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 次の日からは忙しく活気のある毎日がやって来た。帰国したことのお披露目としてロバートソン家主催のパーティーが開かれると、凛が見たこともないような豪華な食事が並び、シルクハットを被った紳士と綺麗なドレスを着た婦人がたくさんやって来た。揃いのタキシードに身を包んだ楽隊が舞踏曲を演奏し、広い居間のあちこちで男女が組になり踊り始める。その優雅な宴に凛と千代丸は目を見張った。

 広い屋敷の中を隅々まで掃除するのは大変だが、仲良くなったマトと一緒に仕事をするのは楽しかった。千代丸はアーサーについて庭仕事の手伝いをするようになった。手伝いといいながらも、広い庭を楽しそうに走り回っている姿をよく見掛けた。

 花が好きなクリスティーナの為に、千代丸は摘んできた庭の花を屋敷の中に飾る。そうしてクリスティーナの喜ぶ顔を見るのが千代丸にとって何よりの楽しみだった。

 あっという間にロンドンの短い夏が終わり秋がやってくると、緑だった街路樹が赤と黄色に色付き石畳に枯葉の絨毯を敷く。爽やかに輝く夏とは違った穏やかな美しさだ。そんな中、アンディーとリサは寄宿学校に通うため屋敷を出て行く。

「このお屋敷を出るなんて、寂しくなりますね」

荷造りを手伝いながら凛はリサに声を掛けた。リサはにこりともせずに、ベッドに腰掛けた脚をブラブラさせている。

「別に、週末には帰るし。学校に居ても家に居ても、退屈なのは変わらないわ」

確かに毎日やることがたくさんある自分達使用人に比べ、アンディーとリサは何をしていてもつまらなそうで退屈そうだった。

 武士の家に生まれた凛だったが、暮らしは貧しく幼い自分にも仕事は山のようにあった。もちろん使用人など抱える余裕もない。一日などあっという間に過ぎていく。それに比べロバートソン家の子供達は、日々の雑用は使用人に任せ時間を持て余す。金があるというのは、こういうことなのだろうと凛は思った。

 トビーは日本に居た時と同様に、とても仕事が忙しいようだ。ロンドン市内には地上を走る列車だけでなく、地下にも鉄道があるということを聞いて凛も千代丸も驚いた。これからもどんどん鉄道網は大きくなっていくらしい。そういう理由もあり、トビーは仕事に追われているのだ。

 一方、クリスティーナはトビーの同僚の妻達と毎日のように茶会を開き、他愛もないお喋りを楽しんでいる。使用人の管理と噂話の情報交換。それがクリスティーナの生活の全てだ。

 アーサーも千代丸のことを可愛がっているのが分かる。芝の上に降り積もった落ち葉を千代丸と一緒に掃き集めながら、普段あまり表情のないアーサーの顔に笑みが浮かんでいることがしばしばあった。

「ねぇアーサー、この花は何?」

「これはセージだ。いい匂いだろう?」

千代丸は顔をくっつけんばかりに花に寄せた。

「うん、本当だ! いい匂い」

千代丸は嬉しそうに紫色のセージを摘み始めた。

 それから屋敷の広い玄関ホールも居間も芳しい花の香りに包まれた。クリスティーナは満足そうに頷くと千代丸の頭を撫で、茶会に集まってきた婦人達を誇らしげに居間に通す。誰もが綺麗に咲き誇る花々を愛でていたが、凛は窓から見える曇天の下に色付く木々の葉を見ていた。その紅葉が故郷を思い出させるのだ。

 青い空に広がる鱗雲、ナラやブナの木の下で拾うドングリ。小川には丸々と太った岩魚が泳ぎ、剣の稽古をする父と兄達の姿が見える。

「凛、凛」

千代丸と一緒に稽古を眺めていると、母の声がする。

「あなたはおなごなのですから、そのような物に興味を持つのではありません」

母に窘められ、凛は家に入り食事の用意を手伝う。

「リン、リン」

母に呼ばれた気がして振り向く。そこには不思議そうな顔をしたマトがいた。

「どうしたの? 早く持って行かなくちゃ」

ポットやカップの茶器が載った金属の大きな盆を少しだけ持ち上げて凛を促した。凛は自分が白い砂糖がふんだんにまぶしてあるケーキが載った盆を持っているのを思い出した。

「ああ、そうだね……」

凛は照れ臭そうに笑うと、マトに続いて婦人達が待っているテーブルに向かった。


 凛にはもう二度とあの日々に戻れないことは分かっている。それを思うと胸が締め付けられ、涙がこぼれそうになる。

 一日の仕事が終わり部屋に戻ると、芳しいセージの薫りが満ちていた。縁の欠けたグラスに生けられたセージが机の上に載っていたのだ。千代丸がにこにこと誇らしそうな笑顔で凛とマトを交互に見た。

