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四十九

 サクラが産まれてから二ヶ月ほどは穏やかな日が続いた。最初のうちは昼夜問わず泣いて乳を求めていたサクラも、この頃では夜はまとめて眠るようになってくれた。そうなると凛の体力も回復し、小屋の掃除や洗濯、炊事もこなすようになった。それでも手の掛かるサクラは凛とカイを一日中振り回す。静寂の中に突然響き渡るサクラの泣き声で、小屋は嵐か竜巻の真ん中に放り出されたようになる。抱いてあやしても泣き止まない時はサクラを小屋の外に連れ出す。緑が濃くなった木々の間を吹き抜ける風が頬に触れると、サクラは決まってぴたりと泣き止んだ。葉が擦れ合う音、活発に虫達が飛び交う羽音、そういったものに静かに耳を澄ましている。

「ずっとこの山で暮らすことが出来たらいいのに……」

柔らかなサクラの頬に自分の頬を付け、凛は目を閉じてそう願った。

 その時、凛の頭上を横切る影があった。ふと顔を上げると一羽の鳥が森の中へ消えていき、その直後にカッコウの鳴き声が響いた。その声を聞いているうちに凛の鼓動は早まり、息が苦しくなっていった。身体が強張りサクラを抱く腕に力が入る。

「やめて……やめて……」

凛は呟いていた。声のする方に背を向け目を閉じたが、カッコウは鳴くのを止めない。それは黒衣を纏った預言者の不吉な言葉のように凛を苦しめた。

「やめて! 私はこの子を手放したりしないわ! あなたとは違う! あっちへ行ってよ!」

凛は草の上に膝をつき、サクラを抱き締めながら泣き叫んでいた。母親の緊張を感じ取ったのだろう、サクラも火が付いたように泣き始めた。

「リン!」

二人の泣き声を聞いたカイが家から飛び出し、肩を震わせている凛に駆け寄った。

「どうしたんだリン! 何があった?」

凛は涙で顔じゅうを濡らしながら首を振った。

「サクラは……この子は誰にも渡さない……」

泣きじゃくる凛の様子にカイは眉をひそめた。どうして急にこんな風になってしまうのか、まったく訳が分らない。子供を守らなければという重圧で不安定になっているだけなのか。

「リン、大丈夫だよ。誰もサクラを取ったりしない! そんなこと俺がさせないよ!」

しゃくり上げながらカイを見上げると、いつの間にかカッコウの鳴き声は止んでいた。

 カイと一緒に小屋の中へ入った凛は、忍び寄る不吉な影を締め出そうと裏口の扉を固く閉ざした。


 その日の夕方、突然森の中に雷鳴のような轟音が轟いた。小屋の中で寛いでいた凛とカイは互いに顔を見合わせた。カイは急いで暖炉の火を消すとランプを持ち、サクラを抱いている凛を屋根裏に促した。その間も轟音は止むことがない。カイは屋根裏の窓から外を覗き見た。既に闇に沈んだ山の中、その森の一角が赤く光を放っている。ナバホ族のキャンプがある方角だ。カイは泣き出したサクラに乳を含ませる凛に顔を向け、それからまた窓に向き直った。カイの心臓が早鐘を打つ。漏れ出しそうになる叫びを必死で抑え込み、大きく息をつくと汚れた窓が白く曇った。

 屋根裏で朝を迎えた頃には、山はいつもの静けさを取り戻していた。カイはずっと窓の横に立ち、緊張した顔で辺りを窺っている。ナバホ族のキャンプ地の方からは朝陽に映った立ち昇る煙が見える。凛が不安そうに顔を上げた。

「俺、様子を見てくる。俺が戻ってくるまで、ここに隠れていて」

逆光になり、カイの表情はよく見えなかったが、その声音には有無を言わせぬ響きがあった。不安であり何よりもカイが心配だったが、凛は頷くしかなかった。

 カイが行ってしまうと、凛は柱に背中を預けて身体を縮め、サクラを覆い隠すように抱き直した。


 カイはナイフを咥え、山の中を慎重に進んでいった。初夏らしく虫が飛び交い、鳥達がさえずる森には平穏が戻っているかのように見える。しかし、やがて何かが焼け焦げるような臭いがカイの鼻をついてきた。

 シャナンのウィキャップが見えると足を止めた。

「シャナン……」

カイは立ち竦んだまま呟いた。ドーム状のウィキャップは半分が焼け落ちていた。火は消えているが、まだ嫌な臭いのする煙が立ち昇っている。入口の前に回ると、機織機が倒されていた。作りかけの毛布の上には踏みつけられた跡がある。そして羊小屋は壊され、その周りには数頭の羊の死骸が転がっていた。刈り取る寸前の豊かだった羊毛が無残にも血と土にまみれている。シャナンの姿はない。

