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 長い長い船旅を終えてロンドン港に着いた時には季節は夏になっていた。爽やかな気候だったが、陸に降りた凛の足元はフラフラしていて異国の地を楽しめる余裕などない。波に漂っているような感覚が抜けないのだ。千代丸も似たような状態だったが、それが面白いのか踊っているようにおどけてみせる。

 出港してからしばらくの間、凛は気分が悪くて仕方がなかった。それが次第に慣れて治まってくると、今度は皆が噂する海賊というものに怯えていた。彼らは船を乗っ取り、人を殺し、物を奪うと聞いて、家に押し入ってきた山賊のことを嫌でも思い出してしまったからだ。夜、隣にいる千代丸の寝顔を見ながら、他人の足音や話し声、あらゆる物音に耳を澄ましていた。

 無事に到着して安堵したのも束の間、馬車から見える町並みに圧倒された。通りを行き交う様々な人種のたくさんの人々。石で出来た高い建物が壁のように連なっている。まるで別世界へ来てしまったようだ。千代丸も隣で珍しい物を見つけるたびに歓声を上げていた。

 やがて街の喧騒が遠のき、馬車は邸宅が建ち並ぶ郊外へ入った。どの家にも庭園があり、夏のこの季節は青々とした芝生とたくさんの葉を付けた大きな木が立っている。凛が見たこともない綺麗な花を付けている木もある。

 美しい町並みの中、一軒の邸宅の前で馬車は止まった。門の向こうには整えられた芝、正面の入り口に続く長い石畳を蹄と車輪の音を響かせて馬車は進む。庭園にはアーチの付いた薔薇の植え込みがあり、女性を象った彫刻が中央に飾られた池まである。石造りの重厚な二階建ての母屋にはたくさんの窓が整然と並び、夏の日差しを和らげる雲が薄く敷き詰められた空を映している。それは横浜の洋館がまるでミニチュアに見えるほど大きく、まさに邸と呼ぶのにふさわしい感じがした。

 玄関の前に馬車が止まると、背の高い男と灰色のワンピースに白いエプロンを着けた女が出迎えた。男の方はロバートソン一家と同じ白い肌だが、髪と目の色は黒い。そして女の方は真っ黒な肌をしていた。港からここまで馬車で送ってくれた初老の男も彼女と同じ肌をしている。アーサーという名前の彼は庭師だと言っていた。

「お帰りなさいませ」

黒人の女が恭しく重そうな扉を開けると、馬車を降りたロバートソン一家の四人がはしゃぎながら家に入っていく。鉄道会社の社員でトビーの部下だという背の高い男も一緒に家の中へ入って行った。

 アーサーと凛と千代丸の三人で馬車から荷物を下ろしていると、黒人の女が近付いてきた。黙ったままジッと凛を見ている。重い鞄を持ち上げようとしていた凛は、その視線に怯んで一歩後退った。

「彼女はマト。この家のメイドだ。マト、日本から来たリンとチヨだ」

アーサーが凛の手から重い鞄を取りながら紹介した。

 マトは黙って頷くと馬車から荷物を取って家に向かった。凛は手を休めることなくマトの後姿を見送る。歳は幾つ位なのか分からないが、背が高くほっそりとした長い手足での軽やかな身のこなしは、どこか猫科の動物を思わせるしなやかさがある。頭のてっぺんでまとめたちりちりとした髪の毛、大きな目とぽってりとした唇。それらは何もかもが自分とは違う。

 荷物を家に運び込みながら、凛は美しいマトを羨望の眼差しで見つめた。


 邸に入ると広い玄関ホールがあり、正面には二階に続く階段が緩やかなカーブを描いていた。階段の凝った装飾が施された手摺も床も、どこもかしこもピカピカに磨かれている。赤い絨毯の上も塵一つ落ちていない。

 縁に金の装飾が施された白い壁の一つには大きな肖像画が掛けられていた。トビーに似ているが、その温和な顔を少し厳格にし、十歳ほど老けたような男性が描かれている。堂々と胸を張り、勲章がたくさん付いた赤い軍服を着ている。

「トビーの父親だ。十年ほど前に亡くなったがね」

肖像画を見上げている凛にアーサーが言った。

「留守の間この邸を任されていたんだが、異国の地で暮らすトビーを心配していたんだ。無事にお戻りになって……本当に良かった」

アーサーは肖像画を見上げながら、トビーの父親に語りかけるように呟いた。

 誰からも愛され、こんなに大きな屋敷に住めるトビーを凛は羨ましく思った。そして日本には、遠い異国に来た自分と千代丸のことを気に掛けている者はいるのだろうか。きっといないだろう。そう思うと凛は少し寂しくなった。


 その日の夕食を終えたロバートソン一家が長い船旅の疲れを取るため早めに床に着くと、凛と千代丸はマトに案内されて一階の奥にある使用人部屋に入った。部屋の中央に二つのベッド、壁際には箪笥と机と鏡がある。ここがマトと凛と千代丸の寝室だ。

 大きな屋敷に興奮してはしゃぎ回った千代丸がベッドに入った途端に寝てしまうと、凛は二人の数少ない荷物を箪笥に片付けた。

「あんた、幾つ?」

ベッドに腰掛けたマトが凛に尋ねた。

「あ……十歳。あの、マトは?」

マトは首を振って肩をすくめた。

「さぁ、よく分からないけど、十五にはなってると思う」

マトは早口で素っ気無く答え、凛は困惑して首を傾げた。

「えっ? 分からないって? 自分の歳が分からないの?」

「親はいないの。だからいつ生まれたのか知らないの」

荷物を入れた箪笥を閉め、凛は千代丸が寝ているベッドの端にマトの方を向いて腰掛けた。

「それじゃ……どこから来たの? 故郷はどこ?」

「アフリカのどこかって聞いた」

凛は初めて聞く名前にもう一度首を傾げた。

「アフリカ? それはどこにあるの?」

「ここからずーっと南にあるの。私は赤ん坊の時に連れて来られたから全然憶えてないけど。内戦があったらしいの。私は小さな村の中で泣いてるところをイギリス軍に保護されたらしいわ。すぐ傍で母親らしき女の人が死んでたって。それしか聞かされてないの。国の名前も聞いたけど、今はもうないんだって。だから……忘れちゃった」

聞いてはいけないことだったかと思ったが、マトはまるで他人事のように平然と話している。小さすぎて全く記憶のないマトにとっては、他人事も同然なのだろう。

「それからは孤児の施設にいて、三年前からこの家で働いてるのよ」

 ランプが投げ掛ける仄かな灯りの中で自分達の境遇を話し合い、互いに欠伸が出たところでベッドに潜り込んだ。

 うとうととした意識の中で千代丸の頭を撫でながら考えていた。自分がどれくらい遠くに来てしまったのかはよく分からないが、この立派で大きな屋敷に千代丸と住めることが夢のようだった。いつか大人になったら、千代丸と日本に帰れる日も来るだろう。それまでここが自分達の家になるのだ。


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