アンディーが吐き捨てるように言うと、隣のリサも頷いた。

 昔からそうだが、アンディーとリサはあからさまに使用人を見下す態度を取る。あまりにも思いやりのない言葉に凛は悲しくなった。一方トビーは仕事のことでも考えているのか、ずっと上の空のまま黙々と食事を口に運んでいる。


 その日の夜、億劫そうにベッドに入ろうとしたマトに凛が話しかけた。

「ねぇ、マト。いったいどうしたの?」

マトはベッドに座り、黙って首を振った。夕食にもほとんど手を付けていなかったのを凛は知っている。今も相当気分が悪いように見えた。

「奥様が心配してたよ。医者に診てもらおうかって……」

それを聞いたマトが弾かれたように顔を上げた。黒く大きな瞳が不安そうに揺れている。

「そんな……病気じゃないよ……あの……」

長い沈黙の後、辛抱強く待つ凛の顔を上目遣いで見ながらマトが泣きそうな声で呟いた。

「子供が出来たんだよ……」

「えっ? マトのお腹に赤ちゃんがいるの? でも……だってまだ結婚してないでしょ? 赤ちゃんのお父さんは?」

マトは再び俯いて黙り込んだ。

 子供は結婚してから出来るものだと思っていた凛は不思議そうな顔でマトを見つめた。マトは顔を上げ、自分を見ている凛を涙で濡れた瞳で見返した。

「どうして……奥様は私をパリへ連れて行ってくれなかったの……」

「えっ?」

そのこととお腹の子供とは関係があるのか分からなかったが、マトの恨みがましい口調に戸惑った。

 クリスティーナが凛をパリへ連れて行ったのは、他の奥様達が皆黒人のメイドを連れてきたからだ。凛にはそれが分かっていた。他人と違うものを持っていることを見せたかったのだ、と。

 クリスティーナは自分が数年間住んでいた極東の国のことを誇らしげに話していた。そして凛と千代丸の可哀想な生い立ちを持ち前の豊かな感情表現で話し、その場の話題の中心になった。その二人の孤児を使用人とはいえ引き取って面倒を見ている自分達夫婦を慈悲深い善人だと社長の妻に印象付けたのだ。もちろん、このような善い行いが出来たのは、日本での事業をトビーに任せてくれた社長のお陰だと持ち上げることも忘れなかった。


 凛が何も言えずにいると、マトはベッドに横になり上掛けを頭から被ってしまった。子供が出来たということはおめでたいことのはず。しかし今のマトからは、とてもそんな雰囲気は伝わってこない。それは結婚していないのに出来た子供だからだろうか。子供の父親は誰で、どこにいるのだろう。凛はそんな疑問を心の中で繰り返しながら、すでにぐっすりと寝入っている千代丸の隣に潜り込んだ。


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