 異臭の立ち込める木立の向こうへと足を踏み入れ、カイは目を覆いたくなるような惨状を目の当たりにした。燃えカスと化した幾つものウィキャップ、銃弾を浴びて皮一枚で幹にぶら下がる枝。そして、そこらじゅうに死体が転がっている。男も女も、老人も子供も。撃たれた者、サーベルで切り刻まれた者。川岸では焼け爛れた死体が上半身だけ水に浸かっている。

 静かな森の中には、いまだに燻っている火が木を焦がす音、そして死肉に群がり始めた虫達の羽音が聞こえるだけだ。人間の声は聞こえない。

 夕食の最中だったのだろう。焚き火の傍では鍋がひっくり返っており、その周りには食器が散乱している。その上に降りかかった赤黒い血、木の幹にも草の上にも。そして大柄な老女が地面に蹲って死んでいた。顔は見えないが、その姿を見間違うはずはない。恩人のシャナンだ。背中の刀傷は小さいが、身体の下は血の海だった。シャナンはその胸に小さな男の子を抱えていた。きっと彼女の孫なのだろう。シャナンの肩越しに見える五歳にも満たないその子は目を見開いて死んでいた。この子を守るため身を挺したシャナンの背中に突き刺されたサーベルは、二人を一緒に貫いたのだ。

 この子が最後に見たものは何だったのか。魂を失ったまま恐怖に凍りついた顔でカイを見上げている。カイの胸は掻き毟られたように痛んだ。昨夜、轟音が聞こえた時にこうなることは予測がついていたのだ。それでも凛とサクラを守るのに精一杯で動くことができなかった。

「ごめんよシャナン……助けてくれたのに……」

「おい」

不意に声がして驚いたカイは、ナイフを構えて辺りを見回した。

「ここだよ。若造」

少し離れた場所の木に背中を預けて座り込んでいる男がいた。まさか生きている者がいるとは思っていなかったので、カイは慌てて駆け寄った。

 その男はインディアンだったが青い軍服を着ていた。斥候だ。しかもその男の顔は忘れるはずがない。凛の儀式の最中にグローバー大佐と共にやって来た斥候だ。カイの内側に暗く激しい憎悪が込み上げてくる。鋭く睨みつけるカイの眼差しを受けて、トパハは少しだけ首を傾げた。

「俺とどこかで会ったか?」

この男のせいで自分は部族を失ったのだ。なのに、こいつは自分のことなど憶えてもいない。今まで感じたこともないような憤りにカイはぎしぎしと奥歯が砕けそうなほどに歯を軋らせ、その隙間から絞り出すような声を出した。

「軍隊の犬に成り下がった奴に、知り合いなんかいるもんか……」

剝き出しの敵意も意に介さぬ様子の無表情でトパハはカイを見ている。

「その話し方、お前ナバホじゃねえな。アパッチか?」

カイが黙ったまま睨みつけていると、トパハは口元を歪めて短く笑った。

「まあいい。それより、悪いが俺の上着のポケットから煙草を出してくれねえか? ずっと吸いたくて堪らなかったんだ」

この男が何を企んでいるのか分からず、カイは近づこうとはせずに身構えた。警戒しているカイを見てトパハは自嘲気味に笑うと、苦しそうに顔を歪めた。

「大丈夫だ、何もしやしねえよ。見りゃ分かるだろ、腕も脚も動かねぇんだよ」

見ればトパハは酷い状態だった。傷だらけの両腕は身体の脇にだらんと垂れ下がり、被弾している脚も前に投げ出されている。特に腹の傷の周りには、まだ乾いていない血がべったりと付いている。動けないというのは本当なのだろう。それでもカイは用心して軍服の胸ポケットから紙巻煙草を出した。

「こ、これは軍隊が?」

昨夜の雷鳴のような轟音を思い出したカイが躊躇いながら尋ねると、トパハは無表情のまま頷いた。

「そうだ。ガトリングって銃身を何本も束ねたような銃でな。飯の時間を待って、こいつらが集まったところを一網打尽だ。その後、火を点けて回った。ひでえよなあ……奴ら、銃の威力に満足して笑ってやがった。こりゃ、人間のすることじゃねえよな……いや、こんなことするのは人間だけか……」