「いい匂いだわ。ありがとう」

マトが千代丸の頭を撫でた。

「姉上は? 嬉しい?」

可愛らしい千代丸の顔を見て凛はありったけの笑顔で応えた。

「うん。もちろん」

 どんなに過去が懐かしくても過ぎてしまったこと。今はこうして千代丸と一緒に平和に暮らしている。

「もう、どこにも私達を傷付けようとする人達はいない」

凛は心の中で呟き、千代丸とはしゃぎながら一緒にベッドに入るとセージの香りの中で眠りについた。




 この屋敷に来てから初めてのクリスマスを迎えた。去年は船の中で過ごしたのだ。凛と千代丸がクリスマスというものを知ったのもその時だ。皆で部屋に置かれた樅の木を飾りつけるのは、凛にとっても千代丸にとっても楽しいものだった。しかし十四歳のアンディーだけはそれに加わらず、長椅子に脚を投げ出して本を読み、時折冷めた目をして家族を見ているだけだ。クリスマスツリーの下にはたくさんの贈り物。焼いた七面鳥やケーキ。ロバートソン一家が教会へミサに行っている間、クリスマスの準備に使用人は皆大忙しだ。

 この日常とは違う賑やかで明るい雰囲気に凛は高揚していた。しかもロバートソン一家を楽しませるための準備だけではなく、使用人たちにもいいことがあったのだ。

 クリスティーナは使用人にもプレゼントを用意していた。凛とマトには同じステンドグラスで出来た蝶のモチーフが付いた髪飾りを、千代丸には開くと絵が立体的に飛び出してくる仕掛けの付いた植物の図鑑が送られた。千代丸は本を抱え、部屋中を飛び回りながら大喜びしている。

「姉上! クリスマスって楽しいね!」

凛は頷いた。マトもニコニコしながら千代丸に頷く。マトは物心つく前にこの国に連れて来られ、その後は修道女に育てられた敬虔なクリスチャンだ。

 もちろんキリスト教徒ではない凛と千代丸だが、この日は夢のようでとても大事な思い出となった。この日のことは、いつか大人になって日本に帰ったとしても忘れないだろう。凛はそう思った。よほどの晴天でなければロンドンの夜空に星は見えない。それでも、この日は全てが光り輝いていた。

 家族を奪われた凛と千代丸であったが、ここでの暮らしは余りあるものだった。


 休暇が終わりアンディーもリサも学校へ戻ると、クリスティーナは千代丸に読み書きを教え始めた。クリスマスに貰った本を読めるようになりたいと千代丸が言い出したのだ。トビーと結婚する前は教師だったというクリスティーナはとても喜んだ。千代丸が庭仕事を終えるのを窓辺に座って待ちながら、今日は何から教えようかとカリキュラムを練っている。子供達は学校でトビーは相変わらず仕事が忙しいため、家で一人ぼっちのクリスティーナは暇を持て余していたのだ。

 そして仕事が終わり部屋に戻った後には凛とマトも千代丸からその日に覚えた言葉を教えてもらうのだ。マトも今まで読み書きはほとんど出来なかった。三人は夢中で読み書きを覚えていった。

 ロンドンの長い冬が終わり、春が来る頃にはクリスティーナが詩集を貸してくれた。ランプの灯りの中、三人でそのワーズワースの詩集を読むのが日課になった。

「ねぇ、カッコウてどんな鳥?」

マトに訊かれ、凛は指を顎にあてて考えた。

「えっと……確か白くて、春に鳴くの」

「本当に?」

自信が無さそうな凛に千代丸が訊いた。凛は「う~ん」と唸り声を上げて考える。

「そうそう、豆まき鳥っていうんだよ」

「鳥が豆を撒くの?」

凛は尋ねてきたマトに首を振った。

「ううん。その鳥が鳴くと豆を撒く季節が来たってこと。里のお百姓さんが言ってた。あとね、その鳥はお姫様なんだって」

「そんなに綺麗なの?」

「そうじゃなくて、自分で子供を育てられないんだって。他の鳥に育てさせるみたい。乳母が居るのよ」

思い出した凛が自信満々で言った。

「ふうん……」

マトはそのふっくらとした唇を尖らせた。

「私は嫌だな、いくらお姫様でも自分の子供を自分で育てないなんて……将来子供が産まれたら、私は片時もその子から離れない。だって寂しい思いはさせたくないもん」

きらきらと輝く大きな瞳、小さな卵形の頭を支える細くて長い首。熱っぽく語ったマトはとても綺麗だった。

 その後もクリスティーナはたくさんの蔵書の中から、三人の気に入りそうな本を選んで貸してくれた。仕事の後に読むので一冊読み終えるのに時間が掛かったが、それでも読み書きが出来るようになった三人にとってはこの上ない喜びだった。


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