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 充実した日々は瞬く間に過ぎ、その年のクリスマス休暇も賑やかに終わった。凍てつくような寒さのある日の午後、アーサーの引く馬車で屋敷に戻ったクリスティーナはとても機嫌が良かった。トビーが勤める鉄道会社の社長夫人が開いた茶会に行っていたのだ。

「今度パリに旅行することにしたの」

夕食の席でクリスティーナがトビーに切り出した。

「社長の奥様がね、誘ってくださったのよ。私も一度でいいからパリに行ってみたいと思っていたの」

社長と言う言葉を聞いてトビーの眉がピクっと上がった。

「そうかい。そういうことなら、楽しんでおいで」

トビーの承諾を得てクリスティーナは少女のように喜んでいた。

 それからクリスティーナは浮き浮きしながら、旅行に持って行くドレスを選んだりして出発するまでの日々を指折り数えて過ごしていた。

「奥様、楽しみですね」

凛はクリスティーナが選んだドレスを畳んでスーツケースに入れながら声を掛けた。箪笥の前で振り向いたクリスティーナはキョトンとした顔をしている。

「何を言ってるのリン? あなたも行くのよ」

「えっ?」

驚いたリンにクリスティーナは楽しそうに言う。

「だって! ご一緒する奥様達は、皆自分のメイドを連れてくるのよ。私だって連れて行かなきゃ変でしょ?」

唖然としている凛をよそに今度は靴や帽子を選び始めた。

 クリスティーナのパリ旅行に凛も同行すると伝えると、マトと千代丸はとても羨ましがった。

「でも、奥様が旅行に行ったら、旦那様は寂しくなるだろうね……」

最近周りの人間に対して気配りを見せるようになった千代丸が呟いた。

 アンディーとリサは寄宿学校に通っており週末にならないと帰ってこないため、クリスティーナがいないということは使用人以外でこの家にいるのはトビーだけとなってしまうのだ。それでもクリスティーナは旅行をとても楽しみにしていて、そんなことは気にも留めていないようだ。

「奥様もきっと、たまには羽を伸ばしたいのよ。それに、一緒に行くのは旦那様の会社の方達だし、これもきっと奥様のお勤めなのね」

凛がそう言うと皆納得したように頷き、それぞれの仕事を頑張るように励まし合った。

 それから程なくして凛はクリスティーナと共にパリへ旅立った。



 ドーバー海峡をフェリーで渡り、フランスへ入ると鉄道でパリを目指した。社長の妻はでっぷりと太った女で、強いウェーブの掛かった赤い髪に真っ赤な口紅を付けている。大きな声で以前に来た時のパリの様子を自慢げに話していた。クリスティーナの他には、やはり鉄道会社の社員の妻が二人。時折「なんて素晴らしいんでしょう!」とか、「羨ましいわ!」といった賞賛の相槌を入れながら熱心に社長の妻の話を聞いていた。皆それぞれに一人ずつメイドを連れてきているが、凛以外は皆黒人で、物珍しそうに凛をじろじろと眺め回している。

 敗戦後のパリの街には軍人が多く混乱しているようにも見えたが、ホテルの中までは影響していないようだ。高級ホテルなどというものに初めて入った凛は、きらびやかなロビーや部屋の内装の豪華さに目を見張った。

 朝起きると、メイド同士で社長の妻が何色のドレスを着るのかといった情報交換をする。他の三人は社長の妻よりもほっそりしていて容姿が良い。社長の妻が不機嫌にならないように、同じ色合いのドレスを避けるためだ。そして街に出た時には、買い物をした荷物を持ってホテルへ運ぶ。パリ市内にどことなく漂う不穏な空気も、イギリス人女性四人組にはどこ吹く風だ。

 無邪気に女同士の旅行を楽しんでいるクリスティーナを見て凛も嬉しく思っていた。いつも家族のために明るく振舞っているが、トビーは仕事が忙しく、子供達もクリスティーナに対して無反応なことが多い。きっと寂しい思いをしていることも多いのだろうと凛はいつも気になっていたからだ。


 夢のような時間をパリで過ごし、上機嫌のままクリスティーナと凛は三週間の旅を終えて帰って来た。

「パリにはもっと居たかったけれど、やっぱり家族と会えないのは寂しいものね」

「今度はご家族でパリにいらっしゃれば、よろしいんじゃないですか?」

「それはいいわね。今度トビーに提案してみましょう」

家族に再会するのを楽しみにしていたクリスティーナだったが、家には使用人以外はいなかった。それでもクリスティーナは嬉しそうに買ってきた土産をテーブルに広げ、興味津々でそれを見ている千代丸に一つ一つ説明を始める。マトはその様子を遠巻きに見ているだけだった。

 馬車が着いた時、玄関に出てきたマトは凛の顔を見るなり安堵したような表情をしていた。きっとマトは忙しかったのだろうと凛は思った。もしかしたら、千代丸がマトに迷惑を掛けたのかも知れない、と。しかしクリスティーナに話し掛けられた時も、トビーが仕事から帰って来た時も、強張った表情のマトを凛は不思議に思った。


「……それで、ルーブル美術館には入れなかったのが残念だったのよ。でも……トビー? 聞いてる?」

パリでの出来事を語るクリスティーナの顔を見てトビーはにっこりと笑った。

「ああ。もちろん聞いてるよ。楽しかったようだね」

そう言って微笑んだトビーだが、クリスティーナが話している間は心ここにあらずといった感じだった。しかし、こんなやりとりはいつものことだ。トビーはいつも仕事のことで頭がいっぱいなのだ。そんなことは使用人の凛やマトにも分かっているが、トビーの返事を聞いたクリスティーナは明るい表情のままパリの話を続けた。


 仕事が終わり、部屋で寝巻きに着替えている時だった。

「痛っ!」

グレーのワンピースを脱ごうとしていたマトが声を上げて顔をしかめた。右手で左の肘をそっと撫でている。

「どうしたの?」

凛はランプの灯りの中でマトの腕に顔を寄せた。皮膚が擦り剥けて赤くなっている。

「怪我してるじゃない。大丈夫?」

「う、うん」

マトは不安そうな顔で俯いた。

「いったいどうしたの? 転んだの?」

凛が訊いたが、マトは俯いたまま首を振り、寝巻きを傷に当たらないように気を遣いながら被った。

 いつもはしなやかともいえる身のこなしは影を潜め、動きがぎこちない。よくは見えないが、きっと他にも打ち身などがありそうだ。凛は首を傾げたが、千代丸は黙ったまま不安そうな顔でマトを見ていた。


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