「そんなに強力な武器がある軍隊に付いてて、何であんたがやられたんだよ?」

カイは火を点けた煙草の煙を吐き出し、それをトパハに咥えさせながら訊いた。トパパは待ちかねた煙草を心底味わうように深く吸い込むと、小首を傾げ鼻から煙を吐き出した。

「そこで一人、坊主が死んでるだろ? そいつにやられた」

 トパハの視線の先を見遣ると、カイの膝ほどの高さに茂った草の中に血塗れの死体があった。銃弾で蜂の巣にされたその身体は、坊主と聞いていなければ性別も定かではないが、大きさからまだ成熟しきっていないということが分かるだけだ。トパハは遠くを見るような目で昨夜の出来事を思い出しながらゆっくりと話し出した。

「何でなのか分からねえけど、この坊主を見た時に守らなきゃいけないって思ったんだよな。自分のせがれに見えたのかも知れねえ。こんなとこに居るはずもないんだがな……駆け寄ったところをナイフで刺された。その後はもう訳が分からねえ。気が付いたら、あちこち撃たれてた」

 改めてこの惨状を呆然と見ているカイにトパハは視線を戻した。その目は次第に虚ろになってきている。

「ところで若造、お前に家族はいるのか?」

カイは弾かれたように振り返り、眉間に皺を寄せてトパハを睨んだ。凛とサクラの存在をこの男に知られるわけにはいかない。しかしトパハはカイの動揺を察した。

「どうやらいるみてえだな。いいか若造、絶対に収容所なんかに入るんじゃねえぞ」

カイは困惑した目でトパハを見つめた。これまで多くの同胞を軍隊に引き渡してきた男の言葉とは思えない。

「あんたはいったい……」

「俺もアパッチだ。マスカレロだよ。俺達が送られた場所は酷かったぞ……あそこの太陽はどこか狂ってるんだ。全てを焼き尽くそうとしてる。しかもそれを遮る木も一本も生えてねえ。そんなだからティピーも作れねえ。皆は地面に掘った穴ん中で暮らしてる。そんな生活が想像出来るか? あんなとこにいたら、皆数年のうちに死んじまう。俺の女房と子供達みてえにな……」

トパハの表情が歪んだ。この男の顔に感情らしきものが表れたのをカイは初めて見た。しかしそれも一瞬のことだった。吐き出した煙草の煙が晴れると、安っぽい手品のように元の無表情に戻っていた。

 カイは最初にこの男に対して抱いていた印象が徐々に変わっていくのに気が付いた。もちろん全てを許すなど出来るわけがない。しかし、もし自分がこの男の立場なら、やはり同じことをすると思った。凛とサクラのために、なりふりなど構っていられないだろう。

「そうだ。若造、お前にいい物をやるよ。俺の腰についてる袋を持ってけ」

トパハに言われ、カイは躊躇いながら血に塗れた小さな革の袋を取った。大きさの割りにずっしりと重く、それもそのはずで中には相当数の銀貨が入っていた。カイは戸惑い、眉をひそめてトパハを見た。

「でも、これ……」

「いいんだ。どうせ俺はもう金なんか使えねえ。逃げ回るにゃ金があった方がいいだろう」

確かにそうだ。金があれば遠くへ逃げることも出来るし、食料や衣服を調達するのに危ないことをしなくて済む。頷いたカイにトパハは虚ろな眼差しを向けた。

「その代わりと言っちゃ何だが、頼みがある……このくそ忌々しい軍服を脱がせてくれ」

 被弾し、ナイフで刺された軍服は血塗れで既にボロ布のようだ。それでもカイはトパハの前にしゃがむと軍服の袖口にナイフの切っ先をあて、内側から上に向かって切り裂いた。反対側の袖も同じように切り裂き、脱がすというよりも引き剥がした軍服を脇へ投げ捨てた。軍服の下に着ている血に染まった綿のシャツに目を凝らす。ナイフで刺された腹の傷はかなり深い。一晩生きていられたのは奇跡だろう。こんな軍服を纏ったまま死にたくないという強い念がそうさせたのか。

 剥ぎ取った時に少しばかり身体を動かしたせいだろう、トパハは苦しそうに息を喘がせている。それでも汗が伝い落ちる痩せた頬を微かに持ち上げて笑った。

「ありがとよ。それと、もうひとつ……」

トパハは浅く長い息をついた。


 カイは燃やされなかったウィキャップの一つからバッファローの皮で出来た大きな天幕を剥がし、トパハの物だったライフルと拳銃、弾薬帯を包んだ。それを両手で抱えると虐殺の現場を後にした。静寂を取り戻した森の中には、カイによって戦士の証明である両頬を繋ぐ黄色い条をつけられたトパハが木に凭れ、その顔に安らかな微笑を浮かべて息絶えていた。


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